「夜は更け、日は近づいた」(2016年11月27日礼拝説教)

「 夜は更け、日は近づいた 」
イザヤ書2:1~5
ローマの信徒への手紙13:8~14

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」お読みしたローマの信徒への手紙13章8節の御言葉です。
「愛し合う」ということ、私たちは愛という言葉や愛における事柄を愛しますが、実際に「愛し合う」ということは、実にとてつもなく難しいことなのではないか、と私などは日々思います。
 ここで「借りがあってはなりません」と語られており、人間関係の貸し借りという現実的な言葉が使われていますが、しかし、この御言葉は、愛に借りがあってはならないとは語っておりません。「愛することのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」ということは、裏を返せば「愛することにおいては、借りがあってもよい」ということになりましょう。愛の負債はいつまでも残る、残ってもよいというのです。愛の負債も要求も無限であるというのでしょうか。
 お金であれば、借りていたものを返せばその関係は終わりますが、愛というものは、10借りていて、10を返したら終わりというものではない。10借りていて、20返し、相手に30貸して20返して貰いと、五分五分ではない負債を、数えることなく負いあうものが愛なのでしょうか。人間の利害関係で諮ったとしたら、そこには初めから愛はない。また、愛とは、愛には期限も制限容量もなく、また人は愛という負債を負いあって生きているのかもしれません。重量も容量もさじ加減も無制限であるからこそ、愛し合うということをなそうと思えば思うほど、難しいものと感じてしまうのではないでしょうか。愛とは、人間の内側から湧き上がる感情のままでは維持出来ないものとも言えましょう。

 ここで語られる愛とは、ギリシャ語のアガパオー。無償に愛する、無償の愛と言われるアガペーの動詞形です。動詞ですから、行動を表す言葉であり、ただの思いではありません。見返りを期待しないで積極的に愛すると言いましょうか。しかし、ここで少し話は複雑です。パウロはここで、「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と、旧約聖書の律法を持ち出しているからです。
 互いに愛の負債を負いあう者、愛の負債を貸し借り関係なく負う者は、律法を全うしていると言うのです。

 律法の愛とは、ヘブライ語でヘセドと言います。これは応答関係を表す愛。神はイスラエルを愛して律法を与えられた。イスラエルの民は、神の愛への応答として、律法を行うことを求められました。その応答の関係が旧約の時代の愛・ヘセドでありました。アガペー、無償の愛とは違うのです。しかし、パウロは、ここでアガペーとヘセドを同一線上に並べています。8節の後半部分を原文を強調しつつ読み替えてみますと、「人を無償に愛する者(アガパオー)は、律法に基づく応答の愛(ヘセド)を全うしている」と読めます。
「愛し合う」ということと混同してしまう人間の感情には、人のことを好きになるという感情がありますが、好きになるという感情自体良いものですし、嬉しいものですが、人間の生まれながらの自然の欲求に属するものです。感情の昂りは、やがて醒めてしまう。人間の持って生まれた思いというものは、移ろいやすいものだからです。
 しかし、神が人間に求めたものはただ感情ではなく、意志をもって、神の掟に、神の愛に応えて生きるということでした。神の愛に応えて生きること、これは12節で語られている「闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着ける」ということに集約されていきます。
 神と人間との関係は、本来そのような愛の応答関係で結ばれるべきものです。神はひとりひとりを愛しておられ、ひとりひとりが神の愛に応答して、意志を持って信仰を選び、自分の肉の心や感情ではなく、光の武具を身に着け、歩むことを望んでおられるのです。
 そして、そのような神に愛され神を愛する者たちが、互いに愛し合うという負債を負い合いつつ、愛という苦労を負いつつ、それでもそれぞれの場所で愛を求め、生きること、また教会がそのような共同体であることを主は望んでおられるのではないかと思います。

