聖書 出エジプト記20章1~17節、ヨハネによる福音書2章13~22節
イエス様の実力行使
本日はイエス様の宮清めと十戒の御言葉が与えられました。イエス様の宮清めは平和の主の行動としては異例の行動です。なぜなら、イエス様は捕えられたときも、大祭司やローマ総督に尋問されたときも、そして十字架にかけられた時も、一切弁明しませんでした。そのイエス様が神殿に入ったときには神殿の境内から牛や羊や鳩を強制的に排除したのです。それはイエス様には似つかわしくない行動でした。イエス様の行動にはどういう意味があったのでしょうか。
イエス様の悲しみ
イエス様は神殿の境内に入ると神に献げる犠牲の動物が売られているのを目にしました。するとイエス様は縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒しました(15節)。そして「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(16節)と言われました。神殿の境内で商売してはいけないと言われたのです。このような行動を取ったイエス様は怒りにあふれていたというよりも、悲しみにあふれていたといえます。
それは弟子たちが思い出した「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(17節)という言葉が鍵となります。この言葉は詩編69編10節の言葉です。詩編69編は不当な苦しみに直面させられた信仰者の嘆きと祈りの歌です。悲しみにあふれています。しかしこの詩は悲しみだけでなく、主への希望も書かれています。弟子たちがこの詩編を思い出したのはイエス様の行動に、ある種の悲しみを感じたからだと思います。強い者が不正を罰するというのではなく、弱く力のないイエス様が止むにやまれずお一人で商売人たちに立ち向かっていったのです。
神の赦しは取り引きでは得られない
イエス様は「商売」という言葉を使われました。そこで牛や羊や鳩を売り買いしているのですから当然の言葉ではありますが、イエス様がここで指摘しているのはもっと深い、私たちの礼拝にもかかわる事柄です。イエス様が言われた「商売」とは「神さまと取り引きすること」です。
犠牲の動物をささげれば罪が赦されると考えるのは犠牲の動物をささげて神の赦しを得ようとすることです。つまり犠牲の動物を買う人は神さまと取り引きをしています。中世のヨーロッパでおこなわれていた免罪符と同じ考えです。犠牲の動物をささげれば、あるいは免罪符を買えば罪が赦されて滅ぼされることはないというのはお手軽な方法です。どれだけ高くても奉納する人の生き方が変わるわけではありません。そのような行為は神さまと取り引きをしているといえるでしょう。しかし神さまはそのような取引を決してしませんから、罪の赦しは得られません。滅びへと向かう道を歩き続けるのです。
犠牲の祭儀は神さまとの取り引きではありません。聖書に現れる最初の犠牲の祭儀はノアの箱舟の出来事のところに記されています。大洪水が終わりノアが箱舟から出て最初にしたことは主のために祭壇を築き、そこで清い家畜や鳥を焼き尽くす献げ物として祭壇にささげたことでした。主は宥めの香りをかいで「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。」とご自分に言い、しるしとして雲の中に虹を置かれました。これは創世記8章に記されています。
次に、レビ記を見てみますと、焼き尽くす献げ物は無傷の牛や羊でなければなりません。無傷の牛や羊は奉納者にとって一番愛すべき家畜であり、財産としても一番高価なものです。心が痛むものを献げるのです。他の何でもささげますからこれだけは勘弁してくださいと思うものをささげなければなりませんでした。そして奉納する時には献げ物の動物の頭に手を置きました。主なる神に対する罪を告白して赦しを願ったのです。
人は神と取り引きをするのではなく、神の前にひれ伏し願うことのみが許されています。神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊であり打ち砕かれ悔いる心です(詩51:19)。その霊と心を神は喜ばれます。犠牲の祭儀とは主の前にひざまずき、赦しを願うものですから、その本質は悔い改めと祈りです。そしてまた、御心にかなうことは必ず得られると信じる信仰をもって主に感謝をささげることです。
