聖書 使徒言行録2章14a節・36~41節、ルカによる福音書24章13~35節
イエス様復活の証言
使徒言行録に出てくるペトロもルカによる福音書に出てくる弟子たちもイエス様の復活を証言していますが、ペトロは確信をもってそのことを語ったのに対し、エマオに向かう二人の弟子は不信の念をもって語りました。
私たちの信仰、すなわち私たちの神への信頼はこの二人のどちらでしょうか。私たちは今日、この個所を聞いて、このことを考えさせられます。私たちはエマオに向かう途上の弟子たちと一緒ではないかと思うのです。神を信じ切れない私たちがいます。世界や私たちをお造りになった神を信じながら、死は乗り越えることができないものだと信じる私たちがいます。
常識が邪魔をしています。私たちは聖書に出てくる数人を除けば、死んだ後に生き返った人を知らないからでしょう。自分が経験したことしか信じられない私たちがいます。エマオに向かう弟子たちやイエス様が捕まった夜にイエス様を三度知らないと否認したペトロと一緒です。
エマオへ向かう二人の弟子
エマオに向かっていた二人の弟子は落胆していました。この人たちはエルサレムで起きた “一切の出来事”について話ながら歩いていました。その出来事とは、イエス様が現れて驚きの業をおこなわれたこと、弱くされた人々や汚れているとされていた人々が慰められ、生きる力を得ていたことなどでしょう。彼ら自身も慰められ励まされ、希望を与えられたのだと思います。しかしその希望の元ともいえるイエス様はユダヤの支配者に捕らえられ、ローマの法に従って重罪人として十字架刑で処刑されて死んでしまいました。この人たちにはもう希望がなくなってしまいました。
そこに見知らぬ人が近づいてきました。見知らぬ人は復活のイエス様だったのですが、彼らにはイエス様だとは分かりませんでした。よみがえるとは思ってもいなかったからだと思います。私たちにとっても人がよみがえるということは信じられないことです。そのようなことは決して起きないと経験を通して知っているからです。それが常識だ、というレベルではありません。それは真理であり動かすことのできないもの、変えられないものという信仰にも似た確信です。
この二人にイエス様が近づき、二人に彼らに声をかけられました。このことがとても大切なことだと思うのです。私たちは神に近づく方法を知りません。しかし神の方から私たちに近づいてきてくださるのです。イエス様は彼らに問いかけました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」
この問いは二人の記憶を呼び覚ます呼び水です。彼らは落胆のあまり、イエス様がなさった驚きの業の数々を忘れていました。あるいは色あせた記憶としていました。二人は旅人がエルサレムで起きた大騒動を知らないことについて驚いています。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 “あなただけはご存じなかった”という表現で、イエス様の十字架刑がエルサレム中で大きな話題だったことが分ります。
旅人がその先を促すと二人はイエス様のことを話しました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
「イエスは神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者」だったとイエス様を紹介しています。それに続いて「“わたしたちの”祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」と語りました。わざわざ祭司長と議員を“わたしたちの”と話しています。これはユダヤ人の同胞であるイエス様をユダヤ人権力者たちが殺したことを表しています。
続いて二人は「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」と旅人に説明しました。この言葉から、二人の希望が非常に大きかったことが分ります。そしてまた、イエス様が死んだことで非常に大きな落胆を味わっていることが分ります。
“望みをかけていた”という表現はイエス様にこそ希望があるという意味でありましょう。彼らはローマ帝国の支配に屈したユダヤの、その指導者たちによって、弱くさせられ、汚れたものとされ、社会から排除されていた人々の代表なのです。その人々がイエス様に「あの方こそイスラエルを解放してくださる」と希望を託していました。
「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」 当時、人が死んでから三日というのは、もしかしたら生き返るかもしれないという希望をつなぎとめることが可能な期間でした。それを過ぎたということはイエス様は永遠にいなくなってしまったということなのです。二人の悲しみや落胆が伝わってきます。
「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
ここでとても驚きの報告を受けたことが明かされます。それは数人の女性たちがもたらした報告にありました。それによれば、墓にはイエス様の遺体がなかったということ、そして天使たちが現れて「イエスは生きておられる」と告げたということでした。あまりにも非現実的な報告に、弟子たちは信じられませんでした。きっと女性たちの報告を確かめることもせず、そんなことはあり得ないという考えを変えることもできず、二人は落胆して故郷の村に帰っていったのでしょう。
救い主とはこのようなお方
イエス様はこれを聞いてから二人に言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
メシアとは旧約の時代に主なる神によって油注がれた者のこと。その人は王として人々を守る使命を神から託された人です。そのメシア、すなわちギリシア語でキリストは苦しみを受ける、と言われるのです。