 待降節を迎え、教会の新しい一年が始まろうとしています。
 先週は思いがけない雪で、教会の近辺は10センチ近い雪が降り積もることになり、突然の冬の訪れに驚きました。外のもみの木の枝枝には雪が積もり、そのままで美事なクリスマスツリーになりました。
 教会の一年のはじまりは、寒く、日の短い冬。イエス様のお生まれになられたイスラエルの地も同様です。日本よりも少しあたたかいと思われますが、日が短いことには変わりはない。待降節のこの時、闇の時間がどんどん深まり、寒さも増す、そのような季節です。
 深まる闇に光を灯すように、蝋燭に一本の灯が灯されました。光が、私たちの暗闇を照らし、私たちを取り巻く闇、また私たちの内側の闇が闇としてそのまま閉じられてゆくのではなく、光によって照らされ、光を見出すことを祈らずにはおれません。

 パウロは申します。
「あなた方が眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」
クリスマスは、イエス様のお誕生を祝う時、神の愛があらわされた時と一般に思われていて、それは正しい理解なのですが、クリスマスにはもうひとつの意味があります。それは今、天の父の右の座におられる救い主イエス様の再臨の時としてクリスマスを捉え、アドヴェントは、私たちがこの世で生きつつ、主の再臨を待ち望み備える時という意味もあるのです。パウロがここで「近づいている」という救いは、具体的には主の再臨、終わりの時、イエス・キリストが再び世に降られることを語っています。
 パウロがこのことを語っているのは、イエス様が十字架に架かられ、復活され、昇天されてから約25年程経っている時代です。初期のキリスト教は、天に昇られたキリストが再び来られる時を、今か今かと待ち続けていました。パウロの信仰の生涯は、主が再び来られる時を待ち焦がれた生涯であったのではないでしょうか。そんなパウロが言うのです。「わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」と。

 聖書の舞台であるイスラエルの一日は、夕方から始まります。天地創造ははじめ深い闇があり、神の「光あれ」という言葉によって、闇の中に光が生まれました。そのことに由来するのでしょうか。一日の始まりは夕闇なのです。
 夕闇はどんどん深くなり、夜は更けてゆきます。夜は深い闇に包まれる。パウロは申しました。「夜は更け、日は近づいた」と。今、私たちが生きるこの時は、パウロが語るところによれば「夜」なのです。私たちの生きている現実は、まだ深い暗闇に支配をされていることを語っています。
私たちの生きる、今の時は、既に救いの十字架が立てられた時です。既に神の救いは顕された。しかし、未だキリストは再臨しておられない。救いは顕されたけれど、完成はされていない「既に」と「未だ」の狭間の時です。
 しかしながら「夜は更けた」という言葉には、時の流れが表現されています。「更けた」と訳されているのは、前に進むことを表している言葉なのです。その意味で、力強い。闇の勢力が未だ力を振るう時を生きる私たちですが、神のご支配は前に進んで行くのです。
そしてイスラエルの一日の始まりが夕方である、ということには意味があります。夕があり、夜が更け、日の光へと進んでゆく。前に向かい、進んでゆく時間の先には、日の光があり、光のうちに一日は暮れるのです。夕があり、朝がある。これが神が定められた私たちの人生の流れであり、世を貫く時の流れです。朝日があって、夕暮れから夜更けへと向かう、光から闇へ向かうという流れではなく、あくまで闇は光へと変えられてゆくのです。
しかしパウロがこのことを語り、2000年近く経ちましたが、今尚キリストは再臨しておられません。神は忍耐をしておられる。この2000年という年月は、神がすべての人がキリストを信じ、救いに入れられることを望みつつ、忍耐をしておられる時間なのではないでしょうか。しかし、時は近づいている。私が信仰に入った30年前よりも、確実に「時」は近づいている。信仰者の生き方は、絶えず、「キリストが再び来る時」を見据え、待ち焦がれながら、身を整えつつ生きることを求められるのです。キリストの再臨の時、それは、世の暗闇のすべてが打ち破られ、世の光であるイエス・キリストの完全な統治が現される時です。