主に従う信仰
次に十戒について考えてみたいと思います。十戒は神と人との契約です。神は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」(出20:2)と約束されました。それは「主なる神は私たちを導く」ということです。これが神の人間に対する約束です。神は私たちを導き、守ってくださいます。
そして人間の神に対する約束が十戒です。これを原文の言葉で示しますと、「あなたは~しない」あるいは「あなたは~する」という言葉になります。すなわち私たちの言葉にすれば「私は~しない」ということです。3節から17節の戒めを私たちの言葉にして語るとこのようになります。
- わたしはあなたをおいてほかに神はありません。(3節)
- わたしはいかなる像も造りません。(4節)
- わたしはわたしの神、主の名をみだりに唱えません。(7節)
- わたしは安息日を心に留め、これを聖別します。(8節)
- わたしの父母を敬います。(12節)
- わたしは殺しません。(13節)
- わたしは姦淫しません。(14節)
- わたしは盗みません。(15節)
- わたしは隣人に関して偽証しません。(16節)
- わたしは隣人の家を欲しません。。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲しません。(17節)
どうでしょうか。10の戒めが一人ひとりの約束として心に響いたのではないかと思います。十戒は第1の戒めから第4の戒めまでは、神に対する私たちの態度や姿勢を正しくさせるものであり、第5の戒め以下は、神の恵みの支配のもとに互いに隣人として生きる人間の共に生きる態度や姿勢を教えるものです。神とのかかわりと隣人とのかかわりは、相互に深く関係しています。また神とのかかわりがあって初めて隣人関係が成り立ちます。この関係は無償の愛に根差すものです。ですから、イエス様も、神の律法は、「神への愛」と「自分を愛するような隣人愛」に要約されると言われたのです。
人が互いに愛し合って生きる世界
神は人間がひとりで生きていけるようにはお造りになりませんでした。最初に神がお造りになった人、アダムにはもう一人の自分が与えられました。アダムはエバを見て「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」と言いました(創2:23)。人は助け合って生きるように造られています。そのことをわきまえないで何でも自分のものにしてしまおうとする自己中心の考えになれば地上に神の国は訪れません。しかし、人が神を神とし、神の言葉を守って、与えられたもので満足することを覚えれば、この世界に神の国が建て上げられるのです。教会はその神の国の入口、あるいは前庭といえます。霊の目で眺めればすぐそこに神の国があります。
イエス様が神殿を商売の場所にしている人々を力ずくで神殿から排除したのは、人々が神を神としていなかったからです。犠牲の動物をささげれば罪が赦されると考えるのは犠牲の動物で赦しを得ようとしているからです。神に対して悔いる心はありません。ただ儀式的に罪を赦してもらう行いをしているだけです。
私たちの礼拝
さて、私たちが礼拝の中で献げる献金や月毎あるいは記念日に献げる献金はどうでしょうか。イエス様の宮清めのことからわかるのは、もし私たちが神さまから何かの利益を得ようと考えて献金するならば、それは神さまと取り引きしようとしている、ということになります。ですから献金はご利益を期待してのものであってはなりません。ノアが祭壇で行ったように、献金は私たちが神の恵みに感謝して献げるものです。もし願っていることがすぐに叶えられなくても、御心ならばかなうと信じて感謝してささげたいと思います。
バザーはどうでしょうか。教会堂の中や敷地で献品されたものを売り買いするのは商売です。これは禁止されるべきものでしょうか。イエス様は神さまとの取り引きを止めるように言われています。一方、バザーは神との取り引きではありません。ですから許されるということになります。バザーで集まったお金を御用のために用いて頂けるよう献げるならば神は喜んでお受取りになられます。
神を神としよう
神を神とするということは神さまと取り引きすることを止め、神さまの言葉に従うことです。神さまの言葉に従って人生を過ごしていくならば心の豊かさであり神と隣人との交わりの豊かさといった豊かな実りが得られます。