イザヤ書にこのことを預言している箇所があります。イザヤ書42章1節から9節には「主のしもべの召命」という預言があります。またイザヤ書49章1節から10節には「主のしもべの使命」という預言があります。そしてイザヤ書50章4節から11節には「主のしもべの忍耐」という預言があります。そして最後にイザヤ書52章13節から53章12節には「主のしもべの苦難と死」という預言が書かれています。少し引用しますと次のように書かれています。
私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。/主の腕は、誰に示されただろうか。この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。/彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/痛みの人で、病を知っていた。/人々から顔を背けられるほど軽蔑され/私たちも彼を尊ばなかった。
私の正しき僕は多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う。それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え/彼は強い者たちを戦利品として分け与える。/彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し/背く者の一人に数えられたからだ。/多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをしたのは/この人であった。
このような言葉です。この苦難のしもべがイエス様を預言していたのです。ユダヤの人々はこのメシア、すなわちキリストを待ち望んでいました。そして預言の言葉の通りの仕方で私たちの贖いを成し遂げられたのです。
目が開かれる時
一行はエマオに近づきました。二人はイエス様から離れがたく思い、イエス様を引き止めました。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って。ここから二人の目が開ける時がやってくるのです。二人の目は、目の前にいる人がイエス様であることに気づかないほどに雲っていました。30節と31節に次のような言葉が書かれています。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
わずかこの2節に奇跡が語られています。奇跡のきっかけはイエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったことでした。この当たり前に思えるイエス様の所作によって二人は目の前の人がイエス様だと気づいたのです。なぜならこの所作はイエス様が弟子たちと最後の晩餐をしたときに行われたものだったからです。その時のことは22章19、20節に書かれています。
二人が旅人はイエスさまだと分かった時にイエス様の姿が見えなくなりました。しかしイエス様はいなくなったのではありません。イエス様はそこに居続けておられます。
私たちにもこの晩餐は用意されています。礼拝の中で聖餐にあずかる時、私たちはイエス様が共にいてくださることを霊的に実感するのです。このことは古代教会から現代にいたるまで、そして未来にわたって引き継がれていきます。私たちの力が尽き、望みも尽き、もう死にたいと思っているその先で、その先でこそ、神の声が聞こえます。主は私たちと共におられます。
弟子たち二人は復活のイエス様に会ったのです。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。そして、時を移さずに出発しました。
“心は燃えていた”とは、何と心に響く言葉でしょう。この灯はイエス様とは知らずにイエス様に出会った時から、イエス様が聖書を語ってくださったときから灯され心が燃えていました。そのことを今二人は理解したのです。
私たちも経験するのです。心が燃えるようなことを。それは聖書の御言葉が心に響いたときでしょう。聖書の御言葉を聞いたときに心が燃えるような感情や沈んでいた気分が浮き浮きとなるような状態です。これはイエス様に出会った徴であります。私たちはエマオの二人の弟子たちと同じ出来事に出会うのです。
二人は急いでエルサレムに戻り仲間たちに道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話しました。仲間たちからも驚きと喜びの報告がありました。彼らは本当に主は復活して、シモン(ペトロ)に現れた、と報告したのでした。
二人の見たものは幻ではありませんでした。彼らは復活の証言者です。私たちも心が燃え、気持ちが晴れやかになったことを思い出すのではないでしょうか。私たちも復活のイエスと出会った証言者なのです。彼らのその後は書かれていませんが、きっとペトロと同じく大胆にイエス様を証ししたのではないかと思います。
共にいてくださるイエス様
英語の讃美歌に“Abide with me”というものがあります。日本語では「日暮れて闇は迫り」(讃美歌21-218番)という題で歌われています。1番の歌詞は「私のそばにいてください/夕日は落ちてゆき/闇は深まっていく/主よ 私のそばにいてください」というものです。夕日が落ちる時とは一日の終わり、闇が広がり始める時です。そのような闇にも主は私たちと共にいてくださいます。そしてまた、それは人生が終わりに近づいている時をも示しています。私たちが地上の命を終えようとするときにも主は私たちと一緒にいてくださいます。
私たちも復活の主に出会います。それは聖書の御言葉を通して。その御言葉が私たちの心にイエス様を呼び起こし、心を燃やします。それによって私たちも目を開かされるのです。イエス様は私たちと共にいてくださいます。