 キリストの再臨を見据えつつ、パウロは13節で「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを纏いなさい」と語ります。
 今はまだ夜明け前の「夜」。ですから、人間は夜の行動を好みます。私たちの現実は、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」ということなどと、非常に近しいと言いましょうか、それらは、人間の肉の思い、闇に属する部分から沸き起こる、人間の罪に属する事柄です。私たちの生まれ持った思い、思い浮かべ易い感情に則る行動と言えましょう。誰しも多かれ少なかれ、自然な思いとしてこれらの欲求を持っている。パウロはこれらを「欲望を満足させようとする肉の心」と呼んでいます。人間の心の闇の領域です。
 しかし、イエス・キリストに救われた者にとって、闇は闇のままではありません。闇はキリストにあって、光へと導き入れられるべきものです。「夜は更け、日は近づく」のです。欲望を満たすことを追い求めながらその欲望に振り回され、他者を傷つけまた自らを傷つけて生きることに、この貴重な時を費やしてはならないのです。果てしない争いとねたみのために、この大切な備えの時を費やしてはならないのです。
なぜなら、「私」を救うために命を捨てられた方がおられるからです。そのお方、イエス・キリストは復活された。私たちの罪を十字架の上で葬り去って復活されました。そして、御自身と共に罪を葬り去った者たちを、御自身の復活と共に復活の新しい命へと、御自身の光の中へと入れられました。

 この新しい命とは、人間の目には見えない神の領域に於けると言いましょうか、神の目に於ける新しさであって、この肉体をもったままの私たちにとっては、すぐさま魔法が掛かったように「変えられる」変化ではありません。肉は肉のまま生きている。救われた人間はそれぞれすぐさま「新しくされた」という実感は乏しいかもしれない。「変えられた!」という感情の昂りがあったとしても、感情というのはあくまで人間の肉に属するものであり、人間の感情はすぐに醒めてしまう、移ろいやすいものです。しかし、確かに命の領域は、神の領域に移されている。そして、この肉体をもったまま神の領域、救いに入れられた私たち人間には、成長が必要です。信仰の成長が必要です。

 パウロはここで、私たちの信仰の成長において必要なこととして、「光の武具を身につけなさい」と語ります。パウロが語る光の武具とは、人間の内側から発するものではなく、神から来るものを指します。光は神が造られた、神から来るもの。主が再び来られる時のために絶えず備えて、闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着けて生きなさいというのです。それは、具体的には御言葉に聴き、そして従うことを日々選び続けることでありましょう。そのためには、神の御言葉への応答、律法の愛、ヘセドが必要です。人間は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」意志を持って、神に従うことを選ぶべきなのです。それが、「日に近づく」生き方です。

 さらにそのように神の愛に応える生き方=ヘセドを行う者は、人を無償に愛する者へと整えられてゆくのではないでしょうか。
先に8節の後半部分を原文の意味を含んで読み替えると、「人を無償に愛する者(アガパオー)は、律法に基づく応答の愛(ヘセド)を全うしている」と読めると申しました。
 これはさらに「律法に基づく応答の愛(ヘセド)を全うしている者は、人を無償に愛する者(アガパオー)である」とも読み替えられると思います。
 意志を持って、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身に着ける者は、愛の負債を負いあう者とされてゆくのではないでしょうか。御言葉に従い、神に応答することを意志をもって選び取って生きてゆくとき、聖霊は豊かに働き、生まれたままの人間のままでは不可能な愛を体現するものと、変えられてゆくのではないでしょうか。
パウロはコリントの信徒への手紙一13章で愛について、次のように語っています。
「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と。このような愛を、行える者に変えられたいと願う者です。

 もうすぐイエス・キリストは来られます。救いは顕されます。私たちは、闇の行いを脱ぎ捨て、光の武具を身につけ、神の愛と御言葉に応えて自分自身を整え、キリストが来られる時に備えましょう。
 明けない夜はありません。日は近づいています。
 希望を持って主を待ち望みましょう。