聖書 イザヤ書64章1~4節、マルコによる福音書13章32~37節
アドベント始まる
今日から待降節(アドベント)に入りました。毎年、この時期には説明することですが、アドベントとはラテン語のアドベントゥスから来ている言葉で、「到来」を意味します。クリスマスはイエス様のご降誕を記念してお祝いする日ですから、アドベントはイエス様が来て下さること、すなわちイエス様の到来を待つ時ということになります。教会は暗闇のような世界に希望の光を掲げ続けます。会堂の庭のもみの木のイルミネーションも、先ほど点灯されたアドベントクランツのろうそくの光もこのことを象徴しています。週報の裏面の「牧師室から」に少しそのことを書きましたのでお読みいただければと思います。
救いは必ず訪れる
イザヤ書64章4節には「あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。」と書かれています。旧約のユダヤの民、特にバビロン王国という強大な国によって国を滅ぼされ遠いバビロンに連れていかれた捕囚の人々は故郷を想いながら涙に暮れていました。詩編には「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。」(詩編137:1)と人々の心情が書かれています。シオンとは故郷のエルサレムのことです。捕囚にしたバビロンの人たちが無理に歌をうたわせようとする、という言葉で捕囚になった人たちが見世物のような軽い扱いを受けていたことがわかります。それでもこの人々は主なる神から離れたり裏切ったりすることはありませんでした。こんな言葉で自分たちを戒めています。「エルサレムよ/もしも、わたしがあなたを忘れるなら/わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい。」。このような言葉です。エルサレムは神殿があったところで、その神殿さえ破壊されてしまいましたが、人々はその場所を神がおられる聖なる場所として想い続けていました。
そのような頃に預言者イザヤは捕囚の民に64章1節から4節の言葉を告げました。弱り果てた人々、しかし主を待ち望む人々のために次のような願いをささげました。「主なる神のお名前が敵に示されれば、すべての国は震えます。山々でさえ揺れ動きます。主なる神は主を待ち望む者に計らってくださいます。そのようなお方は他にはおられません。主の道に従って主を心に留める者を、主はご自分のところに迎えてくださる。私たちが罪を犯したので主は憤られました」。このような言葉です。
ここに罪の告白が語られていることに注目したいと思うのです。主を待つという思いには、主から離れてしまったという反省と言うか、自分たちを顧みた時に敵に捕らえられ捕囚として何十年も暮さなければならなくなった理由があったという反省が込められています。そして反省するだけではなく「わたしたちが罪を犯したからです。」と罪を告白しています。
この悔い改めと主を待ち望むことから、新たな希望が生まれています。それが4節最後の言葉です。「しかし、あなたの御業によってわたしたちはとこしえに救われます。」
私たちは教会暦として1年間で主の到来であるクリスマスを迎えるのですが、この教会暦は主が必ず来られるということを私たちが記憶し思い起こすための手段であるといえます。つまり私たちはこのアドベントの期間を主が再び来る時を待つ訓練の期間として過ごすのが良いということです。
主はすでに来てくださり、福音を告げ、神の国の始まりを宣言なさいました。そして主は再び来てくださり、新しい天と新しい地を造られ、私たちを甦らせてくださり、神の似姿に回復してくださるのです。
そしてマルコによる福音書はイエス様の言葉として「その日、その時は、だれも知らない。」と私たちに告げます。「その日、その時」とは7節の「世の終わり」や13節の「最後」というイエス様の言葉に表されている「終わりの日」です。イエス様は再びこの世に来ることを約束なさって天に上られました。イエス様が再び来られる時が終わりの日です。そのイメージはヨハネの黙示録の中に幻として語られていますが、それは「新しい天と新しい地」が創造される時です(黙 21:1)。実はこのことはイザヤ書にも預言されています。イザヤ書65章17節に「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」という言葉、イザヤ書66章22節に「わたしの造る新しい天と新しい地」という言葉が記されています。そして私たちは肉の体を脱ぎ捨て新しい体に甦ります。パウロはこのことをコリントの信徒への手紙第1に「蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」と記しました。イエス様が再び来てくださる日である「終わりの日」に世界も私たちも神が創造した時の状態に回復させていただくという希望が与えられました。これは信じる以外にはありませんが、信じるならばこの希望は私たちを生かします。しかし信じない人々には新し天と地の創造や人の復活は信じられませんから、終わりの日は恐ろしい最後の日になります。
