「人となりたる神の言葉」
イザヤ書9章1~6節
ヨハネによる福音書1章1~5、14節
真白い一本の蝋燭が灯されました。白い蝋燭キリストの光。
救い主イエス・キリストが世に降られたことを祝うこの日を、多くの皆さんと共に、何より礼拝を通して喜び祝えることを、心より嬉しく、神に感謝いたします。
旧約聖書の神の名前は、ヤハウェであるということを私はしばしば説教で語ります。ヤハウェという名前は、もともとハーヤーという「躍動する」「動く」という意味のヘブライ語の動詞から派生したと言われる名前です。聖書に於いて、名前はその人の人格を表しますので、「躍動する」「動く」という言葉の意味を名前に含む神は、「動く神」「躍動する神」という神のご性質を表していると言えましょう。
そして今日与えられましたヨハネによる福音書の御言葉、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」これがクリスマス、キリストの降誕のメッセージです。
この御言葉が私たちに告げてくれるのは、イエス・キリストが、神と共にあった世界から私たちのところに来てくださったということです。天から私たちのところまで降りて来て下さった神、それがイエス・キリストです。
先週の説教で、神は父子聖霊なる三位一体というよりも、一体三位という意識のほうがよいのではないか。天に住まいを持たれ、そこですべてを支配しておられてもよいのに、私たち人間への已むに已まれぬ愛によって、私たちを救うために、神が自ら低き地へ降って来てくださった。そのお方がイエス・キリスト。そしてさらにおひとりの神が已むに已まれぬ愛によって、私たち人間ともっともっと親しく近づくために、聖霊として働かれるようになり、神は父子聖霊という三つのあり方をなされるのだとお話をさせていただきました。
しかしながら、今日お読みした箇所はさらに不思議です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」、さらに14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言うのです。
この言とは、イエス・キリストを表します。言が肉、人間の体をとって、わたしたちの間=わたしたちの生きるこの世に宿られたのです。さらに、「万物=すべてのものは言によってなった」と語られます。
旧約聖書創世記1章、神の万物の創造のはじめのことを覚えておられますでしょうか。
「神は言われた。『光あれ』こうして光があった」
神は世界を言葉によってお造りになられました。神が言葉を発せられると、発せられた言葉のとおりの出来事が起こったのです。
私たちは、自分たちの思いを言葉を通して表します。なかなか自分の思いを口に出来ない、気持ちを表すことが苦手という方もおられるかもしれません。しかし、心の中では私たちは絶えず言葉を用いて考え、何とか伝達をしようといたします。そのように言葉というのは、私たちの最も深いところにある、究極の思いであると言えるのではないでしょうか。おひとりの神の、もっとも内奥にあり、もっとも深いところにあった、究極の神の思いが、肉体となった。神の言葉とは、そのような意味なのではないでしょうか。
イエス・キリストは神御自身であられ、神の最も深い思いが、神の住まいである高き天より世に下り、人の肉体をもって生きられたのです。
神の究極の思いとは、愛。「神は愛である」と聖書は語ります。神は躍動し、動く神。御自身のその愛によって突き動かされ、神は天の戸口を踏み出し、世の片隅、暗い馬小屋に、ひとりのみどり児としてお生まれになったのです。
そして、4節では「言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった」と語られています。人となりたる神、イエス・キリストのうちには命―これは、永遠の命、まことの滅びる事のない命があると語ります。イエス・キリストのうちに、まことの命がある。さらにその命とは、人間を照らす光である、と言うのです。
さらに、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と語られます。
暗闇とは何でしょうか。待降節から始まるクリスマス、教会は蝋燭を灯して礼拝をいたします。待降節に一本ずつ増えてゆく蝋燭の灯は、私たちの罪に満ちた世の中、そして私たちの心の暗い部分、罪に光が灯されてゆく、私たちの心の闇が光によって照らされていくことを表しています。
暗闇に表される私たち。人間というのは、実は暗闇が好きなのではないでしょうか。人目につかないこと、人の目には知られたくない自分というものを、誰しも多かれ少なかれ持っている。少しの罪悪感を持ちつつ、心の暗闇に自分を委ねてしまうことが、暗闇に引き寄せられていくことがあるのではないでしょうか。
私は子どもの頃、教会付属幼稚園に通っていました。賛美歌を歌う事、そして神様に祈ることが大好きな子どもでした。口下手なおとなしい子どもでしたが、自分の思いを口には出来なくても、心でイエス様に話し掛けることが出来ることを知っていました。
