聖書 ホセア書6章1~6節、ローマの信徒への手紙4章13~25節
限りある命ゆえに
林芙美子の放浪記は俳優、森光子が1961年44歳の時から45年間舞台で演じ続けたことで大変有名になりました。舞台で森光子がでんぐり返しをするのが評判でした。森光子は89歳まで舞台に立ち続けたというのですからすごいことです。
林芙美子は色紙などに「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という短い詩を好んで書いたそうです。女性を花にたとえ、楽しい若い時代は短く、苦しいときが多かった自らの半生を詠ったものだそうです。この言葉は次のような詩の一部です。
風も吹くなり 雲も光るなり
生きてゐる幸福は 波間の鴎(かもめ)のごとく漂渺(ひょうびょう)とたゞよひ
生きてゐる幸福は あなたも知ってゐる 私もよく知ってゐる
花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり 雲も光るなり。
縹渺とは遥かに遠いことです。幸せはカモメのようにはるかに遠くを漂っている、という言葉に林芙美子の半生が投影されているようです。この詩について、ノートルダム清心女子大学の学長・理事長だった渡辺和子シスターは次のようなことを書いています。
『輝くためには燃えないといけないし、燃えるためには必ず痛みや苦しみがある。苦しいことの多い生命であったとしても、または短いいのちであったとしても、咲いたということに価値があるのである。短いにもかかわらず、苦しいことが多いにもかかわらず咲くのではなくて、短いからこそ、苦しいことが多いからこそ咲くのである。花の美しさは、そのはかなさ、健気さにこそあるのである。限りある生命ゆえに惜しまれ、いとおしまれるのだ。短い限られた生命なればこそ、その間、輝かせないといけない。内側から人が輝くために必要なもの、それを「愛」という。』
「短いにもかかわらず、苦しいことが多いにもかかわらず咲くのではなくて、短いからこそ、苦しいことが多いからこそ咲くのである。」という言葉に渡辺和子さんの人生が投影されているように思います。渡辺さんは9歳の時に二・二六事件に遭遇し、お父さんが青年将校に襲撃されて命を落としたのを、わずか1mほどの距離から目の当たりにした、という強烈な体験を持っている方です。
その人が「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」について書いたエッセイに、単なる倫理的な勧めではない、渡辺和子さんの生き様を感じます。林芙美子は人生の苦しみの中で健気に生きた女性であり、渡辺和子は幼い頃の強烈な不幸な体験を抱えながらも、キリストに出会い洗礼を受けてシスターになって若い女性たちを教育した女性でした。
神の力に信頼する
本日与えられた御言葉はホセア書とローマの信徒への手紙からのものです。預言者ホセアは北イスラエル国の末期に神の言葉を告げた預言者です。一方、パウロがローマの信徒に手紙を書いた頃はローマ帝国がキリスト教国になる前のことで、キリスト者たちは少数で力もありませんでした。どちらの状況もそこに生きる人々にとって決して楽なものではなく、人々の苦しみや不安は非常に大きかったと思います。
まずローマの信徒への手紙を味わいたいと思います。パウロは13節で、神がアブラハムとその子孫に世界を受け継がせると約束されたことを書いています。そしてその約束は律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたことを強調しています。その根拠として、パウロはアブラハムが神と神の約束を信じたことを神が義とされたことを挙げています。神が約束されたことは創世記17章に書かれている「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」(創17:5)というものでした。アブラハムはそれを信じました。彼が信じたのは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」が発せられた言葉でした。
パウロは、16節で「信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによってアブラハムのすべての子孫も確実に約束にあずかれる」と書き、さらに「アブラハムの信仰に従う者も、確実に約束にあずかれる」と書きます。ここで信仰とは何かということが問題になります。アブラハムについてパウロが書いている16節から21節を読んでみますと、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」(18節)という言葉が目に留まります。これが信仰です。つまり「神と神の言葉に対する絶対の信頼」のことです。アブラハムが神は「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させるお方」だという絶対の信頼を神においていました。神は創造主です。死者に命を与えるお方であり、存在していないものを呼び出して存在させるお方です。神はそのことをアブラハムの義、すなわち正しさと認めました。
