2024年1月7日礼拝説教「新しい旅立ち」

聖書 創世記1章1~5節、マタイによる福音書2章1~12節

人の一生は運命づけられている?

主の年2024年の最初の礼拝を、会堂にお集まりの皆さまとパソコンの前におられる皆さまと共に、ささげることができますことを主なる神さまに感謝いたします。

今年は正月に発生した能登半島地震で多くの方が亡くなり、被災した人たちが避難所で生活されています。二次災害も起きてしまいました。私たちの属している日本基督教団の教会にも被害が出ています。輪島教会は建物が甚大な被害を受け、牧師一家や教会員家族がそれぞれの避難所に避難しています。七尾教会は2007年の地震の時に全国献金の支えを受けて建て直され、今回の地震では会堂と園舎を避難所として使われているとの情報が届いています。被災された方々の悲しみや苦しみを主が癒してくださるように、救援活動をしている人たちの働きが強められますように祈ります。

地震や戦争のニュースを聞き、苦しんでいる人たちの映像を見るにつけ、人間には運命があるのではないかと思う方がいらっしゃるかもしれません。運命とはその人の一生はすでに決められていて変えることはできない、どんなに努力しようと結果は変わらないというものです。そして災害や戦争に逢わなくても、人は自分の人生における決断を後悔することがあります。「もしあの時、別の道を選んでいたら、もっと幸せな人生を歩めたのに」といった後悔を心の中に持ちつつ生きている人がいるかもしれません。あるいは「もっと裕福な家に生まれていれば苦労をしなかった」と思っているかもしれません。これらを運命だと諦めて生きるならば、生きる意味を見い出すことは難しいでしょう。裕福な人や幸せそうな人を妬む気持ちになるかもしれません。

運命論者から信仰者へ

イエス様がお生まれになった頃にユダヤの東の方にいた占星術の学者たちは星の運行に人間や国の運命が現れると思って、天体を観測している人たちでした。天体の運行に通常とは違うものがあればそこに不吉な予兆、あるいは吉兆を見い出していました。

昔、日本でも太陽や月が欠ける日食や月食は不吉な日とされており、また欠けている間に太陽や月に当たると悪いことが起きると信じられていました。当時の暦の最大の関心事は日食や月食の情報だったそうです。

マタイによる福音書に登場する東方の占星術の学者たちは、天体を観測していて西の方に不思議な星を見つけました。彼らの知識によれば、その星はまことの王が生まれたことを示す徴でした。当時の文献によれば、中東アジアにまことの王が現れるという期待が高まっていたことが記されておりまして、この聖書の記述は荒唐無稽というわけではないことがわかります。

マタイによる福音書2章は「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来た。」と書き始めます。ヘロデ王は純粋なユダヤ人ではありませんでしたが、ユダヤを支配していたローマ帝国につけ入り、王としてもらった人物でした。ヘロデは自分の地位を脅かすと思った者は妻や子どもでさえ殺したという記録が残っているほど権力に対する執着が強くて猜疑心の強い男でした。ですから占星術師たちが星に導かれてエルサレムに来て、ヘロデに「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)と尋ねた時、ヘロデは不安を抱きました。この不安というのは原典では「心が揺り動かされるほどの動揺」という意味の言葉が使われています。「ユダヤ人の王として生まれた者がいる」ということを聞いて、自分の地位が脅かされることに非常な危機感を抱いたのです。エルサレムの街中でも王の不安が広がるように不安が広がりました。

ヘロデはさっそく祭司長や律法学者を集めて「メシアはどこに生まれることになっているのか」(4節)と問いただしました。祭司長や律法学者たちは旧約聖書の預言書の中からミカ書5章1節を発見し、それはベツレヘムであることを告げました。ミカ書には次のように書かれています。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」。このような言葉です。この言葉は6節に引用されています。ベツレヘムは小さな町ですが、そこからまことの王が現れるという預言です。実はベツレヘムは、ユダヤの人々が素晴らしい王として尊敬しているダビデ王の出生地(サム上16:1)なのです。ベツレヘムに生まれるということは、ダビデ王の系統からメシア、すなわちキリストが現れるという預言にも合致します。ヘロデ王の時代にベツレヘムは羊飼いたちが住む小さな町でしたが、そこにメシアが生まれるのは当然のことでした。

ヘロデ王は占星術師に、王はベツレヘムにいると告げ、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。」と告げて、送り出しました。そして「わたしも行って拝もう」と付け加えましたが、彼がおこなったことと言えば、16節以下に記されているように、ベツレヘムとその周辺にいる2歳以下の男の子を一人残らず殺させたことでした。どれだけ猜疑心が強く残忍な性格だったかが良く分かります。

