「 捨てられた石が隅の親石に 」
イザヤ書5:1~7
ルカによる福音書20:1~19
「隅の親石」とは何か?私にとって、とても難解な聖書の言葉のひとつでした。信仰を持ち始めた頃、礼拝で「隅の親石」についての説教を聴いたことは覚えているのですが、「ちっとも分からなかった」ということだけが、印象的な記憶になって、この言葉は私の中に残りました。
イスラエル旅行をした時、カイサリアという町に行きました。そこは、パウロがローマに向かって船出をした地中海沿岸の町。ヘロデ大王が栄えさせた町でした。そこには後の十字軍の時代の石造りの古い要塞があり、その入り口は石で固められた、とんがった楕円の形をしているのですが、楕円のとんがりの部分を支える石を指して、ガイドさんが「これが聖書のいう隅の親石という説がある」と教えてくれました。その部分に石が無ければ、門全体、建物全体が崩れてしまう。すべてのバランスを支える石ということで、「隅の親石」なのだそうです。「なるほど」と思いました。
本日の礼拝は「御子は~万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます」というヘブライ人への手紙からの、招きの詞によって始まりましたが、結論を申し上げますと、「隅の親石」とは、万物を支えておられるイエス・キリストを指します。イエス・キリストが無くてはならない「隅の親石」として、力ある言葉として、今もすべてのものを支えておられるのです。イエス様は天から下られた神の御子であられましたが、しかし、イエス・キリストという親石は、一度は捨てられた石でした。人々に嘲られ、エルサレムの門の外で、十字架の上で殺された=捨てられた。しかし、イエス・キリストは復活され、今、すべてのものを天に於いて統治しておられます。この世はすべて創造主なる神の所有物です。
しかし、造られた者である私たち人間は、自分が神によって造られた、神の所有である、というそのことをどれだけ自覚しているでしょうか?「私が中心に世界が回っている」と思っている人も、世の権力者はじめ、少なからず居ることでしょう。いえ、そこまででなくても、私のことは私のこと、私の持ち物は元から私のもの、私は自分の思いで好きなように生きる。自分が自分の人生の主人である。そのようなことは誰もが思っていることなのではないでしょうか。
創造のはじめ、主なる神は言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地の這うものすべてを支配させよう」(創世記1:26)と。神は、神が造られた世のすべてのものの「管理」を人間に任されたのです。「管理」を任されたのであって、世にあるものは人間の所有物ではありません。神の所有物です。しかし、その後、アダムの罪によって、人は神から引き離された。しかし、引き離された世にあっても、神がこの世を人間に委ねておられることには変わりありません。
神は罪に堕ちた人間を救うために、神の掟である律法を与え、さらに預言者たちを立てて、神の言葉を託しました。何とか、ご自分のもとに人間を取り戻すために。しかし、人間は、悔い改めることをせず、神の言葉と戒めを携えた預言者たちを嘲り、傷めつけ、時に殺しました。そして、遂に、神はひとり子イエス・キリストを世にお遣わしになられましたが、イスラエルの人たちは受け入れず、十字架に架けてイエス様を殺してしまったのです。
しかし、イエス・キリストは、捨てられた石のように、人々に捨てられ殺されましたが、今、神の右に座に就いておられ、万物を統治しておられる。捨てられた石は、親石となったのです。
イエス様は、この日、エルサレムの神殿で福音を宣べ伝えておられたとルカは語ります。福音とは「よきおとずれ」。究極的にイエス様の十字架と復活を指すものですが、ルカ2章8節で、イエス様のお誕生を羊飼いに告げた天使の言葉に、「大きな喜びを告げる」という言葉があり、救い主の誕生を告げていますが、この「大きな喜びを告げる」と、ここでイエス様が「福音を告げ知らせた」という言葉は、原文では同じ「福音」という言葉です。救い主の誕生、それはそれまで、顕されたことのない、喜びのおとずれ。それまであらわされることの無かった神の権威があらわされた出来事です。
イエス様はユダヤ人の神殿で、それまでのユダヤ教とは違うことを語り、救い主としての新しい権威を纏って、それまで人々が聞いたことがない、新しい言葉で、人々に神の国の到来を告げていたのでありましょう。
それを見た、祭司長、律法学者たちは、イエス様に対する殺意を持ちます。そして告げるのです。「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と。彼らはイエス様の言葉から、神を冒涜すると思える言葉を引き出そうとしておりました。それを引き出したならば、律法に基づき死刑に出来ると考えたからです。それに対しイエス様は「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」と問い返されます。