その時は知らされない
その「終わりの日」は人が生きていようとも死んでいようとも必ず訪れます。私たちはそれを避けることができません。キリスト者にとっては希望の時ですが、神を恐れない人々には恐ろしい時です。
ところでその日は必ず訪れるのですが、私たちはその日や時を決して知ることができません。私たちはどのようにして主を待ち望めばよいでしょうか。パウロは33節で「気をつけて、目を覚ましていなさい。」と私たちに勧めています。この「目を覚ましていなさい」という勧告は今回読まれた短い箇所の中に33、34、35、37節に4回も書かれています。パウロがこれだけしつこく「終わりの日」すなわち主が再び来られる日に備えて「私たちが目を覚ましている」ことを勧告するのは、いつ来るか分からないのだから適当に毎日を過ごしていても良いのだと思わないようにということと、いたずらに終わりの日のことを詮索しないようにということの2つが大切だということです。
目を覚まして待つということ
少し話が変わりますが、私は自宅では時々バスを利用して近くの駅に行きます。ところがこのバスは時刻表通りには来ないのです。必ずと言ってよいほどに10分は遅く来ます。雨の日などは20分近く遅れて来ることもあります。ところが、どうせ遅れて来るからと思って家を出るのを遅らせると、その時に限ってバスは時刻表通りに来て、乗ろうと思っていたバスに乗れないということが何度かありました。バスは必ず来るのですが、私の思うように遅れてくるわけではないのです。のんびりしていれば乗り遅れてしまします。
電車でも乗り遅れたことがあります。というか、目の前でドアが閉まってしまい乗れなかったことがありました。電車は発車する前に必ずアナウンスがあると信じていたら、アナウンスなしでドアが閉まったからです。これはどうもアナウンスで飛び込み乗車をする危険な乗客の行動を防止するためのもののようでした。車掌は私が電車のそばを歩いていても乗る気配がないと判断して安全確認してドアを閉めたのでしょう。油断していて電車に乗り遅れてしまいました。
30年位前に聞いた話ですが、中国では飛行機がいつ飛ぶかわからないけれども目的地に行く飛行機はあるということがあったそうです。それに乗ろうとする人たちは空港で待っていて、何となく噂が流れてくると動き始めるのだそうです。そしてある時に飛行機が着て、それに乗り込むことができるのだそうです。今回の御言葉を黙想していて、いつ来るか分からないとなれば人はいろいろな情報をかきあつめて乗り遅れないようにするものだと思ったことを思い出しました。
このように私たちは日常のことについて目を覚ましています。ですから終わりの日、主が再び来られる日の約束を信じて目を覚ましていることはそれほど大変なことではありません。私たちの日常と同じことをすればよいのです。違いは主が再び来られる日は1度しかないということです。
一方で救いに乗り遅れた人たちのことが旧約聖書に記されています。それまで洪水など一度もなかった地方に洪水が来るということを神さまから教えてもらったノアとその家族は箱舟を作り始めました。その地方の人々はそれをみてあざ笑ってのんきに過ごしていました。しかし箱舟が完成すると地上には大雨が降ってその地方一帯は水没してしまいました。箱舟は救いの象徴です。救いがあるのに、それをあざ笑い、その日に備えなかった人たちは死んでしまいました。なお、その人たちが死んだ後に悔い改めて神さまに立ち帰った可能性はあると思うのですが、聖書はその人々のことについて記してはいませんので、何とも言えません。
主の言葉に従って生きる
目を覚ましておくということは、眠らないということではありません。私たちは眠らなければ死んでしまいます。パウロが勧告しているのは眠ってはいけないということではなくて、終わりの日のことをいつも思っていなさいということです。
具体的にはイエス様が言葉と行いで私たちに教えてくださったように日々を生きるということです。ですから目を覚ましておくということは難しいことではありません。信じている者同士は互いの友情と愛とでお互いに助け合い、そうではない人々ともできるだけ仲良くするという生き方を続ければよいのです。それを可能にするのは礼拝で神を賛美し、聖書の御言葉を聞いて受け入れることです。詩編に「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らすともしび」(詩編119:105)という言葉があるように、私たちが目を覚ましているというのはいつものとおりに、お互いが神を愛し、隣人を自分のように愛することです。主は必ず再び来てくださいます。クリスマスに来て下さったのですから。それは主の約束です。