「 託されたものへの忠実 」
箴言8:17~21
ルカによる福音書19:11~27
今日与えられました箇所は、「ムナの譬え」と言われるイエス様の譬え話です。この譬えは、ともすれば「牧歌的」とも聞こえる徴税人ザアカイの救いの物語と、イエス様が子ロバに乗る王として、エルサレムに入場される、その間にあってイエス様が語られた譬え話です。しかし、状況はイエス様の十字架の約一週間前であり、非常に切迫した緊張感の只中にあると言えましょう。
聖書によく親しんで来ておられる多くの方々は、恐らく今日の箇所を、マタイによる福音書25章の「タラントンの譬え」として、神からそれぞれ与えられた賜物を存分に用いて生きなさいということに近い意味でこの箇所を記憶しておられる方が多いのではないかと思います。実際、タラントンの譬えのタラントンは、英語のタレント=才能という言葉の基となった言葉です。
譬えの内容はこのふたつは非常によく似ています。私自身、ふたつの譬え話はほぼ同様のことを語っているに違いないと長い間思い込んでいたようにも思います。
しかし、今回改めてこの箇所の説教準備をしておりますうちに、語られていることの違いに驚きました。タラントンの譬えは「天の国の譬え」であるとして、天の国がどのようなものであるかを教えるためにイエス様が語られる譬えで、「ある人」が旅に出るにあたって、家来たちの能力に応じて応分の財産を預けるという話であり、また預けたお金、タラントンという貨幣はとても大きなお金であり、「商売しなさい」とムナの譬えが語っているような命令は何もないという譬えです。
しかし、今日お読みした「ムナの譬え」は、「人々が神の国はすぐにも現れると思っていた」と語られた上で語り始められるイエス様の譬えで、タラントンの譬えと同様に、天の国、神の国がイエス様の念頭にある譬えであることには違いないと思われますが、人々が願う「神の国」と、イエス様の打ちたてようとしておられる「神の国」には、その認識に乖離がある、違いがあるという、人々の無理解に対するイエス様の苦悩が、この譬えを語られる前提とされていると思われるのです。
マタイが語るタラントンの譬えは、ムナの譬えとは全く違います。このことをまずはっきり申し上げて、理解の混乱を避けるために、出来るだけ近いうちに、タラントンの譬えも説教で語らせていただきたいと考えています。
エルサレムにほど近いエリコで、イエスさまはザアカイに出会い、徴税人の頭、嫌われ者のザアカイがイエス様に出会って自らの罪を悔い改めて、財産を貧しい人に施す、だまし取っていたお金を四倍にして返すと語った言葉は、人々を驚かせ、ますます人々の神の国への期待は高まったことでしょう。エルサレムがいよいよ近く、イエス様の周囲は人々の「神の国が今すぐに来る」という熱狂で包まれておりました。人々は、イエス様を世の圧政、世の苦労から人々を解放し、神の国を地上に打ち立てる、この世の王、世の権力者となるお方であると思い描いていました。ユダヤ人の王、救い主の称号としての「人の子」という称号をご自分のものとしてお使いになるこのお方こそ、自分たちを世の苦労から解放してくれるこの世の王であると思っていたのです。
しかしイエスさまは、人々の熱狂の中、ご自身の死と「その先にある事柄」を見つめておられました。今熱狂する人々がこの後にイエス様を裏切ることも、ご自身が苦しまれ死ななければ、神の国が訪れることはないこともすべてご存知であられました。イエス様は、民衆の願い求める王と、ご自身の使命の違いを知っておられました。
イエス様が今、歩まれているのは十字架という自分の死への道です。この世の権力者、支配者になるためにエルサレムへ上っているのではありません。イエス様にとって、世のものはもうすぐ、あと一週間で失われます。しかし人々は、イエス様の中にこの世の権力者を見ている。
イエスさまは神の御子であれます。完全な神であられ、そして、人間として滅び行く弱い肉体を持たれた完全な人でもあられました。完全な人であられたからこそ、イエスさまは私たち人間の体と心の弱さ、肉体の苦痛のすべてを知ることの出来るお方です。イエス様はこの時、苦しまれていたのではないでしょうか。そして、人々の望む神の国と、まことの神の国の違い、人々の望む王とまことの王であられるイエス様の違いを、完全な人として、さまざまな葛藤の中、このムナの譬えをお語りになったと思うのです。
このムナの譬えの背景には、当時のローマ帝国とローマ帝国の中に居留するユダヤ人社会の内部の権力闘争があると言われています。ユダヤの統治者が、「王の位」を求めて「遠く」「ローマへ」旅することが一度ならずあったのです。
その中でも、イエス様のお生まれになった時代のヘロデ大王の死後、ヘロデが何度も遺言を変えていたために、遺族の中で大変な争いが起こりました。長男アルケラオが、まずローマに上りましてローマ皇帝アウグストゥスに「わたしをユダヤの王にしていただきたい」と願い出ます。追って弟がやってきて、「いや、父の遺言によれば、自分が王になることになっている」とアウグストゥスに願い出るのです。それを追うようにして、ユダヤから50人の使者がやってきて、アウグストゥスに「長男のアルケラオを王にしていただきたくない」と陳情いたします。アウグストゥスは次から次ヘと訴えられる願いや陳情を聞き、長男アルケラオに対し「領土を半分にして、肩書きを王ではなく『領主』に格下げし、その上でうまく統治している実績を見せたら王にしてやろう」と言ってアルケラオを帰します。アルケラオは怒りまして、国に帰りますと早速、自分を王にいただきたくないと言ったユダヤ人たちに暴虐の限りを尽くし、殺したのです。
