聖書 創世記45章9~15節、ローマの信徒への手紙11章29~32節
宣教の幻と不従順
教会は来年度創立40周年を迎えます。それに向けていくつかの40周年事業を計画していまして、そのうちの一つが記念誌の発行です。私はこちらに来てから1年8カ月しか経っておらず教会の歴史を知らないので、記念誌の準備として教会の歴史を調べています。季刊誌『風』の過去に発行された号に目を通しました。そううしますと今から20年前の2004年春季号に『土気あすみが丘教会の10年後』という特集記事が掲載されていました。
当時の空閑厚憲牧師は巻頭言に「信仰とは……見えない事実を確認することです」というヘブライ人への手紙11章1節を引用して、「この御言葉は夢とか幻(ヴィジョン)とか呼ばれるものが現実化する過程を証ししています」と書いておられました。そしてその例としてキング牧師の『私には夢がある』という説教を取り上げ、彼の壮大な夢は公民権、すなわちすべての国民が国政に参与する権利として実現したことを記しました。その幻とは宣教の幻でした。この号には教会員の夢や幻が記されており、振り返ればこの夢や幻には現実になったものが含まれていることを知ることができます。それから6年後の2010年に本当に新会堂が与えられました。
しかし新会堂が与えられてから教会は試練の時を迎えました。そして、この14年の間に、教会員の平均年齢は10歳ほど上がりました。そのような中にあっても宣教の幻は今も私たちに与えられ、引き継いでいるはずです。もし教会がこの幻を失いつつあるとすれば、それは神の約束を信じられなくなっているということではないか、私たちは神に不従順になっているのではないかと顧みなければならないと思うのです。
神は不従順な者を憐れまれる
本日与えられたローマの信徒への手紙11章29節から32節までの御言葉に聞いてまいりたいと思います。
まずこの個所を理解するキーワードをお話ししたいと思います。それはイスラエルとは何かということです。30節と31節に「あなたがた」という言葉と「彼ら」という言葉があります。そして32節には「すべての人」という言葉があります。「あなた方」はローマの教会の信徒に代表される異邦人であり、「彼ら」はユダヤ人です。そして「すべての人」というのは異邦人とユダヤ人を合わせた全体ということを表します。しかし、そもそもユダヤ人とは血統によるものであり、割礼や食物規定などの律法を守っている人々ですから、それらを守らない異邦人とは一つになることはありません。
ところが「イスラエル」という言葉で表される人々は「神の民」ということですから、神から招きを受けて、それに応えて神と共に人生を歩む人すべてが含まれます。パウロの時代に相容れなかったユダヤ人と異邦人が神と共に人生を歩む神の民として一つであることを、パウロはイスラエルという言葉で表しています。このことを前提として与えられた箇所に聞いてまいります。
29節には「神の招きと賜物とは取り消されないものなのです」と書かれています。この言葉は、キリストの福音による救いによって神が私たちを招き賜物をお与えになったことを意味します。そしてそれは取り消されることがありません。私たちは何の資格もなく、大した働きをしないにもかかわらず、神は私たちを招き、賜物をお与えになりました。私たちは10章9節で「イエスは主である」また「神はイエスを復活させられた」という信仰を告白する者であることを確認しました。そして私たちは聖霊によって神の子であることを知らされました。神は子にすべてのものを与えてくださいます。そして神はこのことを決して取り消すことはありません。
それではユダヤの民はこの福音に与ることはできないのでしょうか。私たちはアブラハムに与えられた祝福を知っています。神はユダヤの民を祝福の民として選ばれました。
パウロはユダヤの民が血統によって選ばれたのではなく、イスラエルという神に従う民として選ばれたのだということに気づいたのです。そうするとユダヤ人が血統を誇っていることは無意味であること、そして異邦人であっても神に依り頼む人々は救われて、神の民として招かれるということが明らかになったのです。このイスラエルというユダヤ人と異邦人の両方に神の祝福がおよぶという啓示を受けたパウロによって私たち日本に住む異邦人も神の救いから漏れることはないことが明らかになりました。
30節と31節はユダヤの人々も異邦人も、神に対する不従順によって神から憐れみを受けていると語られています。「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。」というのがそれです。
異邦人が神の憐れみを受けたのは不従順であった者が従順になったからである、とは言わない。そうではなくて、異邦人が神の憐れみを受けたのはユダヤ人が不従順だったからだというのです。異邦人が神の憐れみを受けたのは結局はユダヤ人を招いた神の憐れみのためであります。まことに神が主導権を握って主体的に働いておられることが明らかです。
