聖書 マタイによる福音書6章25節~34節
はかなくも美しい野の花
きょうは、関先生が夏休みということで、代わりを務めさせていただきます、大久保と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。この4月に渋谷の教会を離れまして、現在は、知り合いがやっている「障害者グループホーム」を手伝っています。チャンスがあれば自分でも施設を立ち上げたいのですが、それは神様が導いて下さることです。いまは、愛すべき隣人との一日一日を大切にしています。
イエス様はおっしゃいました。あしたのことまで、思い悩んではいけない、きょうの苦労だけでもう十分ではないか。私もそう思って障害者と接しています。あしたまた、神様が一緒にいて下さいます。「あしたはあしたの風が吹く」ではありませんが、あしたの風を、きょう心配しても始まりません。どんな風が吹くにしても、そこに神様の導きの声を聞くことが、大切ではないでしょうか。
野の花がどのように育つのか、よく学びなさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、あすは、炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたには、なおさらのことではないか
本当にその通りです。野の花はあくせく働くことは致しませんし、糸をつぐむことも致しません。それにも関わらず、野の花は、あの栄華を極めた王様ソロモンよりも、はるかに美しく咲いているではないか。あしたにも引き抜かれてしまうかも知れない身の上なのに、神さまは、あんなに可憐な花を咲かせてくださる、まして、あなたたちは、神様の目に、どれほど美しく映っていることか。
ほんとうに、人生、悩みはつきません。どうにもならないものを心配するよりも、もっとほかのところに目を向けてごらんなさいと、イエス様は、おっしゃいます。
神への信頼
いったいどこに目を向けろと、イエス様はおっしゃるのでしょうか。お金でしょうか。確かに貯金があればあしたは安心です。お金で安心を買いなさいと、イエス様はおっしゃっているのでしょうか。もちろん、そうではありません。
以前、日曜学校で「お金が、降ってこないかなぁ」と、つぶやいた男の子がいました。「そのお金で、何をするの」とたずねますと、「困っている人を助けたい」と答えてくれました。今日の聖書のすぐ前にも、「富は(お金は)この世に積んではいけない、お金は天に積みなさい」と、あります。
「天」とは、何のことでしょうか。33節に、「何よりもまず、神の国と、神の義を求めなさい」と、あります。「神の国」、それはイエス様によってすでにこの世界で始まっているのですから、あなたは「神の国」を現しなさい、隣人を愛しなさいとイエス様はおっしゃいます。
でも、私たちは隣りの人よりも、まずは自分のことを心配します。私自身食べ物に気を使いますし、テレビでは健康食品のコマーシャルばかりです。
イエス様はおっしゃいました。何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな、そんなことをしたところで、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
現代の医学によれば、何を食べるかによって、人の命は長くもなれば短くもなるわけですが、やがて歳をとれば、そういった努力もむなしくなります。どんなに医学が進歩しても、空を飛ぶ鳥、野に咲く花と同じように、結局は神様に委ねるほかはありません。
イエス様のご生涯も、さながら野の花のようでした。
「あすは炉に投げ込まれる野の草」とは、ご自身のことをおっしゃっているようにも、聞こえます。このあと八章のところで、イエス様は「狐には巣穴があり、空の鳥にも巣があるけれども、私には泊まるところもない」と、おっしゃっています。
イエス様が、教えをのべ伝えたにお出かけになった時、
貧しい出で立ちで野宿をしました。身に携えるものは何もなく、飢え死にの危険さえありました。その苦労に満ちたご生涯のひとコマひとコマにあって、父なる神は、いつもその日に必要なものすべてを備えてくださったと、イエス様はしみじみと人生を、振り返っているのです。
明日のことまで、思い悩むな。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