これがイエス様がお生まれになった時代の出来事で、イエス様ご自身、その幼少期に影響を受けた出来事です。マタイによる福音書の2:22に、エジプトに避難したマリアとヨセフ、そして幼子イエス様の家族が、「アルケラオが父ヘロデの跡を継いで支配していると聞き、そこに行くことを恐れた」と敢えて記されていることが、イエス様の幼少期に与えた影響を物語っています。
イエス様は、この出来事を背景に、この世の王の残虐さと貪欲とを譬えを用いて語りつつ、11節で語られるように人々が待望している「神の国はすぐにも現れる」と思っていたことに対し、ご自身を譬えの中で非常にデリケートにアルケラオに重ね合わせつつ、また、やがてすべての人が裁きの座に立たされることを含ませつつ、神の国に忠実な人たち、イエス様にこれから従おうとする人たちは、世の思惑や支配、暴虐に対し、どのような立場に立つべきか、どのようにあるべきかを語っている、このムナの譬えとは、そのような譬えであるのです。
このムナの譬えは、三つの場面から成り立っています。最初の場面は「ある立派な家柄の人」が「遠い国へ旅立つ」ことになり,「十人の僕を呼んで」10ムナのお金を分けて渡し,自分が帰って来るまで「商売」をするように命じる場面です。ムナというお金の単位は、1デナリオンという当時の一日の働きに対する報酬の100倍の金額と言われています。多く見積もって、1日1万円として、100倍ですから、現在の100万円と考えておきましょうか。商売をするためには、多いお金とは言えないでしょう。そう多くは無いお金を10人に均等に渡し、商売をせよ、主人のいない間に、主人の私服を肥やせと命令するのです。この高貴な人がなぜ遠い国に出かけなければならなかったのか、その目的は「王の位を受けて帰るため」と書いてあります。
ふたつ目は,この人が「王位を受けて帰って」来てから「金を渡しておいた僕」たちを呼んで、どのくらいもうけたか問う場面です。召喚されたのは10人のうち3人です。この場面はさらに二つに分かれます。一つは、ともかく商売をして利益を上げた僕たちです。もう一つは利益を上げなかったというより、そもそも商売をしようとしなかった、主人を恐れて預けられた一ムナを「布につつんでしまっておき」、それをそのまま返した「悪い僕」と言われている僕です。この三番目の僕は厳しく処罰されることになります。
最後の場面は27節です。実はこれは、最初の場面と関係します。14節で、「立派な家柄の人」が王位を受けるため旅立ったあとに,国民は彼を憎んでいたため、国民が彼に王位をさずけてほしくない、彼を王にいただきたくないとして「使者」を送ったことが記されています。こうした本国の反対運動にもかかわらず王位をもらって帰国すると、王となった人は彼が王になることに反対した人々、つまりそのために使者を送った国民を「打ち殺せ」と命令するのです。これが譬え話の流れです。アルケラオの逸話に似ています。
この譬えを、これまでにも数度お話ししたことのある言葉の配列でみる交差配列法(キアスムス)という独特の文章構造という面から見ていきますと、14節の「我々はこの人を王にいただきたくない」と、27節の「わたしが王になるのを望まなかったあの敵ども」が交差の外の枠組となり、二番目の交差が16節「ご主人様、あなたの一ムナで十ムナをもうけました」と24節の「その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ」が対応しており、文章構造の中央の交差は21節「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方」と22節「わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものを刈り取る厳しい人間」であり、その中央にあるのは、22節前半の「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう」となります。
すなわち、この譬えが語りたい核心は、「裁き」となります。
余談ですが、マタイのタラントンの譬えは同じ譬えのようで言葉の配列による文章構造は全く違います。同じ譬えに見えながら、語ろうとしていることが全く違うということが、文章構造を見るとはっきり分かります。
それにしても、この譬えの「王となった人」は、自分に歯向かった人たちに復讐をする恐ろしい支配者です。また貪欲であるとも読めます。貪欲で復讐心に溢れた恐ろしい王が語られています。
一般の私たちの生きる社会の構造でこの譬え話を考えてみましょう。
貪欲で暴力的な私たちの世の支配者が、もっと自分の位を上げるために、自分よりも位の高い人のところに行く、留守を私たちがあずかると考えてみてください。嫌な支配者です。人々から憎まれ、「王にいただきたくない」と言われるような主人です。私たちそれぞれ、同じ額、多すぎるわけではない100万円を渡され、商売を命じられる。でも、この100万円は私が自由に用いてよいお金ではありません。あくまで主人のお金であり、主人は自分の儲けを増やすために、私たちの労力を自分のために利用しようとしています。