そのユダヤ人はキリストがおいでになって異邦人が憐れみを受けたことによって、不従順になっているけれども、それはユダヤ人自身も神の憐れみを受けるためであるというのです。ユダヤ人も神が主導権を握って主体的に働かれて福音を受けることができるのです。
32節に「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」と書かれています。ここではすべての人と書かれていますからユダヤ人も異邦人もありません。それこそ神の民イスラエルの人々です。これは現代のイスラエル国のことではありません。あくまで神の民ということです。
不従順と憐れみ
ところで、私たちが神に対して不従順であるというのはどなたも感じていることではないかと思います。それがどこからでてくるか、何を意味するかを私たちは知ることができません。私たちが知ることができない以上、それは神がそのようにさせておられると理解するより他はありません。神は私たちがご自分に対して不従順であることを忍耐しておられます。そのことは言い換えれば神がそのようにさせておられるといえるのです。
なぜ私たちが不従順になるかということを詮索するよりも、私たちにとってより重要な、より根本的なことは、不従順が神の憐れみに関係しているということです。なぜなら、すべての人が不従順であるために神の憐れみを受けることができなかったのですが、不従順であることを告白した者は神の憐れみを受けることができるようになったからです。
ローマの信徒への手紙4章5節には「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」と書かれています。「不信心なものを義とされる方」とはキリストのことです。なぜなら5章6節にあるように「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」からであります。ユダヤ人も異邦人も不従順であることを認めることから神の憐れみの道が開かれるのです。
ヤコブの息子たちへの憐れみ
創世記37章から始まるヨセフ物語は先ほど読まれた45章でクライマックスを迎えます。ヨセフは兄弟たちに穴に落とされ旅をしていた隊商に拾われて、エジプトで奴隷になり、故郷や父母や末弟のことを思いながら過ごしていました。彼は夢を解き明かす賜物によってエジプトの宰相にまでなりましたが、それでも故郷を想い、兄弟たちに憎しみを持っていました。飢饉になり兄弟たちがエジプトに来てヨセフに穀物を懇願した時には最初は兄弟たちに泥棒の汚名を着せたりしましたが、ついに自分がヨセフであることを明かし、兄弟たちと和解するのです。兄弟たちは神に対して不従順でした。そしてヨセフもまた不従順でした。しかし彼らは神の憐れみを受け、お互いを赦しあったのです。
ヨセフは父ヤコブへの伝言を兄弟に託します。それはヤコブ一族を救う言葉でした。そしてヨセフと兄弟たちは親愛の情を示す口づけをし、互いに抱き合って涙を流しました。神の憐れみがヨセフと兄弟たちを包んで、彼らを満たし、彼らは和解したのです。
不信仰を認め宣教の幻を見る
さらに遡れば開拓伝道でこの教会を産み出した西千葉教会の幻があります。当時の西千葉教会の松本廣牧師はまだ伝道所の影も形もない時に、西千葉教会の方々に開拓伝道の幻を次のように語ったそうです。
『教会は宣教の幻を抱くことによってのみ、絶えず生かされ、成長し、進展していくのである』
このような言葉です。開拓伝道の幻を与えられか人々が祈りつつ献金や奉仕をおこない、千葉市の東の端に集会所が与えられて、人々が集うようになり、その人々の祈りも加わって伝道所が誕生しました。その後に二種教会となり会堂が与えられました。
土気あすみが丘教会がこの地に建てられる時に与えられた宣教の幻は、空閑厚憲牧師の時代にも引き継がれ、そのしるしとして会堂が与えられました。その他にも教会墓地が与えられました。二種教会となり、宗教法人格を取得しました。しかし私たちは財産が増えたと勘違いして、それを守ることに精力を使い過ぎているのかもしれません。また高齢になり思うように活動できなくなってきて宣教の幻が遠のいたように感じているかもしれません。これは神に対する不従順ということかもしれません。今日の御言葉によれば私たちがこのことを不従順であると認め、神さまの与えてくださった宣教の幻をはっきりと見るならば、きっと神さまは私たちを憐れんでくださいます。
私たちに何ができるかは問題ではありません。小さなことからでも始めることができます。10年後の土気あすみが丘教会の幻は今日から私たちが始める小さな業によって神さまが成就してくださいます。私たちは結果を気にすることも、結果に責任を持たなければならないと自分たちを束縛する必要はありません。神が私たちを導いてくださいます。神の御計画はすべての人を憐れむことです。そして私たちに与えられている神の賜物と招きは決して取り消されることはありません。