「 今日、救いがこの家を訪れた 」
ヨブ記28:1~11
ルカによる福音書19:1~10
一昨日1月6日は、主の公現日でした。主の降誕を知った東方の学者たちが星をたよりにやっとベツレヘムに到着し、御子を礼拝した日。主イエスが異邦人にも公に現されて世界の救い主であることを示された日。世界宣教の始まりの日とも言われます。暦の上では降誕節は続きますが、公現日を以ってアドヴェントから始まったクリスマスはひと区切りとなり、教会は主のご生涯を辿る時節に入りました。
そして約三ヶ月ぶりにルカによる福音書の講解説教に戻って参りました。今日の箇所は、8月にY姉が奨励でお話を下さった箇所でもあります。私はY姉が語られた原稿を読ませていただき、心から感銘を受けました。そして、この箇所は説教をするかどうかと迷ったのですが、物語として有名なこの箇所がここに置かれているのだと、改めてルカによる福音書の流れから読むことは意味があるとも思えましたので、敢えて予定に組ませていただきました。
イエス様がザアカイと出会ったのは、ご自身が捕えられ、十字架に架けられるエルサレムへ入城する直前のエリコの町です。イエス様は、ルカ9章51節から、エルサレムへ向かう決意を固められ、ご自身の使命である十字架への道を歩き始められました。
主はその道すがら、多くの人に出会われました。ゆくところどころで、病人を癒され、悪霊にとりつかれた人々を解放し、多くの教えをなさいました。たくさんの人たちに出会われましたが、主が心に掛けられたのは、社会の周縁に置かれた人々でした。イエス様の最後の旅路の最後、その死の約1週間前、エルサレムに入る直前で、イエス様が最後に出会った人物が、徴税人ザアカイだったのです。主はザアカイの救いを通して、ご自身の世に来られた自らの使命を明らかにされました。それは「失われたものを捜して救うために来た」という使命でありました。
ザアカイは徴税人の頭です。「徴税人の頭」という名称は、聖書の中でザアカイに対してしか使われておりません。ローマの役人たちは、地域に割り当てられた間接税、通行税、関税、手数料などを徴収するため、地元の元請けと契約を結んでおりました。これらの地元の元請けをするのが、徴税人の頭と呼ばれる人々で、徴税人の頭たちはローマより契約金の前払いを要求されており、税金を多く集めることによって利益を生みだそうと、そのまた下請けを使って、過剰な税金を集めさせていたと言われています。
人々から憎まれる罪人の頭とも言われていた徴税人、そのまた頭のザアカイです。嫌われ者、憎まれ者の頭でもあったことでしょう。
この人を知る手がかりはいくつか記されていますが、このザアカイという名前は、旧約聖書のエズラ記2:9に、バビロン捕囚からエルサレムに戻ってきたイスラエルの人々の名簿がある中に、「ザカイの一族760人」という記述があるのですが、この「ザカイ」と同じであり、「清い者」という意味のヘブライ語の名前です。このことから、ザアカイというのは、生粋のユダヤ人であることが分かります。
さらに敢えて「金持ちであった」と紹介されています。イエス様は18:24以下で、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るようよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」と仰いました。金持ちであるが故に、神の国に入り難い人物であるということが出来ます。
ザアカイは、「清い者」という名前は皮肉に聞こえるほどに、人からも嫌われ、神の国にも入り難い人物であるという、二重の意味で救い難いと思われる人物でありました。
しかしイエス様はルカ5:31で「医者を必要とするのは病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。人から罪人と言われ嫌われ、共同体の周縁に置かれ、神の国からも周縁に置かれてしまったザアカイは、主の御目に二重に憐みの対象でありました。
さらにこの人を表す言葉として「背が低かった」ことも敢えて語られています。自分の体格というのは、その人のコンプレックスになり勝ちなことです。人はコンプレックスを持つと、そのことで萎縮してしまう人と、コンプレックスをバネに、自分をより大きな者に見せようとがむしゃらに頑張る人に分かれると思います。私自身は卑屈になりやすい心を持った前者であることを自覚していますが、ザアカイは、おそらくはコンプレックスをバネにして、敢えて「背伸び」をして、徴税人の頭にまで上りつめた人物だったのだと思われます。自分自身が生きることに対し貪欲で、よい意味で心の強い人だったのでしょう。でも徴税人の頭ですから、「背伸び」をしつつ、「あくどい」事を数々行ってきたに違いありません。ドスの利いた顔と声で、懇願する貧しい人たちからお金を巻き上げたことも度々だったことでしょう。強い人に媚び、弱い人には強く当たり、人の涙や困惑などなんとも思わず自分の私財を増やすことに邁進していたことでしょう。人々は彼を見かけたら蜘蛛の子を散らすように居なくなり、いつも通りの真ん中をひとり歩いていて、背の低い事も気にならないような生活になっていたかもしれません。