幼稚園の卒園式を終えた日のことを、今でもよく覚えています。小学生になることが、大人になれるようで嬉しくてわくわくしながら、覚えたての自転車に乗って、家の前をぐるぐる回っていました。その時、ふと「幼稚園で皆と一緒にお祈りを出来なくなる」と思いが擡げました。途端に、心が暗くなりました。どうして良いのか分からない。自分の心の拠り所が無くなったように思えました。それは、私が生まれて初めて感じた「喪失感」だったと思います。でも、次の瞬間思ったのです。「お祈りは幼稚園でなくてもひとりでも出来るんだ。幼稚園の先生は、イエス様はいつも私と一緒に居て下さると言っていた」と思い出し、それから毎晩寝る前に神様に祈るようになりました。その習慣は、大人になってもずっと何があっても忘れない習慣となっていきました。教会にはどうやって行ってよいのか分からなかったのだけれど、いつも、イエス様のことが心の中心にあったのです。
しかし、青春の時代はいろいろなことが忙しくなります。楽しいこともたくさん覚えるようになります。
私は若い時代、演劇を仕事としてやっていました。子どもの頃から、舞台に立って演じることが夢でしたので、ある程度夢は実現したと思えた時期がありました。そして、その仕事を目も回らんばかりに忙しくしていました。忙しさに明け暮れる中、心のどこかで、「私は神様から離れている」という意識があったことは覚えています。きっと後ろめたいこともあったのだと思います。そして私は神様を無視していたけれど、子どものころ、幼稚園でイエス様に出会って、お祈りをしていた子どもだった私を、神様ご自身はちゃんと覚えていてくださり、心にかけていてくださったのでしょう。「間違っているよ「そっちに行くと危ないよ」と呼び声のようなものが、心の中で響いて、立ち止まることもありました。でも、私は、神様を無視して、自分の好きな道を突き進んだのです。
寝る前「今日も祈れなかった」とだけつぶやいて、意識が遠のくことが多くなりました。心のどこかで、自分が神様から離れて転がり落ちるようなイメージがありました。いえ、ちゃんと頑張って仕事をしているのです。でも、その道は何か暗い道のように思えました。でも、その暗い道は若い私には楽しかったのです。
そんなある時、気がつくと、真っ暗でした。道が見えないのです。そのまま前に進むことが出来ない。「行き止まり」という札が見えたような気がしました。
私は、うずくまって泣くしかありませんでした。人と会うことすら辛くなるほどでした。もう、生きていることは出来ない、生きる価値など自分にはないと思えました。神様が私を愛して造ってこの世を生かしてくださっているのに、自分すら大切に出来なくなったのです。
そんな暗闇の中、それまで気づかなかったのですが、家の窓から教会の十字架が見えることに気がつきました。十字架を見ていると、子どものころ、幼稚園でみんなと一緒に賛美歌を歌ったこと、やさしかった先生のこと、思い出して涙があふれてきました。そして、「教会に行こう」と思ったのです。
それは、私が背を向け続けていた神様に、顔を向きなおった瞬間の出来事でした。
神様を拒絶して背を向け続けて自分の道を突き進み、挫折して、自分の心の中に閉じこもり、小さくうずくまって、心の暗闇で泣いていた私の目の前に、あるとき十字架が現れた。それは、私の背後からの光が、神様に目を背けて、体をそむけていた私の、でも、それでもいつも後ろから照らされていた光が、私が私がという自分の思いで突き進み、先が見えなくなった道の先に、指し示された救いのしるしの十字架であったのです。
「教会に行こう」と思ったとたん、私の目の前はぱっと開け、明るくなったような気がいたしました。そして私の後ろを振り返りました。私の後ろには、一筋の光の道がありました。私は真っ暗闇を歩いて、行き止まりになってしまった。でも、振り返ると、そこには神様の光がありました。光の道が備えられていたのです。私はその光に向かって、ただ歩けばよかったのです。この光は命を与える光であり、神の言葉、神の一番内奥の思い、愛そのものである、イエス・キリストの救いの光だったのです。
どんなときも、神様の光は絶えず、私たちを照らしてくださっています。私たちが自分勝手な好きな道を、暗闇に向かって歩いている時にも、私たちの背後には光が照らされています。私たちが神に背を向けて歩んでいる時にも、私たちの背後には光の道があるのです。それほどまでに、神は私たちひとりひとりを覚え、私たちが神の救いに気づくことを待っておられます。
それに気づかないのは、私たちの「罪」という性質、神様に背を向ける性質です。
神様のまことの光なる主イエスさまは、罪深い私たちを愛して、愛するがゆえに、高い天より、低き地に下られ、ご自分が私たちに代わって十字架に架かられ、死ぬことによって、私たちのための救いの道を拓かれました。
イエス様は神の言葉。神の内奥のある思い、愛そのもののお方。
イエス様のお誕生の出来事から2000年経った今、与えられている神の言葉は、この聖書に凝縮されています。
この聖書の御言葉によって整えられ、私たちが新しく歩むことを神は望んでおられます。
御言葉に従い、神の光の中を生きる者とさせていただきたいと願います。
今日はおひとりの姉妹が、イエス・キリストを救い主と信じ、信仰を告白され、洗礼を受けられます。姉妹が、そして私たちも、今日また新たにされて、神の言葉なるイエス・キリスト、この聖書を携え、日々を新らしく、光の道を歩むものとならせていただくことを祈ります。
イエス・キリストのご降誕の恵みが、すべての人に降り注がれますように。