6月25日礼拝説教「主に結ばれて生きる」

聖書 エレミヤ書20章10~13節、ローマの信徒への手紙6章1~11節

神さまと共に歩んだ人

6月22日に私たちの信仰の姉妹であるYNさんが83年の生涯を全うし、主の御許に召されました。私はその日の朝に息子さんから連絡を受けて、ご遺体と対面し、ご遺族の方と共に神に祈りをささげてきました。YNさんは茅ケ崎にお住まいでしたが、幼稚園教諭として働いていた時の親友のMWさんの勧めで私たちの教会の礼拝に集い、2002年に洗礼を受けられ、毎週の主日に列車を乗り継いで礼拝に参加しておられたそうです。

YNさんはコロナ感染症が始まる少し前の2019年12月に脳出血で倒れられた後、入退院を繰り返し、今年の1月からは立川の病院に入院して治療を続けておられました。5月にコロナ感染症が5類に引き下げられて面会が出来るようになったため、5月22日にMWさんと私と妻の三人で面会に行きました。一時は意識がなくなり危篤状態になっておられたそうですが、この日は意識があり、喋ることはできませんでしたがMWさんの呼びかけに答えておられました。私は前任の小林牧師から引継ぎを受けていたのでお会いできたことを感謝しました。そして聖書を読み、お祈りしました。そして再び6月19日に病院に行ったのですが病棟フロアが急遽閉鎖されたということでお会いすることはできませんでした。

YNさんは遠方から土気あすみが丘教会に通い、神さまにより頼む生活を送っておられました。礼拝後にMWさんとお昼を食べてお話をすることがYNさんの楽しみだったそうです。戦中に生まれ、幼い頃を死の恐怖の中で過ごし、戦後の食糧難の時代を生き抜き、信仰を与えられて神さまと共に歩まれた人生であったと思います。今、YNさんは神さまのもとで安らかに眠っておられることだと思います。人生は良いことばかりが起きるわけではなく、困難な時の方が多いわけですが、YNさんはバプテスマを受けて新しい生を与えられ、信仰を糧として最後まで生き抜かれました。

恵みが増すようにと罪の中にとどまるべきか

私たちは6月に入ってから礼拝でローマの信徒への手紙から御言葉を与えられています。今日は6章1節から11節が与えられました。

パウロは6章1節で「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」という問いを私たちに示します。この問いが発せられた理由は5章20節にある「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」という律法と恵みの関係を説いたことにあります。罪が増したところの恵みがなお一層満ちあふれるのであれば、私たちは罪の中にとどまるべきだ、という考えに陥らないようにとの考えからでしょう。

実際、聖書にはキリスト者であっても放縦な生活を続けた人々がいたことを記しています。コリントの信徒への手紙一の5章やエフェソの信徒への手紙4章にそのことが書かれています。コリントの信徒への手紙一の5章には「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあります。」とか「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな」といった勧告が書かれています。

神の恵みによって生きる

パウロは自分の問いに答えます。6章2節以下を読んでまいりましょう。パウロは説きます。これから語る言葉は聖書の言葉を私なりに要約したものです。正しくは聖書の言葉を読んでいただきたいと思います。

あなた方は罪に対して死んでいます。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。バプテスマによる死によってあなた方は罪から解放され自由になりました。バプテスマの本来の意味は水に沈めることですから、バプテスマを受けた人は死んだのです。この死はイエス様の死にあずかることです。あなた方は死へのバプテスマを通してキリストと共に死に、葬られました。あなた方は古い自分が滅ぼされたので、二度と罪の奴隷にはなりません。そしてキリスト・イエスのうちに神によって生きます。

古い自分は死んで葬られたのですから、罪の中に留まることはできません。生きているのはバプテスマによって甦らされた新しい自分だからです。罪は新しい人を支配することができません。新しい人は神の恵みによって生きるのです。

このようなことをパウロは説いています。宗教改革者ルターは「神の恵みは罪を食い尽くす」と説きました。恵みは罪の根底を攻撃します。恵みはバプテスマを受けて生まれた新しい人間としての私たちに呼びかけます。私たちが恵みの内にとどまるなら、私たちは罪無き者として神に認められるのです。

旧約の預言者エレミヤは神の言葉を人々に告げました。『神の恵みにあずかる新しい人は迫害を受け、困難な中にあっても「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を助け出される」』と。この言葉は国が滅びバビロンに捕囚になった人々を支えました。自暴自棄になることなく、故郷を想う歌を歌い哀しみながらも主なる神を賛美して神の救いを待ち望みました。

罪から自由になる

YNさんは幼稚園教諭として勤めていた頃に、家庭と仕事の両面で困難な出来事に遭遇しました。その時にきっと正しい生き方を強烈に求めたのだと思います。困難な中で罪を犯さず、神に正しい人として生きたいと願ったことだと思います。このためにYNさんがとった行動は礼拝に出席して神さまの言葉を聞くことでした。毎週語られる神の言葉によってYNさんは慰めを受け、困難な状況にあっても神の目に正しいことをすることができるように祈り、できるだけのことをしたのだと思います。YNさんが2016年12月に教会に送ったクリスマスカードには腰痛のためすでに土気まで来ることができなくなったYNさんが世田谷の教会でクリスマス礼拝に参列し温かく迎えていただいて有意義な礼拝になったことの感謝が書かれていました。

困難に出逢って自暴自棄になり罪を犯すのではなく、困難な中でも神さまを覚え礼拝にあずかって自分を見つめ神の前に正しい生き方を求める。そのような生活は神が正しいと認める生き方だと思います。

私たちはパウロが説くように罪の誘惑を受ける古い自分は滅ぼされたと信じることができないのですけれども、パウロは20節で「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と宣言しています。「考えなさい」とは「信じなさい」、「そのことに留まりなさい」という意味です。20世紀の神学者カール・バルトも「私たちが信じるなら、私たちは罪を取り除かれている。」と宣告しました。キリストは死人の中からよみがえってもはや死ぬことはありません。生ける神として私たちと共にいてくださいます。私たちは罪を取り除かれている、何か判断する時に私たちはイエス様を通して神さまのことを思いつつ神さまの御旨に適うようにと祈って判断します。その信仰はその人がもう罪から自由になっていることを示しています。

キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きる

バプテスマは水による見える業に伴って見えない聖霊の注ぎがあります。それは神の恵みそのものではありませんがないが、徹底的に恵みの媒介なのです。私たちがバプテスマを受けるということは古い自分がキリストと共に死に、新しい自分、神と共に歩む自分が生まれることです。ですからバプテスマを受けた私たちは自分の弱さを誇ることができます。私は弱くとも神の御力は何ものにも勝る強さだからです。私たちの古い自分は滅ぼされてしまっているのですから罪が私たちを支配することはなく、私たちは罪の中にとどまることはできません。私たちは罪に対して死に、キリスト・イエスに結ばれて神に対して生きているのです。このことを信じて神の方に目を向けて喜びのうちに日々を送りましょう。