そして、帰ってきてその成果に応じて、自分の支配地を収めさせる。あくまで自分の支配地ですので、従順で、王の命令に忠実である人が求められます。王がどのような人であっても、いえ、暴力的な王であるからこそ、媚びへつらう。成果に応じて報酬が与えられる、成果主義と言えましょう。
3番目の人は、「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しいお方なので、恐ろしかったのです」と布に包んで、商売することなくしまっていたために預けられていたものを取り上げられ、同じお金を10倍にして一番の成果を上げた人に渡されます。しかし、考えてみれば、もともと預けられたお金は預けられた人のものではありません。3番目の人は、この主人の強欲さと残酷さを見抜いていました。「この人を王にいただきたくない」と思っていた人々と同じ目線で、この「立派な家柄の人」の本質を見抜き、恐れつつ、その人の貪ろうとする利益に距離を置いていたのです。
イエス様はこの譬えを語られながら、ご自分と世の王の違いを語っておられます。イエス様は人から奪うお方ではない。イエス様は「受けるより与える方が幸いである」(使徒20:35)と語られました。権力を傘に人を恫喝するお方では勿論ない。戦闘をするための馬ではなく、「子ロバに乗って」エルサレムへこれから入場しようとされている、柔和な王です。「立派な家柄の人」は、アルケラオであってイエス様ではない。
しかし、非常に複雑で語りにくいことではありますが、二重に重なるように、もうひとつのイエス様の目線は確かにこの譬えの中に「ある」と言えます。それは、「立派な家柄の人」はイエス様ご自身である、というもうひとつの隠された目線です。「この人を王にいただきたくない」とは、イエス様を救い主と認めない人々と読むことも出来ます。
それは、「人々が神の国はすぐにでも現れる」と思っていた人々とは、違うところを見ているイエス様の目線。神の国はまだすぐには来ない。イエス様は「人の子」であられ、ユダヤ人の待ち焦がれていた終末の救い主です。しかし、救い主であられるまことの王は、もうすぐ十字架に架かり死を迎えられる。そして、世を去り、天という遠くへ行かれるのです。
そして、今、ここ、この世にはイエス様は居られません。天に居られる。今、ここに働いておられるのは、神、イエス様の霊であられる聖霊なる神。世にある人々は、神の国を未だ求めつつ、聖霊の力を受けつつ、未だ完成されていない忍耐の世を生きています。
そして、終わりの時に、主なるキリストは、すべてを裁くために再び世に来られます。最後の裁きは厳しい。すべての僕に平等に与えられたムナを如何に用いるかが、確かに問われる。
しかし、問われるのは、世の王、世の支配者への従順によってもたらされる富、それによって世の貧しい人々を圧迫するようなことに貢献するのではなく、世の悪しき支配に対しては、「この人を王にいただきたくない」とはっきり告げる立場に立つこと。世の利益を貪ることに対しては「布に包んでしまっておく」、そのようなことも含める立場に立つこと。世の強い者の傍らで、自分も富を貪るのではなく、不正や貪欲に身を置くのではなく、また成果主義に心を奪われ、世の価値観に生きるのではなく、「失われた者を捜し救うために来られた」王なるキリスト、馬ではなく、子ロバに乗ってエルサレムへ入場される、小さき者たちと共に生きられる救い主のために、今生きること。
イエス様は、これから向かわれるご自身の十字架、そして世からご自身は取り去られ、ご自分の居ない世に残される弟子たちに対し、また後の世=今の世を生きる私たちに対し、必ず来る終末の裁きの時を見据えつつ、世にあって世の力に従うのではなく、すべての人の罪をその身に負い、苦しまれ、すべての人の罪を滅ぼし、生かす道を拓かれた主、「人の子」なる救い主イエス・キリストに徹底的に世にあって従いぬくことを求め、この譬えを語っておられるのです。
主はこれから十字架への苦難の道を歩まれます。そして、死なれ、復活される。そしてやがて再び世に来られます。
終末の裁きを見据え、イエス様を「立派な家柄の人」と捉える目線で読む時、ムナとは、すべての人に託されている、キリストに従う命です。キリストに従いなさい、そして生きなさいというムナを、キリストに従う命の糧を、主は私たちすべてに同じに与えておられます。
私たちはどのように生きたらよいのでしょうか。
それぞれが、生かされた場にあって課せられていることは違います。与えられているムナはひとりひとり形が違います。しかし、目的はひとつです。それは、十字架に架かり、死なれ、復活されたキリストの命、その愛と憐れみをそれぞれが体現し、世を生きることです。私たちは神に従い、生きることに、心を砕き、歩み続けたいと願います。
今日は新成人の祝福を祈ります。
新しく成人になられたおひとりおひとり、そして老いも若きも、私たちひとりひとりも、主の御前にまっすぐに立ち、主のご栄光を表す器として、この不法に満ちた悲しみ多い世を、主イエスと共に生き抜きたいと願います。
キリストが再び来られる時、喜び勇んで主の御前に立つ、そのような歩みを与えられたこの生涯、生き抜いて参りましょう。