さて、占星術師たちはベツレヘムに向かいました。すると「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました」(9節)。彼らは星に導かれて幼子イエス様がいる馬小屋を見つけたのです。この文章は詩(ポエム)的に書かれています。ですから天空にある星がピンポイントで馬小屋の上に止まったと理解するのではなくて、占星術師たちがその場所を探し当てたというふうに理解することが大切だろうと思います。彼らにしてみれば星が導いたことに間違いはありませんでした。

「学者たちはその星を見て喜びにあふれました」(10節)。「喜びにあふれる」というのは原典では「非常な喜びを喜んだ」と書かれていて、占星術師たちの心が喜びで一杯になったことが表されています。それは彼らの研究や知識が間違っていなかったことを知っての喜びだったでしょう。星によってこの世界の運命を知ることができたことの喜びでありました。

しかし彼らが馬小屋に入って見たものは飼い葉桶に寝ている幼子のイエス様とその両親であるマリアとヨセフでした。ルカによる福音書の記述を加えれば、そこにはみすぼらしい身なりをした羊飼いたちもいたことでしょう。

その光景は貧しいものだったに違いありませんが、占星術師たちはその姿につまずくことなく、幼子イエス様を神さまの御子として拝みました。彼らは占星術師であり星の運行に関する専門知識と経験を持っていた人たちで、旧約聖書の啓示の言葉を知らなかった人たちです。しかし、彼らはイエス様に会った瞬間にイエス様を救い主と認め、礼拝しました。その理由は聖書に一切書かれていません。ただ分かるのは、彼らは運命を信じる者から神を信じる者に変えられたということです。きっと、そこに出現していた平安、神の平和を彼らが感じ取ったからに違いありません。

ヘロデ王は幼子を殺そうとし、祭司長や律法学者はまことの王である救い主がベツレヘムに生まれることを言い当てたにもかかわらず拝みに行くことをしませんでした。一方で、占星術師たちは神を知らなかったにもかかわらず、ベツレヘムに出かけていき、飼い葉桶に寝ている幼子を見て、幼子がまことの王、救い主であることを認めました。イエス様がおられたところは<貧しさを象徴するような場所>でした。<寂しい場所>でした。この<貧しさ>こそが救い主の徴です。

生まれたばかりのイエス様はまだ世には知られてはいませんでした。ですからそこでの礼拝はまことに少数の人々によって行われました。それでもそこでは賛美がささげられ、感謝の贈り物が贈られました。占星術師たちは「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました」(11節)

その後、不思議なことが起こるのです。占星術師たちは「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました(12節)。この夢によるお告げはイエス様の居場所をヘロデに教えないようにということでしょう。ヘロデが知れば必ず殺しに来ることは間違いがありません。

しかし一方で占星術師たちに別の道が示されたということでもあります。別の道とは、神に従って生きるという道です。人生は生まれたときから決まっていて運命は変えることができないと信じていた彼らが、人生は神と共に歩んでいくものであり、神は私たちと交流しながら共に歩いて行かれると信じたのです。このことは、未来は開かれており、私たちの応答によって変わるのだということを意味しています。さらに、過去さえも変わります。運命だと思っていたことが、実は神が導いておられたのだということに気づくからです。

創世記1章は「初めに、神は天地を創造された。」と語ります。神は混沌の中から光を産み出し、それを良しとされました。その神が星の運行さえも変えて、まことの王の誕生を占星術師たちに知らせたのです。そのような力あるお方が人生を導いていてくださることを彼らは知りました。そして別の生き方へと変えられたのです。

未来は神と共にある

人生は運命づけられたものではありません。未来は開かれており、神と共に歩み、神に問いかけ、祈ることによって、そして神の呼びかけに応答することによって変わります。

私たちは命は自分のものと思っています。しかし私たちは自分で望んで生まれてきたわけでも、望むように死ぬわけでもありませんから、命は自分のものではないことに気づきます。命は神から与えられ、神のものであることに気づくならば、いつ、どこで、どの様に死ぬかを心配するよりも、今日を神と共に生きる生き方をすることが一番大切であることに思い至ります。

しかも命は死で終わらないのです。神と共に歩むならば命は死の後も神と共にあります。人生は運命づけられていて変えることができないものではありません。神と共に歩むならば神の御旨によって私たちはこの世で自分でも気づかない働きを為していくことができるのです。どの方にとっても無駄な人生などありません。占星術師が変えられたように、私たちにも新しい出発が訪れます。その時に、神を信じて、神と共に歩む道へと進んでいきたいと思います。