これは私のような、なまじっかの苦労人が言えることではありません。イエス様ご自身が、死と隣り合わせの伝道活動のなかで、父なる神への絶対の信頼を、告白なさっているみ言葉なのです。
神の国を現す
いったい、私たちも死と隣合わせになって、あしたのことを心配しないでいられるものでしょうか。
私には、100歳を超えた祖母がいました。「ふじ」という名前だったので、「ふじさん」と呼ばれていました。最後は寝たきりになって、部屋に入ると、ベッドであおむけになって天井をみていました。私はまだ若かったので、気の毒に思ったものです。
あとで分かったことですが、人間、百歳を超えると、幸せな気持ちに包まれるようになるそうです。東京都健康長寿医療センターは、これを「百寿者の心に学ぶ」というスローガンにしています。百歳と言えば、残された平均余命はわずか一年。それでも、毎日を幸せに包まれて過ごしていらっしゃいます。だから「百寿者の心に学びなさい」。あの時の祖母の眼差しも天井ではなく、そのはるかうえの「天」に、向けられていたのだろう、きっと「ふじおばあちゃん」は幸せだったのだと、今になって思います。百歳を過ぎた老人は、あした神様に会えると思って幸せに暮らしていいるのなら、私もぜひ百寿者の心に学びたいと思います。
今日の聖書はこれに通じます。まさに「あすのことまで悩まない」究極の生き方です。もちろん、「あした何を食べようか」と心配するのは、生きてゆくために絶対に必要なことです。でも、そこにばかり目を向けていれば良いわけではありません。私たちがきょうの聖書から学ぶのは、イエス様のまなざしが、いつも「神の国」に、向けられていたことです。
何よりもまず、神の国と神の義を、求めなさい。
天の父なるかみさまが、いつかこの世界をご支配される時、私たちは神様と共にいつまでも住むことをゆるされる、ただその一点を見つめていなさい」と、イエス様は、おっしゃいます。
だから、あした何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな。
それはみな、異邦人が、切に、求めているものだ。
たとえば、エジプトの王様は異邦人ですから、大きなピラミッドを造って宝物を収めました。これはどこの国も同じで、日本には仁徳天皇の大きなお墓がありますし、フランスも中国も、王様はみな同じことをしました。
むなしいことに、その埋葬品は役に立ちませんでした。 遅かれ早かれなくなってしまうものにしがみつくな、むしろ、キリストが十字架によって私たちのすべての罪を担って下さり、晴れて「神の国」で永遠の命を生きる、そのことを信じなさい。キリストが私たちの救い主であることを信じなさい。そして、隣人を愛してこの世界に「神の国」を現しなさい。これが、今日の聖書でマタイが一番言いたいことです。
恐れながらも大いに喜ぶ
私たちの日常は、ささいなことで腹も立てば、憂鬱にもなります。太平洋の真ん中で揺れるボートのようなもので、襲いかかってくるこの世の波はどうすることもできません。明日のことを心配するのは、当たり前です。
その時、私たちが一番聞きたい言葉は、「大丈夫、心配しないで」ではないでしょうか。今日の聖書が言いたいのは、この「大丈夫、心配しないで」ということです。
イエス様が十字架の上で息を引き取ったとき、弟子たちは、どんなに将来を悲観したことでしょうか。しかし、イエス様が葬られてから3日目の朝に、神様の使いが、二人のマリアの前に現れて言いました。
恐れることはない。
イエスはここにはおられない。
復活なさったのだ。
それにこたえて、二人のマリアは「恐れながらも、大いに喜んだ」とあります。いま、私たちにとって大切なのは、苦労の尽きないこの世界にあって、二人のマリアのように「恐れながらも、大いに喜ぶ」ことなのです。 呑気でいなさいというのでは、ありません。すでに与えられている神様の恵みに感謝することを忘れて、心配ばかりが先に立つことを戒めているのです。
旧約聖書のヨブ記には、こんな言葉があります。
主は与え、主は奪う。
主の御名は、ほめたたえられよ。
命を与えるのも、奪うのも、神様です。私たちは裸で生まれ、再び、裸で神のみもとに帰っていきます。
主は与え、主は奪う。
主の御名は、ほめたたえられよ。
私たちはどんな時も神様のもの、与えられる時も奪われる時も神様のもの。どうぞ、悩み多き世の中を「恐れながらも大いに喜んで」、イエス様から託されたこの世の務めを果たしながら、最後まで共に歩んでまいりましょう。