聖書 士師記4章1~7節、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ・5章1~11節
突然の死に戸惑う
世界は分断に向かっているように思えます。国と国とが衝突し、戦争が起きています。世界のいろいろな場所で紛争が起きています。戦争で軍隊に所属する人たちが死んだり傷つくばかりでなく、一般の市民が一番犠牲になっています。大人が起こした戦争によって多くの子どもたちや一般人が死に、傷つき、家を失い、食べものがなくて苦しんでいます。世界は破滅に向かっていると希望を亡くしている人たちが増えているのではないか、あるいは不安を覚えている人たちが増えているのではないかと思います。また突然、何の理由もなく自分の子どもが交通事故に遭って死んでしまう、といった辛い経験をした人もいます。
突然の別れに悲しむばかりではなく、その人たちがどうなるのだろうか、本当にただいなくなってしまったというだけなのか。本当にその家族だとか友達とかはそういうことを心配しているのではないかと思うのです。いわゆる「残念だ」という思いを越えて、「あれで終わってしまったのか。あの人の人生はそれで終わりなのか」というようなことを考えるのではないかと思うのです。
キリストは来られる
今日読まれましたテサロニケの信徒への手紙一は、当時テサロニケで信徒たちが迫害に遭っていて、それによって亡くなってしまった兄弟姉妹がいて、その人たちはどうなるのだろうかという思いを抱いていました。今の私たちが抱くのと同じです。戦争は遠いところで起きていますけれども、今は映像が私たちのところに届きますから、子どもたちが死んでいっているというような状況を見ます。そしてまた家を追われた人たちがたくさん歩いて避難しているという状況を見るわけですから、私たち自身が苦しみを抱えています。やるせなさというものもあるかと思います。
今日読まれた士師記のところにしましてもテサロニケの信徒への手紙にしましても、人々の苦しみということが前提にあるということなのであります。最初にテサロニケの信徒への手紙の方を読みたいと思うのですけれども、1節に「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。」と書いてあります。「その時と時期」というのは少し前に書かれておりました「主の日が来る」ということについてですね、パウロが死んだ人たちが先ず私たちよりも先に甦るのだということを語りました。そしてその後に、生きている者も甦るのだ、ということを私たちに教えてくれました。この世界も新しい世界に変えてくださるのです。それが主の日であります。そしてテサロニケの人たちはその日が来るのを待ち望むようになったと思われます。
しかしながらパウロは「その日がいつ来るかということはあなたたちが知る必要はない」というふうに書いています。人は大きな出来事が起きる時、あるいはそれがどのようにして起きるかということを知りたいと思います。幾つもの異端宗教がその日を終わりの日としてどのように起きるかということを信者に信じ込ませようとしています。その切迫さを強調することで恐怖を煽り、その団体から抜けることができないようにする。それ自体が人を縛るものになっているわけです。しかしパウロは、そう言うふうに考えてはいけない、と私たちに言います。主の日が来るということを信じること、その日には亡くなった人たちが甦る。そのような時が来るというのであります。その時は盗人が夜やってくるように突然来るというふうに言われます。知らない間に突然来る、そういうものだろうと思うのです。
その主の日は恐怖ではありません。それは希望の日であります。3節には『人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。』と書かれています。これは、主の日は必ず来る、ということです。私たちはその日を待ち望むのであります。しかしながら、私たちがそれを「ただ待っていれば良い」ということではないということをパウロは語るのであります。
5、6節に「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」と書いてあります。パウロは「私たちは光に属し、昼に属しているのだから、いつもその日が来ることを信じていることができる。そして備えるのだ。」というのです。
主キリストの日に備える
「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。」(8節)と書いてあります。「キリスト者は昼に属する者であるのだから」というのはキリストの光を受けるということであります。キリストの光に照らされて、暗闇ではなくキリストが示された道を歩むことができます。主の日に備えるということは、主を私たちを守ってくださる人として、導いてくださる人として信じるということ。そして私たち自身にも神が無償の愛を注いてくださっている、その愛を私たちからあふれ出るほどにしてくださっている、ということを信じるということ。
