3月26日礼拝説教「神の民、神の家族」

聖書 エゼキエル書37章11~14節、ヨハネによる福音書11章17~27節

死と向き合わなければならない私たち

愛する皆さん、主なる神は私たちを愛しておられます。

私たちは一生の間に多くの人の死に出会います。若い時はおじいさんやおばあさんの死に出会い、壮年の時期には親しい友人の死に出会い、高齢になればお父さんやお母さんの死に出会わなければなりません。家族、友人、教会の兄弟姉妹など親しい人の死は遺された者に大きな喪失感をもたらします。

そしてまた私たちは自分の死に向き合わなければなりません。若いうちは死は遠い存在でも歳を重ねると死を身近に感じるようになります。若い人でも友達や家族の死に出会えば死に向きあわなければならなくなります。死とどう向き合うかは私たちの人生にとって避けては通れない重要な問題です。

 

兄弟の死に絶望するマルタ

ヨハネによる福音書は11章1節から44節までに、マルタとマリアの兄弟ラザロの死のことを詳しく書いています。今日はその中の17節から27節に聞いてまいりたいと思います。ラザロの死は、死の前に無力な存在である人間の現実を露わにしています。ラザロが病気に罹ってしまったときマルタとマリアは洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川にいたイエス様のもとに使いを送って、ラザロが死にそうな病気であることを伝えました。そこまではだいたい1日の距離であったと言われています。イエス様はラザロの様子を聞きましたが「病気は死で終わるのではなく、神の栄光のためである」と言われて、なお2日ヨルダン川の近くに滞在し、それからエルサレムの都から15スタディオン、すなわち3kmほどのところにあるベタニアの姉妹のもとに向かいました。それは1日かかりました。その時ラザロは既に死んで4日が経っていました。4日というのは当時は人がもう間違いなく死んだことを確認するための日数でした。ラザロはすでに墓に葬られていました。

マルタはイエス様を迎えに行ってイエス様に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いました。この言葉はイエス様の到着を歓迎していたというより、イエス様が来るのが遅かったという怨みの言葉でありましょう。兄弟ラザロはすでに死んでしまったのです。人間にとって死はどのようにしても戻すことのできない大きな断絶です。死んでしまった者はもう戻っては来ません。当時は洞窟の中に埋葬しましたからラザロの体は腐敗し、においがしていたことでしょう。もうラザロが生き返る望みはこれっぽっちもありません。「イエス様、あなたの到着は遅かったのです」。マルタはそう言いたかったのでしょう。

マルタの信仰

彼女はその言葉に続けて「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言いました。これはとても不思議な言葉です。怨みの言葉の後に、この言葉が続いています。これはどういうことなのでしょうか。「イエス様、あなたが神に求めたならば、神はその求めに答え、ラザロを回復させてくださったはず。しかしもうラザロは死にました。あなたに用はありません」と言っているのではありません。そうかといって、「イエス様、あなたは死にも打ち勝つお方なのだから、どうぞラザロを生き返らせてください」と言っているのでもありません。なぜならこの後の出来事はマルタにとって予想もできないことだったからです。

ここでのマルタはいわば<イエス様を信じていた>ということなのです。ローマの信徒への手紙4章18節に「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」と書かれているように、マルタはどのような望みも抱くことができないラザロの死の現実を見つつも、なお、イエス様に望みを抱いて、イエス様を信じたのです。

しかもそれはイエス様ならできるという期待ではありません。イエス様が祈ってくださるならば、神の業が現れ、神の栄光が示されるという希望なのです。人間の可能性ではなく神の可能性を信じています。イエス様は神の権能をすべてお捨てになってまことの人としてこの世に来られました。しかしイエス様は父なる神に願い求めてくださり、父なる神はその願いをお聞きになられます。

私たちの信仰もマルタの信仰に連なるのです。私たちの頭ではどんなに考えても解決できないことや取り返しのつかないことであってもイエス様を信じて願うならば神はその願いをかなえてくださるという希望を持つことができるのであります。

マルタの信仰に応える主イエス

イエス様はマルタに「あなたの兄弟は復活する」と答えてくださいました。ここでは生き返るという意味であって、終わりの日に復活することではありません。しかしそれは人が復活することの徴(しるし)であります。

マルタはその言葉を聞いて「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)と返しました。マルタの言葉には「そのことは知っています。終わりの日の復活の時に復活するということでしょう」という響きが感じられます。ユダヤの敬虔な人々は人間の歴史だけではなく、必ずよみがえりの命にあずかる終わりの日が来ると信じていました。これは確かなことです。マルタもそれを信じていましたから、このように答えたのです。

それに対してイエス様は何と答えられたか。「わたしは復活であり、命である。」と答えられました。ここでイエス様はマルタの誤解を解こうとはなさいませんでした。あなたの言っているのは世の終わりのことだろうが、私が言っているのは、ラザロを今すぐ墓から呼び出すことだ、と言われたのではないのです。

イエス様の言葉はもっと正確には「私<が>復活であり、命である」という言葉でした。イエス様ご自身が復活、命そのものだと言われます。イエス様がこの言葉を言われた時、イエス様はご自分の十字架を見ていたことでしょう。虐げられた者、貧困の者を救い、神の福音を告げ知らせたにもかかわらず、十字架につけられる。その予感を十分に感じていました。しかしなお、イエス様は父なる神に信頼していました。そしてイエス様は神の御心によって復活され、天に昇られました。このことをイエス様はマルタに伝えたのです。

そしてこれを聞く私たちすべてに伝えています。私たちはイエス様の「私が復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」という言葉を今ここで聞いたのであります。

マルタはイエス様の言葉を聞き、「このことを信じるか」というイエス様の問いに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と信仰を告白しました。

マルタはラザロが生きかえるのを見る前にイエス様が言われた永遠の命を信じました。私たちはイエス様が示された生き方に倣う生き方ができるよう神に求めつつ、日々を歩むことが許されています。

永遠の命を信じた人たち

私が神学校を卒業し遣わされた教会で聖餐式を執り行ってくださった荒瀬正彦牧師は死が近づいていることを悟ってから、家族や知り合いの牧師の協力を得て自分の葬儀説教を作りました。私はその葬儀に参列したのですが、まさにその説教から荒瀬牧師の希望を受け取りました。

また1954年に日本聖書神学校を卒業した野村喬(たかし)牧師は68年間の牧師としての奉仕を終え2022年に95歳で召されましたが、その最期の言葉は使徒信条であったと伺っています。それは神の国に行くという希望を表しているのではないかと思います。

「キリストを信じる者は死んでも生きる」ということはこのようなことなのです。生きているうちも死んだ後も主から離れることはありません。

マルタが告白した言葉「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(27節)は、それぞれの方の信仰告白であり、信仰共同体である教会の信仰告白です。