4月2日礼拝説教「イエスは子ろばに」

聖書 イザヤ書50章4~9節、マタイによる福音書21章1~9節

2023年度の始まり

2023年度が始まりました。そして土気あすみが丘教会は創立から39年目の歩みを始めました。本日の週報裏面の「牧師室より」にこのことを書きましたのでお読みいただければと思います。私が創立記念日にあたり思い至りましたのは、この礼拝堂のことでした。設計者の田淵諭さんはこの会堂について、「この礼拝堂空間は光をテーマにしています。壁のあちこちに穿(うが)たれた大小三十の窓からの光は、礼拝堂空間に浮遊感を与え、正面聖壇上部のハイサイドライトの前に十字架を取り付け、外部からも十字架のシルエットが見えるように計画しました」と説明しています。外部から礼拝堂の十字架を見るのは難しいのですが、外からの光によって十字架がシルエットのように見えることをご存知の方は多いと思います。田淵さんはヨーロッパの中世に建てられた修道院を見学した時に、礼拝堂に光が差し込む様子を見て、「光」に注目されたそうです。この礼拝堂は光の礼拝堂です。少し暗い礼拝堂空間に外からの光が差し込んでくる。それはキリストの光を思わせます。

私は一人で教会に居る時に礼拝堂でその光を感じながら、暫(しば)し、黙想し、祈る時を持っています。このような時を私だけが体験するのは皆さんに申し訳ないような気持ちです。もし一人で祈りたいと希望されるならばどうぞお越しください。

この場所も今日の聖書にありましたイエス様のエルサレム入城と同じく、イエス様が来られる場所であり、イエス様が居られる場所です。

王なるイエス様のエルサレム入城

マタイによる福音書21章にはイエス様が弟子たちに子ろばを借りてきてもらい、その子ろばに乗ってエルサレムの都に入られたことが書かれています。このことは旧約聖書の預言の言葉が実現することでした。5節にその言葉が書かれています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」という言葉です。

その時にエルサレムの大勢の群衆が服などを道に敷いて、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と歓呼の声をあげてイエス様を歓迎しました。

聖書の記述は大変簡潔に書かれております。その様子を少し想像したいと思うのです。イエス様の格好はどのようなものだったでしょうか。それは鞍の代わりに弟子たちが自分たちの来ていた服を脱いで子ろばの背中にかけた粗末なものの上に乗り、子ろばの背中に乗ってなんともゆっくりと歩いているお姿です。ろばは当時、「愚か者」という意味を持つ、卑しめられたものの代名詞でした。足は地面につきそうだったでしょう。イエス様のその様子は滑稽だったと思われます。子ろばは借りたものです。しかしイエス様はあえて借り物の子ろばに乗り、このような格好でエルサレムに入ることを選ばれました。

この時のイエス様を宗教改革者ルターは「物乞いをする王」という言葉で表したそうです。物乞いとは人々に物を恵んでもらって生きている人のことです。そのような人と「王」とは本来は同じ人ではありえません。このように貧しく滑稽な、ある意味で外見は哀れなイエス様を、ルターは「主イエス・キリストは小さいろばに乗ってエルサレムにお入りになった。小さいろばに乗ってこられようと、そこには罪はまったくなく、義の装いのみがある。」と言い表わしました。ここに私たちを救おうと決心なされたイエス様のお姿があります。私たちと同じ貧しさを身に帯びられて、しかし王としてエルサレムに入られたのであります。

悲しみを湛えるイエス様

イエス様は意気揚々と歓呼の声に応えながら入って来られたのではありません。イエス様は人々が自分を求めるのは自分たちの願いを叶えてくれる奇跡を起こす人あるいはローマの支配から解放してくれる人だと勘違いしていることをご存知でした。イエス様の心は悲しみで溢れ、また神に従うのではなく自分たちの願いを実現することを願っている人々に対する怒りで溢れていました。

人々はイエス様を信じたと言っても良いと思います。しかしそれは自分たちの力で信じた信仰でありました。エルサレムの人々の歓呼の声とホサナすなわち「救ってください」という声はイエス様には悲しく聞こえたことでしょう。

イエス様はユダヤ人であれ、ローマ人であれ、ギリシア人であれ、すべての人をお救いになるために来られた。それなのに人々は自分に都合の良いようにイエス様を信じたのです。その結果、わずか数日でこの人々はイエス様に失望し、敵対するようになりました。そして十字架につけろと叫ぶようになりました。彼らが自分の力で信仰を得たと勘違いしたからです。

信仰は神から与えられます。決心するのは私たちですが、神が導いてくださったのです。このことに関して御言葉を紹介いたします。

ローマの信徒への手紙10章17節には「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と書かれています。

マルコによる福音書1章15節にはイエス様が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたことが書かれています。

マルコによる福音書4章40節にはイエス様が「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われたことが書かれています。

マルコによる福音書5章36節にはイエス様が「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた」ことが書かれています。

ルカによる福音書22章32節にはイエス様が「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言ったことが書かれています。

これらの御言葉によって、信仰は私たちの力によって得られるものではなく神さまが与えてくださることがよくわかります。信仰はキリストの言葉を聞くことから始まります。それは聖書に書かれているものであり、これを耳で聞くことから始まるのです。人が読む言葉を聞くのでも、自分で声を出して読んで聞くのでも良いのです。そうすると御言葉を通して神の御心を感じるようになるでしょう。そして神は私たちを愛して、導いてくださっていることを確信するようになります。イエス様は私たちのために信仰が無くならないように祈ってくださっています。

私たちの応答

さて、今、ここにイエス様が来られたら、私たちは神の御旨を求めるようにイエス様にホサナ、救ってくださいと呼びかけたいと思います。もし私はすでに洗礼を受けて救われたからイエス様に救っていただく必要はないと思っておられる方がいらっしゃったら、どうか思い出してください。罪の力は非常に強くて私たちの力では決して太刀打ちできません。罪から自由であるためにはイエス様から離れず、イエス様に救っていただくことを求め続けなければなりません。イエス様を信じ、イエス様を求めてつながっている限り、私たちは罪から自由になれます。

神から与えられる信仰を感謝して39年目を歩む

私たちが聖書の言葉に聞き、祈りをもって神さまとつながるならば、神さまは私たちに信仰を与えてくださいます。マルコによる福音書9章に出てくる「汚れた霊に取りつかれた子の親」はイエス様に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と祈りました。私たちは信仰を持っていると勘違いせずに、神さまが信仰を与えてくださり、「信じます」と答える信仰へと導かれたいと思います。

私たちの39年目の歩みはどのようなものになるか分かりませんが、この会堂に差し込む光に象徴される光なるキリストに導かれて、聖書を通して神から与えられる信仰を感謝して、神の家族として歩んでまいりたいと願います。