聖書 出エジプト記17章1~7節、フィリピの信徒への手紙2章1~13節
私たちを励ます手紙
日本において、教会と信徒はパウロがこの手紙を書いた状況に似ていると思います。教会は小さく信徒が少ないという点では似ています。違いはというと私たちは憲法にある信教の自由に守られて妨害や迫害を受けることはないという点です。キリスト教を広めているといって表立って取り調べを受けたり、拘束されることはありません。
近年の問題は宗教の名のもとに詐欺まがいの事件が起きていて、宗教全般に対する不信感が人々の中に広がっていることではないかと思います。そんな情況で神さまを信じる信仰を土台に生きていることの喜びを素直に語れないもどかしさのようなものがあるように思います。
当時のフィリピの教会と今日の教会の状況に多少の違いがあるとしても、パウロの手紙は私たちを励ます言葉であることは間違いありません。
神への従順によりひとつの思いとなる
それではパウロの励ましの言葉を聞いてまいりましょう。2章1節に「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、」と書かれています。「あなたがたがそれらに満たされているなら」とは書かれていないことに注目したいと思います。私たちはいわば普通の人間で、キリストを信じていない人たちと本質的に変わりはありません。しかし私たちはイエス様の恵みに触れた者たちであり、キリストからの励まし、神の愛を受けての慰め、霊による豊かな交わりを幾らかは経験しています。
そのような私たちにパウロは「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしてください」(2節)と勧め、励まします。神の愛の共同体である教会とその信徒たちが力を出すことができるか、それとも弱って世の流れに流されてしまうかの分岐点がここにあります。私たちキリスト者はそれぞれは違う存在でありながら洗礼によって一つの霊を分け与えられています。パウロはエフェソの信徒たちへの手紙に「霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」(エフェ4:1~6)と書き送っていますが、この言葉と同様の言葉です。
これは相手の心を読むなどということではありません。具体的には「人にしてもらいたいと思うことを、人にする。」(ルカ6:31)ということです。馬は自分がかゆいところを掻けない時は他の馬の同じ場所をやさしく噛むのだそうです。そうすると噛まれた馬は噛んだ馬のその場所を噛んでやるのだそうです。これは本能でそのようにすることですが、自分がしてもらいたいことを相手に伝えるという例の一つだと思います。
お互いに良い交わりの中にいるという神の愛の共同体においては弱さを出したり、してもらいたいことを言うことは決して恥ずかしいことではありません。世間一般では人の弱みにつけ込もうとする利己的な人や人を騙そうとする人がいますから弱みを出すことには注意が必要ですが、信徒の間では出した方が良いのです。洗礼を受けてイエスさまを主とした人たちの間では弱みを出すことは交わりの始まりになります。
動物と違って人間は考える生き物ですから身体的な不足より心や霊的な不足を満たして欲しいと願うものです。お互いに悲しい時は悲しさを出して慰めを受ける。喜びの時も喜びを表して共に喜んでもらうということができるならば、そして最後には主を讃えるならば、私たちはひとつとなることができるでしょう。
世の荒波に一人ひとりが孤独な闘いをするのでは結果は目に見えています。疲れ果てて世の流れに流される方が楽だと思ってしまうでしょう。しかしそれはせっかくキリストに生かされた者が再び希望のない人生に戻るということです。キリストの救いを信じる共同体として一つであることの大切さはパウロが強調しているように非常に大事なものです。
3節と4節には「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と書かれています。キリストを頭とする共同体である教会の交わりは、お互いが無償の愛によって結ばれています。無償の愛は隣人を求めます。自分を低くして隣人の側に行き、隣人の話に耳を傾けるように促されます。こうして主にある一致が保たれます。
しかしこの一致を妨げる敵は利己心と虚栄心です。自分さえ良ければよいという考えや自分を偉く見せかけようとする言葉は隣人を遠ざけます。パウロは「へりくだる」ように勧告します。誰に対して自分を低くするのでしょうか。それは主に対してです。私たちは主を知りつつも、自分を第一にする傾向があります。これは洗礼を受けて一つの霊をいただいていても、私たちに忍び込む誘惑です。主なる神が一番であることがはっきり分かるならば、隣人より自分が優れていると考える根拠はどこにもないことがわかります。
「互いに相手を自分よりも優れた者と考える」という言葉は対等であると考えるよりさらに謙遜を示します。対等という考えは競争を生む可能性がありますが自分より優れた者であると考えるならば競争することもなく、ちょうどよい塩梅に互いが愛し合う関係になるものです。
キリストが示された父なる神への従順
5節からキリスト・イエス様を思い出させる言葉が書かれています。今までキリスト者を励ましていたパウロはここでイエス様を思い出させています。「それはキリスト・イエスにもみられるものです。」という言葉で、イエス様が父なる神にへりくだり、従順であられたことを示しています。私たちにだけ勧告しているのではなく、イエス様もそうだったと書くことによって私たちに自覚を与えようとしています。パウロ自身がイエス様の謙遜に倣って謙遜でした。パウロは牢獄にいても不平不満を言うのではなく主を宣べ伝え、主の恵みにふさわしい生き方をしていました。
