聖書 創世記22章1~14節、ローマの信徒への手紙6章15~23節
「しるし」ということ
私は良く忘れ物をするので、ある頃から忘れると大変なことになるものがあるときは、それの代わりになるものを通り道の目につくところにおいておくようにしました。そうするとぜひ持って行かなければならないものを忘れることがなくなります。皆さんもいろいろな工夫をして忘れ物がないようにしていることだと思います。
いのちを得るか、死を得るか
さて、私たちはローマの信徒への手紙を読み進めています。先週は6章1節から11節を読みました。そして今日は6章15節から23節を読んでいます。15節の問い「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」は6章1節の問い「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」を再び繰り返しています。しかも15節では「罪を犯して良いのでしょうか」と一層、踏み込んだ問いを書き記しています。なぜこのように2度も罪の問題を取り上げているかといえば、罪の問題は非常に重大なものだという認識に立っているからでしょう。たとえば、コリントの信徒への手紙一の5章には「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあります。」と書かれていたり、「兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」がいることが書かれています。バプテスマを受け救いにあずかったことを何をしても良いのだと勘違いしてしまう人々がいたのです。神の恵みというものがいかに分かりにくいかということが良く分かります。邪まな人間は神の恵みをさえも自分勝手な生活をするための口実にします。
19節でパウロは「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。」と書いています。神の恵みにさえ甘える人間はどういうふうに説明しても聞きません。それでもパウロは謙遜の限りを尽くして愛をもって語ろうとしています。この言葉は弱さを口実にしてしまう私たちが、それを口実にすることを許されない恵みの言葉です。
イエス様はマタイによる福音書12章43節から45節で、「汚れた霊が人から出て、方々を歩き回ったが、居る所がなかったので、元の家に帰ると、そこが空いていて整えられていたので、自分より悪い他の7つの霊を連れてきた。そのためにその人の状態は前より悪くなった」という譬えを話されました。この話は人間の魂の生活を良く表しています。人は誰にも支配されないで自主独立が良いと考えています。確かに人と人の関係であればその通りです。しかし私たちを愛して導いてくださるお方さえも自分の上に立ってはならないということではありません。先ほどのイエス様の譬えのように主人がいなければ悪霊が私たちの魂に住み着いてしまいます。
16節に「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。」と書かれている通りです。魂の生活には必ず主人が必要です。誰を主人とするかによって、毎日の生活が決まりますし、その行きつく先も決まります。神によって生活するか、罪によって生活するか、どちらかを取るほかないのです。そしてそれによっていのちを得るか、死を得るかが、定まります。
神の奉仕人
パウロは16節後半に「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」と書いています。ここで「奴隷」とはどういう存在かを確認しておきたいと思います。良く知られているものは「奴隷とは,人格を含めて身ぐるみ所有の対象,動産とされた人間」、つまり意志や感情を持った人格ではなく道具とされた人間のことです。「罪に仕える奴隷」というのは確かに人格がなくて欲望に動かされている人間でありましょう。
こちらは納得がいくのですが、「神に従順に仕える奴隷」という言葉には違和感を感じる人がいるのではないかと思います。つまり神を主人とすると、神の意志のままに動く道具になると言うふうに考えられるからです。
奴隷という言葉はギリシア語でドゥーロスというのですが、この言葉が当時どのような意味であったかといいますと、「人格を無視された道具」という意味だけでなく、「神に対する従属や依存関係および奉仕や職務関係を持つ人間」という意味があります。つまり神との関係を正しく保ち、神に仕える人のことを「神の奴隷」と表現していたのです。
罪の支配と神の支配は人を殺すか生かすかという大きな違いがあります。罪は私たちを愛しませんが、神は私たちを造り、愛しておられます。キリスト者は神の子たる身分とさせていただいたのですから、「神の奴隷」という言葉が意味するものは、私たちが主人なしで自立することでも、規律のない自由でもまったくなくて、神や(ロマ6:22、7:25)、キリストや(ロマ12:11、14:18、16:18、コロ3:24)、義や(ロマ6:17、18、19)、隣人(ガラ5:13)に対する新しく生まれた人として(ロマ7:6)奉仕することなのです。
「新しく生まれた人」という言葉が出てきました。これはバプテスマを受けてキリストと共に死に、キリストの復活にあずかって新しくされた人のことです。救われるとは新しくなること。パウロは救われた人が義に仕えるように私たちに呼びかけます。本日の箇所の少し前の13節には「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」と書かれています。18節には、あなた方は「罪から解放され、義に仕えるようになりました。」と書かれています。
16節には「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」と書かれていて、「自分を罪に<ささげる>か、それとも義に<ささげる>かを決定することは人間の自由に委ねられている」ことが示されています。そして19節に書かれているように、私たちが受けるバプテスマは、人間が自分の五体を、つまり自分自身を、義の僕として<仕えさせ>ねばならないほどに、人生の重要な節目です。
イエス・キリストが十字架で私たちを救うために贖いとなって死なれました。イエス様の十字架のあがないが私たちを神の奴隷、すなわち神に仕える者に変えます。神が私たちの主人となって永遠のいのちを与えられます。
アブラハムの従順
創世記のアブラハムがイサクを神にささげる物語は私たちに神に仕えるとはどういうことかを究極の状態として教えてくれます。アブラハムは年老いて生まれた一人息子を心から愛していました。妻のサラも同じでした。しかし神はその独り子をささげるように言われました。それは後継ぎが永遠にいなくなることを意味します。アブラハムとサラの悲しみはどれほどだったかはかり知ることはできません。アブラハムが出発したのは次の日でした。その夜の時間はアブラハムの悲しみが表されているように思います。
しかしアブラハムは神が、アブラハムを祝福して、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(創15:4)、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」(創15:5)と言われた約束を徹底して信じました。それはたぶんイサクも同じであったと思います。「いのちは神のもの。神がいのちを与え、それを奪い、そしてまた与えることがお出来になる。だから死は終わりではない。」これがアブラハムとイサクの信仰であります。
そしてアブラハムがイサクを神にささげようとした、その時に、神はアブラハムに介入し、イサクの代わりとなる贖いの雄羊を備えてくださいました。神は私たちのためにイエス・キリストの救いを備えてくださいました。イエス様は私たちのために苦難の道を歩まれました。それは私たちが神に仕える奉仕人となるために必要な出来事だったのです。バプテスマを受けて私たちは罪に支配される五体を滅ぼし、そして神に支配される新しい生を得ました。それは永遠のいのちにつながっています。
神は恵みを備えてくださる
私は冒頭で忘れ物をしないように徴を置く話をしましたが、バプテスマは私たちの目に見える神の救いの徴です。バプテスマでは受洗者の頭に水がかけられます。それは神の霊が受洗者に降り、その人に宿ることの徴なのです。私たちがこのことを信じようと信じまいと、神の恵みはこのようにして私たちに与えられるのです。そしてこのことを信じるならば私たちは新しい人として神を主人として義に仕える者として生きることを許されるのです。