5月7日礼拝説教「キリストは道、真理、命」

聖書 使徒言行録7章55~60節、ヨハネによる福音書14章1~14節

道を知るということ

先日の連休では7歳と5歳の孫が家に来て、私たち夫婦は二人を交通遊園というところに連れて行きました。ここは何度か連れて行っていましたので、孫たちは私たちに道を聞くこともなく遊具の所に行きました。子どもの記憶力は大したものです。

新田次郎という作家の小説に『劔岳―点の記』というものがあります。これは明治の終わりごろの1907年に立山連峰の劔岳の登頂に始めて成功した測量隊の人たちの物語です。日本地図を完成させるための最後の難関が劔岳に標点を設置することでした。今でこそ劔岳は上級者の登山コースになっていて登山道が整備されていますが、当時はどこから登ったらよいか分からず、しかも装備品が現代に比べて貧弱でしたから登頂は不可能と考えられていました。道がなければ劔岳の頂上に至ることはできません。測量隊は試行錯誤の末に登山道を開拓して2年がかりでようやく登頂に成功したのでした。当たり前のことですが、道を知っていればそこに行くことができます。

神の国への道

私たちは神さまのところ、神の国に行きたいと思っているわけですが、そこにはどうすれば行けるか。その道が分かれば私たちは神さまのところに行くことができるわけです。イエス様がこのことを語った時の言葉がヨハネによる福音書14章に記されています。

イエス様はまず最初に「心を騒がせるな」と言われました。神さまのところにいれば平安でいられるのに、神さまのところにどう行けばよいか分からないから平安ではいられない、安心できないということでしょう。もし私たちが神さまに至る道を知っていれば何事があっても心が騒ぐ状態のままになっていることはありません。改革者ルターは「大胆に絶望せよ」という言葉を語ったそうです。私たちは絶望してはいけないと考えます。絶望しないためには神さまに頼ることだと考えるのですが、ルターはその考えを突き破って、私たちが絶望しても大丈夫だと、そこまでの安心を神さまは用意してくださっていると言い切るのです。それは神さまに至る道を知っているからにほかなりません。

イエス様は「神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と言われます。それはイエス様の言葉を信頼し、その言葉を心にとめて生きるということです。神さまのところに行っても場所がない、という心配は不要ですよ、とイエス様は言われます。私たちはそのイエス様の言葉を疑う必要はありません。何か実験でもして確かめなくてもイエス様が場所を用意してくださっています。だいたい実験ができるような事柄ではないからです。でも私たちは神の国が存在することをうっすらと知っています。パウロはそれを「鏡に顔を写すようにうっすらと知っている」と表現しました。昔の鏡はぼやけた像しか写らなかったからこういう譬えで当時の人々に語りました。

すると使徒の一人であるトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」とイエス様に尋ねました。トマスはイエス様と行動を共にしていてもイエス様がどういうお方であるかが分かっていなかったのです。その問いに対してイエス様は「わたしが道であり、真理であり、命である。」と答えました。イエス様ご自身が道だというのです。その道は真理であり命です。イエス様が行かれるところは父なる神が居られるところ。そこに至る道がイエス様ご自身であると言われます。イエス様は「私が道を教えよう」とは言われなかった。ですからその道というのは私たちが考えるような地図に描かれるような道ではないことが分かります。そしてイエス様を通ることが神さまのところに至ることだということが分かります。

それにしても不思議だとは思いませんか。イエス様は復活した後、天に昇られて見えなくなるのです。現に現代の私たちにはイエス様は見えません。それなのにイエス様が道だというのはどのような意味なのでしょうか。

イエス様が道だというのは現代において、それはイエス様の言葉や行いが記されている聖書によってイエス様を見つけるということです。イエス様は父なる神さまに通じる道であるということは、聖書に書かれている言葉が言語を超えたコトバとして私たちに立ち現れるということではないかと思います。民芸運動の指導者である柳宗悦(やなぎむねよし)さんはこのことを次のように述べています。

福音書は文字によって読まれてはならないのです。あの夥しい経巻は、文字を越えようとする文字なのです。言葉なき境にその言葉を読まないなら、真理の扉を開くことはできないのです。総ての経典は言わざる言葉なのです。人は字義に囚われるにつれて字義から離れるのです。(柳宗悦『柳宗悦宗教選集第二巻 神について』)