6節から10節はこの部分だけ抜き出して読んでも実に感動的な事柄が書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わなかった。」のです(6節)。私たちは自分の身分や地位や財産を惜しげもなく捨てることなどできません。ですから全能の神であり知恵と力にあふれた神がその身分に固執しようとは思わなかったということなどあり得ないことだと思うのですが、それが起きたのです。
キリストは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(7節)。神がしもべの身分となり、人間になられたのです。この間の事情をルカによる福音書はベツレヘムの喧騒の中で人知れず不衛生な馬小屋で生まれたイエス様のことを記しています。王であるお方が一番貧しいお姿でこの世にお生まれになりました。
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(8節)。生まれた後も命を狙われて難民となってエジプトで過ごし、都から遠く離れた小さな町で育ち、公生涯に入られてからは放浪の旅を続けられました。そのような中で神の国を伝え、癒しの業を行われたのです。その挙句に捕らえられ罪人とされ十字架で死なれました。このお方の人生のどこに喜びがあったでしょうか。傍目にはどこにもありません。しかしイエス様の喜びは宣教の言葉を聞きイエス様に従う人々が起こされたことだったでしょう。それは父なる神の御旨に従ったことの喜びでありました。
その「キリストを神さまは天に上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(9節)。名はその実体を表しますから、キリストはあらゆるものにまさるお方となられたのです。パウロは「天上のもの、地上のもの、地下のもの」(10節)という表現で、すべてのものがイエス様の御名にひざまずき、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神を讃えることを記しています。現代までイエス様にひざまずかず、主と告白しない人々がいましたし、今もいます。しかしその人々も、キリストの再臨の日にはこの御言葉通りになるのです。
キリストが私たちに生き方を教えてくださいました。神の前にへりくだり、従順である生き方です。私たちは、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにするように生きる生き方を知ったのであります。それは私たちが完全な人間になった時にできるようにるということではなく、私たちにキリストの励ましや愛の慰めや霊による交わりなどが少しでもあればできるのです。このことを私たちは受け止めて、行動に移したいと思います。そうしなければこの世の悪に負けてしまうでしょう。私たちの心の中にある傲慢の欲望に負けてしまうでしょう。
パウロはこの手紙を読んだ人々が神に正しい生き方をしてほしいと熱心に願っています。12節に「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と書かれているように、パウロは神に従順であるようにと繰返しています。私たちはイエス様に救われました。しかしそれは完成ではありません。キリストが再臨する日を待ち望みつつ、神さまを恐れ、神の愛の交わりを広げていきたいと思います。
神が望ませてくださる
互いに尊敬し合い、愛し合うことができるようにと祈りつつ、そのようにおこなうならば、神さまは叶えてくださいます。何よりも神さまが私たちをそのように用いてくださいます。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(13節)と書かれている通り、良い思いはすべて神さまから来ます。
最後にパウロは「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」(14節)と書いています。私たちはひとつになることを望んでも不足しているもののことを考えがちです。私はそんなに立派じゃない。知恵も力もお金も若さもない、と考えます。そう考えれば私たちはひとつになることができず、愛の共同体とは名ばかりの集まりとなってしまいます。
出エジプトの民はレフィディムという場所に来て飲み水がないことを理由にモーセと争いました。しかし実は民を導いていたのはモーセではなく、神さまでした。神は昼は雲の柱、夜は火の柱をもって民を導きました。民はそのことが分かっていたはずなのに、不足があると神に求めるのではなく、人間(モーセ)に不平を言い、争いました。彼らには神が伴っていたのですから神に祈り、神に求めるべきでした。モーセが神に祈ると神は水を得るための命令をモーセに与えました。そしてモーセがそれを実行すると岩から水が湧き出たのです。
パウロが「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」と書いたのはこのようなことです。足りないものを数え上げればきりがありませんが、与えられているものだけで十分なのです。神さまはそれを用いて私たちを一つにして守ってくださいます。
愛の共同体はひとつ
信徒の交わりにおいては、互いに同じ思いとなり、同じ愛で心を通わせて一つになることができます。弱さを出して良いし、それを聞いた人は何かをしてあげることができるでしょう。すべてのキリスト者がそのようにするとき、その共同体はまことに神の愛の共同体となり、人々の間に神の国が現れます。
同じ霊をいただいていない人々と心を通わせることは非常に難しいのですが、心を通わすことができなくても賢く振舞うならばその人々と平和に暮らすことは可能です。ですから、そのように努力することを心掛けたいと思います。そしてまだ神さまを信じられない人々が福音を受け入れ、この愛の共同体に加わって一緒にこの世の旅路を歩んでいただきたいと願います。