備えるとはじっと待つのではありません。じっと待つのではなくて、私たちからあふれ出る愛を人々に注いでいく。いや私たちから愛があふれ出ていくといったことなのです。タラントの譬えではありませんが、もし私たちが100タラント、1,000タラント、10,000タラント持っていたとしても、それをだれにもあげなければ主の日のために備えていることにはなりません。私たちが日々、私たちに与えられた愛、私たちの中では一杯になって溢れ出てしまう愛を人に献げる。それをし続けることが備えるということなのであります。
そして「救いの希望を兜としてかぶる」とはとは私たちが救われているけれども今まだ罪の中にあるという現実の中から、主が来られた日には私たちは完全人救われるのだという希望を持って生きていくということです。私たちは不完全です。しかし神は完全であり、神は力強い。神は私たちを変えることなど簡単にお出来になるお方です。私が自分の力で変わらなくても、私が完全な人間になれなくても、神が変えてくださるのです。神は私たちの悲しみを、その涙を拭ってくださる、私たちの孤独に寄り添ってくださるお方です。
「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(9節)。主は天に上られて神の右におられても、私たちのために執り成しをしてくださり、傲慢な者には審きを与えておられるのです。「神の怒り」は旧約の人々には非常に恐ろしいものでした。神の怒りが自分に注がれないために犠牲をささげて怒りを宥めていただいていました。現代の私たちが神を蔑ろにしているのとは全く違うのです。神が裁くお方として私たちのそばにおられたのです。恐れの中で神に義とされるように生きていた。あるいは罪人とされて希望なく生きていた人たちもいました。罪人にされたというのは律法を守ることができないということです。これは目に見える形での罪人という差別です。現代の私たちが思うような罪人、犯罪者とは違います。今でも、学校の中でいじめがある。「お前は汚い」という言葉は汚れているということです。そのような差別が学校の中にあるのです。もしかしたら会社の中にもあるかもしれません。罪人とされた人たちは呪いを受けるとされていたのです。
しかしキリストは恐れの中で生きていた人たちも、罪人とされて希望なく生きている人たちも、救いにあずからせてくださいました。私たちもその救いにあずかりました。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(10節)。私たちが罪人とされないために、私たちが神に裁かれないために、神はその愛を以て御子イエス・キリストを私たちに与えたのです。そして主イエス・キリストが私たちのために罪を負って死なれました。そのことによって私たちは生かされているのです。このキリストの十字架の贖いのよって救われました。
ですから尚更、十字架の救いにあずかる前に亡くなった人、特に突然亡くなった時にその人たちはどうなるのかというのは大きな問題です。私たちだけのことではない。この世界が救われるために、私たちの肉親や友達が救われるために、神はどのようにされているかを知りたいと私たちは願うのであります。ですからこそ、このパウロの言葉、「主の日は必ず来る」ということと「主が生きている者だけではなく死んだ者も甦らせてくださる」という希望は私たちの取って大きな慰めとなるのであります。
「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(11節)と書いてあります。「励まし合いなさい」という言葉は「慰め合いなさい」という言葉と一緒なんですね。お互いに慰め合うということが完全にできた時に人は励まされるのであります。慰めから励ましを受ける、その慰めというのは、言葉による慰めだけではありません。特に大事なことは私たちに言葉が与えられていなくても私たちが悲しんでいる人の側にいるということです。何もできなくてもその人の側にいてあげる。それが「主の日に備える」という私たちに出来ることではないかと思うのです。私たちはそのようにして慰めを受けるのです。そして立ち上がることができます。
今、私たちはテレビで悲惨な場面を見ます。それは私たちの身の回りに起きていることではなくても、世界の片隅で起きていることかもしれないけれども、そこで自分の身を守ることのできない子どもや女性や老人が死んでいくのであります。1発の爆弾で何十人、何百人の人が死んでいく。それを私たちは映像として見なければならない。こんな時代になってしまいました。だから私たちの心にも言いようのない苦しみ、悲しみ、神さまなぜですかという思いが芽ばえるわけですけれども、それでもなお神は私たちを放っておかれるのではありません。必ず主は来られるのであります。
