聖書 創世記25章19~26節、ローマの信徒への手紙8章1~11節
神に感謝
先週は交換講壇で、西千葉教会の若い菊地先生が説教をされました。その日、西千葉教会で菊地先生とお会いしたのですが、先生のお姿に、やはり若いという印象を受け、世代の違いを感じました。西千葉教会では礼拝後に壮年会の人たちの集まりに参加させていただいて、私の説教をどのように受け取ったかを聞かせていただきました。説教に対する感想や分からなかったところはどのあたりだったかを知ることができて有意義な時間を過ごしました。土気あすみが丘教会は小さな集まりですので、わざわざそのような場を持たなくても声掛けをしてくださいますので同じようなことができていることに感謝です。
先週の西千葉教会の礼拝ではローマの信徒への手紙7章13~25節から、私たちキリスト者は「すでに」救われた者として神の意志を成し遂げることを望む存在であり、一方で、私たちキリスト者は「はずれた道」を信じる人々の世にあって、「いまだに」いろいろな誘惑を受ける存在であることを教えられました。そしてパウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆きつつも、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と神を賛美したことを学びました。
キリスト者の喜び
そして本日はローマの信徒への手紙8章1節から11節が与えられました。キリスト者の生活のベースは喜びです。信仰生活には多くの困難があります。生活の問題として、悲しいことや苦しいことが起こってきますし、それだけではなく信仰していることを説明するのも思うようにいかないことがあると思います。7章で読んだような「私」の中の2つの「私」の葛藤というようなものも決して簡単に解決するものではありません。
その様な状態であるにもかかわらず、私たちの中に湧き上がってくるのが信仰の喜びです。なぜならそれは勝利の喜びだからです。1節に「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロの罪に対する勝利宣言が書かれています。「キリスト・イエスに結ばれている者」といううのがキリスト者です。キリスト者といえども2つの「私」が私の中で引き裂かれている状態でありますが、それでもキリスト・イエスに結ばれていることにおいて罪赦されているというのです。これほど嬉しい宣言があるでしょうか。
私はパウロのこの宣言を信じたいと思うのです。未だに「はずれた道」を歩もうとする誘惑から逃れられない私たちが、その様な状態のまま神さまによって罪赦されて、喜びのうちに日々の生活を送ることができるのです。なぜそうなるのかといえば、私たちに聖霊が与えられ聖霊がお住まいになっているからです。この1節から11節までに「霊」という言葉が11回用いられています。パウロはそれほど聖霊のことをこの個所で語っているのです。この個所では「聖霊」ではなく「霊」と書かれていますが、これは間違いなく聖霊のことです。
キリスト者は聖霊によって導かれる人です。罪の世の中にあって私たちの弱い肉の存在は誘惑を受けて自分の望むことを行わないで憎むことを行ってしまうことがありますが、聖霊がイエス様のことをいつもキリスト者に思い出させてくださいます。
2節には「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」と書かれています。この法則は律法のことです。律法は罪に利用されて人に死をもたらすようになってしまいましたが、それにに対抗するために、聖霊が決定的な力をおよぼすのです。
律法は神さまによって与えられた良いものでありながら、私が私の中で2つの「私」に引き裂かれているために律法がキリスト者に罪を露わにし、死をもたらしました。しかし一方で律法は「命をもたらす霊の法則」として、私たち人間の弱さや罪の力に対抗して、私たちを死の力から解放して、再び命の秩序をもたらす律法となるのです。同じ律法が一方では罪と死の法則になり、他方では命をもたらす法則になるのは、聖霊が私たちの内に宿っているかどうかの違いによるのです。イエス様は私たちのために父なる神にお願いして(ヨハ14:6)真理の霊である聖霊を降してくださいました。私たちは洗礼によってこの霊を受けたのです。このことは、4節にあるように「霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。律法そのものは良いものであることが示されています。そして5節にあるように、聖霊の導きに従って歩む人は神の御心を行うことを考えるようになります。それは私たちがこの世の荒波の中にあったとしても、聖霊が私たちにイエス様の十字架の救いと父なる神さまの愛を覚えさせてくださるからです。「肉の思いは死ですが、聖霊の導きによる思いは命と平和であります」(ロマ8:6)。
肉と霊はひとつの体の要素
パウロは肉と霊を対立する2つのものとして先鋭化して示していますが、これは別々のものではなく、私たちの中にある2つの「私」のシンボルです。この私が2つの「私」によって分裂せずに済んでいるのは、聖霊を降してくださった神さまの大きな愛に包まれているからです。そしてそのことを知ることができるのは私たちの内に宿っておられる聖霊のお働きによります。9節にあるように「聖霊が私たちの内に宿っている限り、私たちは聖霊の支配のもとにあり、守られているのです」。従って聖霊が宿っていないキリスト者というのはあり得ません。もし聖霊が私たちを離れてしまえば私たちはもはやキリスト者ではなくなります。それはもはや2つの「私」に引き裂かれた私が苦悩する古い私なのです。2つの「私」が私の中に存在することがキリスト者ではないということではなくて、聖霊がおられなくなって、その2つのうち「肉の思いの私」が私を操る状態となっていることがキリスト者ではないということを意味します。
10節でパウロは「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊は義によって命となっています。」と書いています。これは聖霊が宿っていれば、私たちは聖い者となる人生の階段を一段づつ登っていることを示しています。私たちは罪の状態と聖なる状態の中間にいるのですが、聖霊は私たちを聖なる状態に導いてくださいます。そして11節にあるように、最終的には聖霊が私たちの体をも復活させてくださいます。神さまは朽ちるべき体にも命を与えて救いのプロセスを完成させてくださいます。
聖霊の力によって律法は命を与えるものとなる
皆さんはダーツというゲームをご存知だと思います。実際にそれを楽しんだ方もおられると思います。ダーツは室内でできるゲームで、少し離れた的にダーツを投げて一人3本づつ、8ラウンド投げて得点を競うものです。
的に当たらないのは力がないとか、投げ方が悪いとか、体が多い通りに動かないことが原因でしょう。誰もルールが悪いから的に当たらないとルールに文句をつける人はいません。人生における律法はこのルールのようなものです。思い通りの人生ではないことは律法が悪いわけではありません。律法は神さまや他の人たちと仲良く生きるためのルールなのです。しかしルールだけでは足りないものがあります。それはゲームで言えば皆が楽しむということを忘れてはいけないのと同じように、神さまが私たちを造って愛してくださっていることを忘れてはいけないということです。律法が死をもたらすものとなるのはこの神の愛を忘れてしまうからです。聖霊は神の愛とキリストの恵みを私たちに覚えさせてくださいます。そうすることで律法は守らなければならないものから、私たちが生きていくのに必要なもの、すなわち本来の「命をもたらす霊の法則」に戻るのです。
キリスト者は洗礼によって聖霊を与えていただきました。それを受けるならば、世の罪の誘惑を受けて、心が引き裂かれるような状態にあったとしても、命をいただき生かされているのです。ですから信仰生活は喜びであります。