ザアカイの家族について、聖書ははっきりと語っておりませんが、「今日救いがこの家を訪れた」と、イエスさまは「救いがこの人に現れた」とは言わず、敢えて「家」と語っておられますことから、家族は居たとも考えられると思います。しかし家族は居ても外には本当に安らげる友人関係、交わりなど無かったことでしょう。
そして、心のどこかで「自分はこのままで良いのだろうか」という思いがあったのではないでしょうか。悲しみ泣く貧しい人からお金を巻き上げた後、泣く人の声が後味の悪いものとして心に響くこともあったのかもしれません。泣く人の声は、神に届いているに違いありませんし、涙と嘆きの原因がザアカイであった、ということを神もご存知であった筈です。
罪人であるザアカイは、神の目に「失われた者」でした。しかしイエス様は「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである」と言われました。そして、失われた者であるザアカイは、この時、それまで一番大切にしてきたお金以外の何かを、捜すようになっていたのではないでしょうか。私は残念ながらお金を持ちすぎるという経験をしてきておりませんので、ザアカイの状況に共感出来る部分を持っていないのですが、イエス・キリストをまだ本当には知らなかった若い日、失われた者として、神と離れていた自分の殺伐とした状態は記憶にあります。より頼む確かなお方が自分に無い不毛さ、心の暗さは記憶にあります。そのような状態は、ザアカイのこの時の心と似ているかもしれません。
ザアカイのもとにも、ナザレのイエスの評判は届いていました。イエス様はエリコに入られ、町を通っておられました。嫌われ者のザアカイがそこに居ても、人々はザアカイに目をくれないほどはイエス様に熱狂していたことでしょう。群衆に遮られて、通りの何処に行ってもなかなかイエス様を見ることが出来なかった背の低いザアカイは、走ってエルサレムへ向かう道を先回りをし、イエス様を見るために、いちじく桑の木に登るのです。愛すべき人に思えてしまいますが、実際の彼は、人々から恐れられる、徴税人の頭という地位のある人です。木に登るなどと、子どものようなことをしたことを人が気づいたならば、悪意のある噂が一段と増すこと請け合いです。しかし、それでもザアカイは、何としてでも「イエス様がどんな人か見ようとした」のです。イエス様は18章で「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」と言われました。強面のザアカイですが、心のどこかに、子どものような無邪気で一筋な心も残っていたのではないでしょうか。
イスラエルに行きました時、エリコで「これがザアカイが登った木」と言われているいちじく桑の木を見ました。もちろんその木は2000年もの木ではありませんので、ある言い伝えなのでしょうけれど、その木は幹は太く、ちょうど人の背の高さくらいのところで、大きく二つに幹が割れている、鬱蒼と葉は茂り、登って立つにはちょうどよい木でした。高いところに登って、人々を見下ろしつつイエス様の来られるのを待つザアカイを想像出来る、そのような木でした。
そこにイエス様がやって来られました。来られたイエスさまは、上を見上げ言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
イエスさまは、初めて会ったこの木に登る背の低い男の名を既に知っておられ、名を呼ばれました。そして、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と突然言われたのです。不思議なことです。
5節で「イエスはその場所に来ると」とありますが、「その場所」と記された言葉には、英語のThe に当たる定冠詞が付いています。定められた場所、神がイエス様とザアカイとの出会いのために備えられた場所という意味となりましょう。
そしてザアカイの物語の最後はイエス様の「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」という言葉で締めくくられています。
3節のザアカイのイエス様を「見ようとした」という言葉と、イエス様の「捜して救うため」の「捜す」という言葉は、ギリシア語の同じゼーテオーという言葉が使われています。ザアカイが「見ようとした」というのは直訳すると、「見ることを捜していた」と書かれてあります。
ザアカイはイエス様を「見ようとした」、彼は自分の現状を超えた何かを、救いを見ること捜していました。それに対しイエス様は「失われた者を捜し救うために」来られたお方。失われた者を捜していたイエス様と、今の自分の持てる富、それ以外の何か、命の本質のようなものを見ることを捜していたザアカイは、そのいちじく桑の木の許、出会いの時を得たのです。