パウロは「お互いの向上に心がけなさい」と勧めます。「お互いに向上する」という言葉は「徳を高める」あるいは「品格を高める」という意味を含んでいます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ロマ5:3,4)という言葉がありますけれども、この「練達」は「品格」という言葉でもあすように、私たちの品格を高めていくということ、互いに高め合うということです。これも「主の日に備える」という私たちに出来ることです。そしてこの言葉(お互いの向上に心がけなさい)は「建て上げる」という言葉でもあります。私たちは御言葉によって私たち自身が建て上げられていくのです。そしてキリストの体の構成となるわけです。教会というのは共同体でありますから、その共同体としての教会は確かに神の神殿です。その神殿は、目には見えませんが、建て上げられ続けている建築現場でもあるのです。そしてこの建物に組み込まれることを望む新しい石材が、つまり新しい人たちが備えられています。それは絶えることはありません。教会を築き上げる主体は神さまであります。人間が本当の建築者ではありませんけれども、神さまに支えられて私たちがキリストの体を建て上げていくのです。私たちが神さまの言葉を語り合い、励まし合うということです。慰め合うということです。パウロはイエス様が再び来られて生きている者も死んだ者も甦り、主と共にいるようになることを教えてくれました。
主を求めるという備え
そして旧約(士師記)の方では個人の救いだけではなくて、共同体の救いということが私たちに語られています。士師という当時の指導者が立てられるということが当時ありました。その当時は国というまとまりはありませんでした。法律や制度がなくて、12部族がそれぞれの場所で生活していました。そこに外敵が襲ってくるのです。なぜ外敵が襲ってくるかということをイスラエルの民はどのように理解したかというと、自分たちが神さまから離れたからだと理解しました。神さまはそのことを教えるために外敵を使っているのだと。ですから20年間もの間、イスラエルは侵略に遭って、穀物を奪われたり、牛や馬といった労働力を奪われたり、子どもや女性がさらわれてしまうというようなこともあったでしょう。それは突然奪われるということです。そのような状況が20年も続いた。その状況の中でいつ救われるのか分からなかった。分からないで日々を過ごしていくわけです。その間にも略奪者が来るのです。その時にイスラエルの人々は神に祈ったのです。神を求めたのであります。その神を求める声を神は聞いて、女性預言者のデボラを士師として立て、外敵に立ち向かわせたのです。
神はイスラエルの民を強くしてから外敵に立ち向かわせたのではなく、弱い状態のままイスラエルの民は集まってきて、神の命令通りに外敵に対抗していきました。神が共にいてくださったので戦いは外敵に勝ち、外敵をイスラエルから追い出すことに成功しました。
士師記が私たちに教えてくれるものというのは「必ず救いは来る」ということです。私たちにとってもこの教会共同体が救われるというとおかしいですけれども、新たな働きを与えられる時が来るというのも、またこれは真実であります。それは主の日が来るように私たちのところに来るのです。私たちは色々な苦しい体験をしてきたかもしれません。一人ひとりの人が色々な苦しい体験をしてきた。そして教会も苦しい体験をしてきた。しかしそれは決して無駄ではないのであります。イスラエルの民が20年間の苦しみの中で得たものは何であったか。それは神を求めるということを知ることに20年間かかったわけです。その言葉を神が聞かれたのです。私たちにとっても神を求めるということ、これは主の日が来るのに備えるという備えの一つであります。祈る。聖書を読む。互いのことを思いやる。これはここに呼び集められた私たちがすることでありますし、呼ばれながらもまだ来ていない人たちのためにも私たちができることです。
私たちが主の日はいつ来るのかということを詮索する必要はありません。日々、主の日が来るのに備えて、主が教えてくださったような交わりを保って行けばよいのです。キリストが再び来られる日は、一方では世の終わりでありますけれども、一方では世の完成の日です。私たちはその日に備えてお互いを慰め、励まし合って、お互いに向上する、徳を立てる、品格を立てる、そしてキリストの体を建て上げるのです。私たちの胸に信仰と愛を持ち、救いの希望を忘れないで日々を過ごしましょう。私たちが主の日に備えて互いに高め合い、品格を向上させていくならば、主の日はいつ来ても喜びの日となるのであります。