11月5日礼拝説教「主は再び来られる」

聖書 ヨシュア記24章14~25節、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ・4章13~18節

聖徒の日について

11月1日は世界の教会で「聖徒の日」と定められています。聖徒とはキリスト者のことです。日本基督教団では11月第1主日を「聖徒の日」としていますので、私たちの教会では毎年この日に召天者記念礼拝をおこなっています。

初期の教会はイエス様を信じて殉教していった聖徒を記念して、その人が亡くなった日にその人の名をつけて礼拝していましたが、5世紀以降、1年中のすべての日に「誰誰の日」と名づけられるようになりました。そこで9世紀ごろにすべてをまとめて11月1日をオール・セインツ・デイ(すべての聖徒の日)と呼ぶようになりました。

今日は召天者を、それぞれの人生と信仰を覚えながら思い出し、共に礼拝します。また、代々の聖徒たちと共にキリストの体の一部であることを覚えてこの日を祝いたいと思います。先ほど司式者の祈祷の後にこの教会に関わられた方たちのお名前をお呼びしました。その中には洗礼をお受けになることなく天に召された方たちもいますが、キリストはすべての人をお救いになるために陰府にまで下られて福音を伝えたのですから、私たちはその方々のことも覚えて礼拝したいと思います。名前を呼ぶということは命のつながりです。生きている時も死んだ後も神さまが私たちの名を呼んでくださいます。ちょうどエデンの園で神さまから隠れたアダムとエバを神さまが呼んだように私たちの名を呼んでくださいます。私たちも生きている間も死んだ後も祈りや黙想において神さまの名を呼びます。私たちは神さまとの永遠の関係にある、永遠の命を得ているのです。

解らなくなってしまったテサロニケの信徒たちへの手紙

本日はヨシュア記とテサロニケの信徒への第一の手紙が読まれました。テサロニケへの信徒への手紙のパウロの言葉は良く分からないと思われた方がおられるのではないでしょうか。
「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(14節)と書かれています。「イエスと一緒に」とはどういう意味でしょうか。
「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」(15節)と書かれています。「主が来られる日まで生き残るわたしたち」とはどういう意味でしょうか。
「主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活します。」(16節)と書かれています。「主御自身が天から降って来られる」とは何を意味しているでしょうか。
また「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活します」とはどういう意味でしょうか。
「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」(17節)という言葉はもはや常識では考えられない情景です。

しかしここではキリストを信じて天に召された人たちのことが語られています。問いを持ちつつ御言葉を聞いていきたいと思います。

主の再臨と私たちの甦り

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。(13節)

テサロニケの信徒たちはある事件によって兄弟姉妹が亡くなったことを嘆き悲しんでいました。そして「イエス様が来てくださる前に眠りについた人たちは神の祝福にあずかることができるのだろうか?」という疑問を持ちました。それは生きている人々にとっても問題でした。それに対してパウロが示したことは、まずイエス様の復活のことでした。

イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。(14a節)

まず、パウロはテサロニケの信徒たちにイエス様が復活されたことを思い出させます。復活は当時の人々にとっても容易には信じられないことでしたが、テサロニケの信徒たちはパウロがテサロニケで宣教していた時にパウロの説教を聞いて信じていました。今日の私たちにとっても復活は容易には信じられないことです。復活があり得るのかどうかは現代の英知をもってしても解明できません。おそらくいつまでも解明できない事柄でしょう。人はすべてを知りたいという願望をもちますが、すべてを知ることはできないことを知らなければなりません。この世界を構成するものは分子でできていると解明したら、更に原子が発見され、更に素粒子が発見され、その素粒子の種類も発見されていて、いまだにすべてを見つけることはできません。宇宙にしてもある謎を解明すると、また謎が現れてきます。私たちが知ることができない事柄は「信じる」か「信じないか」です。人は何かを信じています。羽仁もと子という人は「人は何かを信じなければ生きていくことができません」とその著書の中で語っています。そして何を信じるかによってその人の生き方や、さらには未来までもが変わります。

復活を信じる根拠は、復活の主に出会った人々の証しであり、その証しによって信じた人々の信仰の系譜です。信じる人たちが次々と起こされ、その人たちが自分の人生を通して主の復活を証ししてきた歴史があります。