キリスト者で評論家の若松英輔さんはこのことを『文字をなぞっているだけでは十分ではない。文字の奥に言葉を超えたもう一つの「コトバ」を感じなければならないというのです。言葉なき境の「コトバ」を読むのです』と言うふうに説明しています。復活のイエス様、キリストはここにおられます。私たちがキリストに出会うのは聖書の、特に福音書に書かれている言葉の奥にある言葉に触れた時だ、ということに同意される方は多いのではないかと思います。ここに神さまに至る道があります。

そして私たちはすでにその道を歩いているし、おぼろげながらではありますが神の国を見ているのです。もっと言うならば、私たちはおぼろげにではありますが神の国にいて、神さまの支配のもとに安らいでいるのです。

イエス様は使徒フィリポの質問に答えて、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と真理を明らかにしました。それは「イエス様が父なる神さまの内にいて、父なる神さまがイエス様の内にある」という、父と子が共に愛の交換、これは無償の愛、すなわち相手に見返りを求めない愛によって一つである唯一の神であるということを明らかにしています。

イエス様は「このことを信じないのか」と言って、信じる者になるようにフィリポや私たちを導いておられます。そして更に、「信じないのなら、あるいは信じられないのなら」イエス様が行われた業そのものによって信じなさいと言われました。神の権能をお捨てになって完全な人となったイエス様が徴(しるし)である奇跡をおこなうことができたのは父なる神の御旨であって、それはイエス様の御心と同じであるからだということです。

イエス様は「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」とも言われました。イエス様は地上におられる時に、時と場所とを限定して徴をおこなわれました。そして今や世界中にいるキリストを信じる人々がそれぞれの時代にイエス様に倣う業をおこなっています。それこそ、一つぶの種は地に蒔かれて沢山の実をつけています。イエス様の言葉は成就しており、またこれからも成就し続けるのです。悪が力を誇っているような時代にあっても、この業は止まることはありません。

私たちは祈りつつ、キリストと共にあって神さまのそばにいさせていただき、それぞれは僅かな働きであっても、それが全体では大きなキリストの業をおこなっているのです。このことのために祈り求めるならば、今もお働きになっているキリストがその祈りをかなえてくださいます。私たちはキリストから問われています。「あなたたちは私を信じるか」と。この問いに私たちは向き合い、そして「はい」と答えたいと思います。もし「いいえ」としか答えられない時でも、大胆にキリストを信じて絶望しようではありませんか。必ずや、キリストが私たちを立ち上がらせてくださいます。

キリストを伝え神の栄光を現わす

先ほど読まれた使徒言行録にはステファノの殉教のことが書かれていました。殉教というと苦しんで死ぬというイメージやキリスト者は殉教しなければならないという不安を持たれるかもしれませんね。しかし殉教は選ばれた者に与えられる栄光なのです。神さまはご自分を証しする人の中から特別に選ばれた者をその働きにつかせます。殉教はしなければならないものではなく、そのように導かれた人にのみ与えられるものです。

ステファノが殉教したのはイエス様を証ししたためでした。彼の証しは実に謙虚だと思うのですが、当時の人々には過激なものでした。「律法は人のためにある」という理解は考えられないものでした。しかし神さまは私たちが神さまを忘れたり、道を誤らないように律法を与えたのですから、文字に書かれた言葉ではなく文字の奥にある「コトバ」に従うならば、律法に縛られる必要はないのです。必要なのはキリストを信じ、祈ることです。このことに父なる神のそばに行く道があります。そして分かることは父なる神は私たちの側にいてくださっているということです。私たちが見出す前から神は私たちと共にいてくださいます。ちょうど幸せの青い鳥を見つけに行ったチルチルとミチルの兄妹が旅の最後にわが家でそれを見つけるという童話のようにです。

神は私たちの間におられる

神さまのおられるところ、そこが神の国です。その国は実にいつもどこかにあるというものではありません。神の国は神の国は見える形で知ることはできません。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもありません。キリストは地上におられる時に「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)と言われました。「あなた方の間にある」とは一人では見つからないということ。イエス様が「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われた通りのところに神の国があり、そこに神様が居られるのです。

聖書の「コトバ」にイエス様を見いだす

明治時代に劔岳の頂上に最初に到達した人たちは道を見つけることでそのことを成し遂げることができました。道を知っていいれば幼い子でも安心してそこに行くことができます。私たちは神の国で安らぎたいと思っています。そしてキリストがその道であることを知りました。その道は真理であり命です。キリストを知るということは神への道を知るということ。それは聖書に書かれている文字の奥に言葉を超えたもう一つの「コトバ」を感じることだということを知ることができました。神さまに感謝します。