6月18日礼拝説教「揺るがぬ神の言葉」

聖書 出エジプト記19章1~8節a、ローマの信徒への手紙5章1~8節

緊急集会で感じたこと

昨日、私は西千葉教会でおこなわれた千葉支区の緊急集会に参加しました。千葉県は京葉工業地帯や成田空港の近くに多くの外国人が住んでおり、その中には自国で迫害に遭い、難を逃れてきた人たちがいるそうです。この近くにはそのような人がいるとは思えないのですが、もしかしたらここにもそのような人たちが暮らしているかもしれません。遠いウクライナから戦禍を逃れて日本に来た人のことが新聞に掲載されたことがありました。少し前にはミャンマーの軍事クーデターを逃れて日本に来た人々のことが報道されていました。昨日の緊急集会はそのような人たちが難民認定を受けることができるように、強制送還されて命の危険にさらされないようにすることができるように、難民とはどのような人か、難民が日本で暮らすのに何が必要か、入管法の改正によってどのような問題が生じるかといったことを学ぶものでした。

そこで聞いたことは、生まれたばかりのイエス様も難民だったということでした。イエス様はヘロデ王の殺害計画から逃れるため両親に連れられエジプトに避難しました。これはマタイによる福音書2章に記されています。難民というのは国に帰りたくても帰れない人々のことですからイエス様と両親も難民だったのです。

私はこの集会に参加して考えさせられました。世界の情勢を見ていますと幾つもの国で戦争や弾圧が起きています。その国で生きることが難しくなった人は大金をはたいて逃れているのです。日本にもそのような人が来て住んでいます。ところが私たちは身近にそのような人が現れない限り、私たちの周りには難民はいない、という理解になります。私はこの問題を自分にとって身近な問題と受け止めなければならないことを教えられました。

神の教えは生き方を変えさせる

さて、聖霊降臨節に入って、6月11日の主日礼拝から私たちはローマの信徒への手紙を読み進めています。先週は4章13節から25節が与えられ、私たちはイエス様の死と復活という徴を通して神さまがどのようなお方かを知りました。それは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」であります。このお方を信じるという神に対する絶対の信頼が私たちを生かすことを教えられました。私たちはこの教えに従って生きています。神の教えは知識を増し加えることではなく、私たちがどのように生きるかを知らせるものだからです。ちょうどモーセがイスラエルの民に主が命じられた言葉をすべて語り、民が「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と答えたようにです。

神との間の平和から人との間の平和へ

そして、今日は5章1節から8節が与えられました。ここにはパウロによって希望が語られています。その希望とは2節にある「神の栄光にあずかる希望」です。私たちに神の栄光が与えられ、それを受け取ることができるという希望です。

1節に大切なことが書かれています。「主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」という言葉です。カール・バルトは「神との間の平和」を4章17節と25節を引用して次のように説明しています。

キリストの死と復活のしるしにおいて(4:25)、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神(4:17)を知ることにおいて、新しい人が、つまり私が生まれる(ヨハ3:3)のである。すなわちまったくもって同じでないお方が私と同じ者になる。

こういう言葉です。バルトは「神との間の平和」とは私と神とがひとつになるということだと言うのです。こんなことがあり得るのかと思います。しかしインマヌエルという言葉は、「神は我々と共におられる」(マタ1:23)という意味であり、イエス様の十字架の犠牲によって神と私たちとの間の平和が取り戻されたのですから、神と私たちはひとつなのです。このことを「神の栄光にあずかる希望」と言わずして何を言うでしょうか。そのくらい大きな、大きな栄光を与えられています。

2節にあるように、私たちはイエス様のおかげで信仰によって恵みに導き入れられました。これは神との間の平和を私たちが知ることが出来るようになったということを意味しています。これに希望の根拠があります。

3節、4節には有名な言葉が記されています。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。」という御言葉です。苦難がなぜ降りかかるのかは私たちには分かりませんが、どのような人にも苦難が降りかかります。それはその人にとっての最大のものであって、人と比べることができないものです。

パウロは自分の衰え(Ⅱコリ4:12)や、自分の中に働く「死」(Ⅱコリ4:12)や、「外には戦い、内には恐れ」の状態(Ⅱコリ7:5)などいろいろなものに苦しめられ、動揺させられていました。しかしこれらのものは「神との間の平和」と矛盾しません。なぜなら5節にあるように「わたしたちに与えられた聖霊によって、希望はわたしたちを欺くことがないからです。」 この希望は苦難の中にあっても神の約束が必ず実現することを知っており、イエス様の十字架と復活を見ている人にとって現実だからです。

詩編22編はイエス様が十字架上で語った言葉ですが、5節、6節には「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」という神に対する絶対の信頼が表されています。

私たちが神を知らず罪人であった時に、イエス様は私たちのために十字架に架かって死なれて、私たちを罪の束縛から救い出してくださいました。人はイエス様の死によって生きることができるようになりました。イエス様の死と復活によって神は私たちに対する愛を示されたのです。

私たちはイエス様をインマヌエルの主と呼びます。それは「神は私たちと共におられる」という意味です。しかもイエス様は一番貧しい人として私たちと共にいてくださいます。貧しさによって私たちを支えてくださいます。イエス様の貧しさ、その苦しみが私たちを生かします。

難民と共に生きる

「神との間の平和」。これは神が私たちと共にいてくださるということの異なる表現なのです。神との間に平和がなく、隔たりがあったものをイエス様は取り除いてくださり、神と私たちとをひとつにしてくださいました。そのことによって、私たちは隣人とひとつになることができます。私と隣人とは、神にあって、イエス様の十字架と復活によってひとつなのです。

旧約聖書には寄留者という言葉が沢山出てきます。寄留者とは難民のことです。自分の生まれ育った国に帰りたくても帰れない人のことです。神の言葉は寄留者を保護し、その人々と共に暮らすことを命じています(出22:20;23:9;23:12、レビ19:10,33,34;23:22、民15:15、申1:16;10:18,19;14:29;16:11、14;24:17,19~21;26:11~15;27:19、ゼカ7:10、マラ3:5)。イエス様はこの旧約聖書に書かれている神の言葉を実践されたお方です。新約聖書にもその神の言葉はイエス様の言葉(ルカ4:18,19)として、また使徒たちの言葉(エフェ2:19)として引き継がれています。

私は最初の方で難民支援の緊急集会のことをお話ししましたが、集会の中で講師は「外国人に対する偏見として外国人は事件を起こすというのがあるけれども、日本人だけの社会でも事件を起こす人はいるのだから、外国人と一括りにすることを認めない社会を作ることが必要だ」とお話しされていました。外国人が日本で暮らすことは大変な苦難があることを私たちは想像したいと思います。日本語を覚え、日本の慣習を覚え、仕事を得て、生活の基盤を構築しなければ、日本で生きていくことはできません。その様な人たちの隣人としてひとつになることを目指すことは、神との間に平和を得ている私たちの目指す活動だと思います。

神の言葉は揺るがない

神の言葉は揺るぎません。旧約聖書に記された神の言葉は現代でも有効であり続け、イエス様はそれをご自身の生き様として私たちに示してくださいました。神は私たちとの間に平和を与えてくださいました。もし私たちが隣人を排除するならば、次には私たちが誰かに排除されるという想像力を持ちたいと思います。しかしそのようなマイナスのイメージだけでなく、私たちは神との間に平和を得ており、神とひとつにしていただいていることに感謝し、それを隣人に広げていきたいと思います。