「わたしたちは信じています」という言葉がありました。これは私たちが毎日のように唱える使徒信条の言葉に引き継がれています。「我は・・・父なる神を信ず。我はその独り子・イエスキリストを信ず。・・・我は聖霊を信ず。」という言葉です。使徒信条の「我」とは「私たちの中の一人である私」を意味します。

「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(14b節)

ここに「イエスと一緒に導き出してくださいます。」と書かれています。この言葉がイエス様の復活のことを語っているのであれば、イエス様の復活はすでに起きたことですから矛盾した言葉だということになります。しかしここで語られているのはイエス様が再び来てくださることなのです。イエス様が再び来てくださることを「再臨」、再び現れると呼びますが、この再臨はイエス様ご自身が約束されたことです。ギリシア語ではパルーシアと言い、英語ではthe Adbentと言います。日本語では「待降」降ってこられるのを待つという意味の言葉が使われます。英語には定冠詞がついていることからこのアドベント(到来)は唯一のものであることが表されています。

従って「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」という言葉は、イエス様が再臨される時に信じて死んだ人たちは甦るということを表しています。

「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。」(15節)

ここには再臨の幻が書き記されています。「主が来られる日」とは主の再臨の日のことですから、これは第2のアドベントとも呼ばれます。その時には主を信じて眠りについた人たちが先に復活します。その後に生きている者が復活します。生きている者が復活するというのはおかしなことに聞こえるかもしれませんが、復活とは肉体が滅び、霊の体に甦ることですから、イエス様が再び来られた時に生きている人たちも復活するのです。

「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。」(16a節)

ここにも主の再臨の幻が書かれています。パウロは主の再臨について譬えを用いて語っています。その譬えはイエス様がなさったぶどうの木の譬えのように分かりやすいものではなく、良く分からないが何かを示しているという隠された譬え(暗喩、メタファー)で語っています。再臨の具体的なことは人には隠されているのです。この文章で分かることは主の再臨には何らかのしるしがあるということです。主の再臨は「終末の完成」とも言われます。

主を信じていない人の終末のイメージは、大災害や天変地異、あるいは滅びといったものだと思います。しかし主を信じる人の終末のイメージは、世界の回復であり体の甦りであり、罪の滅びです。

「すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」(16b~17a節)

黙示的な表現で主の再臨が語られています。復活は体を伴う甦りです。ここに「雲」が出ていますが、雲は天への移動手段や勝利の凱旋を想像させる言葉です。旧約聖書にはこの雲のイメージが色々な箇所で使われています。例えばダニエル書には「夜の幻をなお見ていると、/見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み」という言葉で主の到来が語られていますが、そこに「雲」が描かれています。

生きている時も死んだ後も主と共に

「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(17b節)

私たちは生きている時も死んだ後も主と共にいます。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)とか、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」(ヨハネ15:4)という言葉を語り、ご自分から離れないようにと私たちを諭しておられます。

イスラエルの民をカナンに導いたヨシュアは「自分と家族は主に仕える」(ヨシュア24:15)と告白し、イスラエルの民は「主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」(24:24)と告白しました。現代の私たちも主から離れないことを告白することが大切です。「主に私は仕え、その声に聞き従います」と約束したイスラエルの民は、その後も主に背きましたが主は民を見捨てられませんでした。

「ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」(18節)

先に天に召された聖徒たちは神さまが覚えていてくださいます。神の命の中に生かされています。「励まし合いなさい」という言葉は「慰め合いなさい」とも訳せる言葉です。パウロはテサロニケの信徒たちが兄弟姉妹の死を悲しんでいることを知り、信徒たちがその悲しみを癒し立ち上がるために慰めを語り、励ましを与えたのです。復活は生きている者にも死んだ者にも与えられる希望です。

召された人々を覚え御国の旅を続ける

一人ひとりが主に示された道を歩みつつ、キリストにある信仰共同体の一員として慰め合い、励まし合って、御国への道を旅していきます。主はパウロを通して、キリストを信じて天に召された人たちと神との交わりを示してくださいました。それはキリストを信じて永遠の命に生かされることです。生きている者も死んだ者も主の再臨の日には甦り、共に神を賛美するという希望が与えられました。私たちはこの希望を抱いて御国への旅を続けるのです。