その出会いは、背の低いザアカイに於いては、自分が自分の本来の体のありようよりも高みに置くために、背伸びをするよりももっと高くなるために登った木の上であり、イエス様に於いては、神であられるのに、天より地に降りて来られた低き地でした。木に登ったザアカイ、これは彼が本来の自分のあるべき姿を、相当無理をして、あるべき自分から離れた姿で生きて来たということを表しているのではないでしょうか。等身大のザアカイではなく、なんとか自分を大きく見せようと無理をしてきた人生の表れのようです。
群集にもみくちゃにされながら道を行くイエス様は、まっすぐ普通に歩いていたならば、おそらくは目に留まらない筈のザアカイの居る木の下で止まられ、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」。原文を読むと、「泊まらなければならない」というはっきりとした神としての知恵、ご意志を以って声を掛けられました。「その場所」で「今日」でなければ起こりえない出会いが、ひとりの罪人の救いが、起こった瞬間だったのです。
ザアカイを見上げる主の眼差し、自分を見つめ、自分の名前を呼んで、自分のような者に「降りて来なさい」と言ってくださるお方を、ザアカイはどのような目で見つめたのでしょう。嫌われ者のザアカイです。誰も自分を必要として名を呼び、温かい眼差しを向けてくれる人など居なかったに違いありません。ザアカイは自分に向けられた愛があることに、心躍ったのではないでしょうか。ザアカイはイエス様の眼差しに、それまで自分に向けられたことの無い愛を見たに違いありません。彼が見るために捜していたもの、それは愛であり、主の愛にふれた時、ザアカイはそれまでのザアカイとは変えられたのです。ここで起こったことは、神の愛の奇跡です。
イエスさまは「急いで降りて来なさい」と言われました。神の国は非常に切迫している。救いが訪れたならば、すぐに応答することを求められているのだと言えましょう。その言葉とイエス様の愛の眼差しにザアカイは応え、急いで降りて来ました。
強面のザアカイが、子どものようにイエス様の言葉に従って、木を降りたのです。彼が降りてきたところ、着地したところは、イエス様と同じ地点、イエス様が共におられるところでした。ザアカイは、背伸びをし、本来あるべき自分に無理に無理を重ねて悪態をついて生きてきました。そして富を得た。でも、その富はザアカイの心に喜びを与えることはなかった。そのような人生を歩んだのも、ザアカイなりの事情や悲しさがあったことでしょう。主はすべてをご存知であられ、その愛と憐れみによってザアカイを招かれ、ザアカイは木から降り、本来あるべき姿を取り戻したのです。
イエスさまは「探しなさい、そうすれば見つかる」(ルカ11:9)と言われました。「捜す」人は、その人を「捜す」神と出会えます。それぞれに、その場所と今日があり、生き方の転換をもたらす喜びが待っているのです。
ザアカイはイエス様を家に招き入れました。
それを見ていた人々は、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とイエス様に対する疑いと不満を口にしますが、救われたザアカイはそのような人々の悪口にひるみません。彼は立ち上がって言うのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。ザアカイは、イエス様を主=救い主と呼び、自分の生かされているその場で、誠実に、新しく生き直すこと、自分の持てる財産を自分で抱え込むのではなく、与える人になること、今までの不正を悔い改めることを、主の御前に告白いたしました。ザアカイは主の眼差しを受けて、心の底から悔い改め知ったのです。自分が着地すべきところは、主イエスの御許であることを。
主はこの告白を大いに喜ばれ言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」と。「救いがこの人に訪れた」ではなく、「この家に訪れた」とイエスさまは言われました
同じルカが書いた使徒言行録を読んでおりますと、「家族がすべて洗礼を受ける」「救われる」という記事がいくつか出て参ります。このイエス様の言葉は、その家のひとりが神のふところに帰ることを知った時、ザアカイの家全体の救いの歴史が始まるということを語っているのではないでしょうか。神の国は膨らんでゆくのです。
そして、私たち、こうしてイエス・キリストの愛によって招かれ、キリストに出会い主のふところに帰ることを知り、週ごとの礼拝から送り出される私たちの家、家族にも、救いが訪れている。救いの歴史が始まっている。そのことに思いを馳せ、希望を持って祈り続ける者でありたいと願います。
主は、捜し求める者のところに来てくださいます。
そして、主のもとに戻ること、そこから私たちと、私たちの家族の新しい歩みが始まるのです。