このことはアブラハムだけのことではありません。23節、24節でパウロは『「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。』と語ります。どうすればそうなるか。それは24節「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させたお方を信じる」ことだと説きます。
25節で「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」とイエス様のことを伝えています。ここで大切なことは十字架で死なれたことだけでなく、復活されたことに触れている点です。パウロはイエス様の十字架を強調します。しかしそれだけにとどまることはありません。十字架にかけられたイエス様は、同時に神が死者の間から蘇らせたお方です。
復活がなければ十字架は失望です。ちょうど弟子たちがイエス様の十字架での死を体験して希望を失ったようにです。そして十字架がなければ復活は現実逃避です。この世の不条理や生きる苦しみから逃げて、自分の置かれている状況を無かったかのようにしてしまい、空しく生きることになりかねません。
このイエス様を蘇らされた神を信じ、この神の力に寄り頼むという、神に対する絶対の信頼、これが信仰です。信仰にこれ以外のものが入ってはなりません。「神に対する絶対の信頼だけでは、救われない、神の前に正しいとされない、祝福されない」と考えるところに、神を信じる信仰ではないものが入り込んできます。
それはパウロの手紙によれば、割礼です。神に認められるためには外的な徴が必要だと考えて男子は割礼を受けるということがおこなわれていました。ですから割礼を受けていない人は神の救いにあずかれないと考えていたのです。パウロは復活のイエス様、キリストに出会った強烈な体験や、使徒たちやイエス様と行動を共にした弟子たちからの証言に基づき、神に対する絶対の信頼だけが必要であり、それだけで十分だ、それ以外の何ものもその信頼を損ねるものだという啓示を受け、それを創世記のアブラハムの出来事から説き明かして、「アブラハムが神の言葉を信じたことに対して、神は彼の義を認めた」ことを示しました。
神が喜ばれるもの
ホセア書6章1節から6節には人々がアッシリアの圧力によって苦しんでいる中で、安易な悔い改めではなく心から悔い改めるようにと語った言葉が記されています。6節に「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」という神の言葉があります。神が喜んでくださるのは愛であり神を知ることです。愛はギリシア語のアガペすなわち見返りを求めない無償の愛のことです。そして神を知るとはパウロが語る「神は死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させるお方」ということを知ることです。
幼子のように神を慕う
子どもは疑うことなく親に信頼し、親に頼ります。幼い子どもにとって親は生きるために必要不可欠な存在です。現実の親の中には子を虐待したり、放置する親がいるために、この親と子の関係を譬えにして神と私たちの関係を理解することが難しくなったのは不幸なことです。しかしながら一般的に、幼い子にとって親は生きるために必要不可欠な存在です。
ところが大きくなるにつれ人は親を必要とはしなくなります。これは私たち人間と神との関係でも言えることです。私たちは神なしには生きていけない存在であるし、神は私たちを生かしも殺しもするお方であるにもかかわらず、人間は神がいなくても自分たちの力だけで生きていけると勘違いしてしまいます。神は私たちが幾つになっても親です。私たちは幼い子のように神に対する絶対の信頼を持ち続けたいと思います。
神の約束を信じ生きる
神の言葉は約束の言葉です。神はアブラハムに言われました。「あなたは多くの国民の父となる。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。」と。これはアブラハムだけではなくイエス様を死者の中から復活させた方を信じ、イエス様の生き方に倣おうとする人たちにも約束されています。その人々は神の子どもです。もし私たちが神の恵みを忘れて自分たちの力に頼って生きようとして苦しんでいるのなら、神がどのようなお方かを知り、このお方を心から信頼するように変えられようではありませんか。父であり母なる神のもとに帰り、神の子どもとして神に信頼する生き方をしたいと思います。