イエス様のこの切り返しはいつも独特ですね。問い掛ける人の言葉を受けとめ、否定せず、また直接的に答えず、勿論言葉を荒げもせず、問いかけてきた人が物事の本質に気づくような、問いかけを切り返されるのです。
この時、周りにはイエス様の言葉に聞き入り、バプテスマのヨハネの授けた洗礼を神からのものと信じている民衆がいます。そしてイエス様は、バプテスマのヨハネのことを、旧約聖書に約束された、救い主に先立って来る「主の道を整える人」であったことをはっきり認めています。
しかし、祭司長、律法学者たちは、バプテスマのヨハネが神からの使者であることを認めていませんでした。現在もユダヤ教がイエス様を救い主と認めていないように。そして、彼らは民衆から、イエス様の問い掛けに対するその返答の仕方によっては、石を投げられることになることを恐れておりました。何故なら、旧約聖書申命記13:11に、イスラエルの主なる神ではない、他の神々、異なる宗教の神に誘うような者が出てきたら、その人を石で打ち殺せと定められている処刑法があるからです。今日の箇所の前提には、その律法の掟があります。バプテスマのヨハネは、主なる神の使者であるということを信じる民衆の前で、祭司長や律法学者がヨハネを否定することは、祭司長たちは異教の神を崇めていると見えてしまうからです。
そのことを知っている祭司長、律法学者は、民衆を恐れ、「分からない」と答えます。イエス様はその答えを受けて、「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と、祭司長、律法学者たちの質問に対し、直接的に答えるのを避けて、その後民衆に向かって、9節からの「ぶどう園と農夫のたとえ」を語り始めるのです。
この譬えは、イエス様ご自身が、お読みいたしましたイザヤ書5章1節以下を思い浮べながら語られていると思える譬えです。そこでは、神が「良いぶどうが実る」ようにとぶどう畑を作ったのに、「酸っぱいぶどうが」実ったとあります。ぶどう畑とは、神の民イスラエルのことです。神が期待した通りにイスラエルが実を付けなかったが故に、神はぶどう畑の「囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ」た、そのような預言者イザヤの言葉です。
ぶどう畑は、神の民イスラエル。そうであれば、この譬えの主人「ある人」とは、主なる神のことに違いありません。
「主人」は、ぶどう園を作った後、「農夫」たちに貸し与えて長い旅に出ました。律法によりますと、果樹を植える時は、その実は3年間無割礼のものと見做され、食べてはならず、四年目に聖なるものとなり主への賛美の献げ物となり、5年目にあなたたちは食べることが出来る、と定められておりますので、「長い旅に出た」とは、律法に照らし合わせれば、少なくとも5年は戻って来ないということになるかと思います。その間、主人はぶどう園の農夫たちに何も干渉をしなかったのでありましょう。
そして収穫の時が来て、自分の家から「僕」を送って収穫を倉に納めようといたします。しかし、農夫たちは「この僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」というのです。農夫たちの行為は次第に酷いものになっていきます。農夫たちは次の僕が送られてくると、何も持たせないどころか「侮辱」した上に追い返し、三番目の僕には、傷を負わせた上に放り出したのです。主人の不在の間、自由に好き勝手にぶどう園を思うがままに管理をしているうちに、不在の主人がぶどう畑の持ち主であることを忘れ、あたかも自分のものと思うようになった、自己中心的な農夫たちの姿です。
それにしても、この主人はおおらかな主人と思えませんでしょうか。僕たちが叩きのめされて、何も持たずに戻って来たならば、その時点で自分が大勢を従えて乗り込んで農夫たちを裁くなり、出来る筈ですが、そのようなことを致しません。あくまでも、農夫たちに、その自由な意志に任せている。
そして遂には、自分の愛する息子をぶどう園に送ります。息子ならば敬ってくれるだろうと。しかし、送られてきた息子を見た農夫たちは、息子を見て言うのです。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまったのです。
主人とは、父なる神です。ぶどう畑は、神の民イスラエル。この譬えは、一言で言えば、はじめにお話をした聖書の歴史を語っている譬えと言えます。僕たちとは、神が遣わされた預言者たち。この預言者の中には、今日お読みした箇所の前半の問答の中に現れた、バプテスマのヨハネも含まれています。ヨハネは預言者として厳しい言葉を語りましたが、その言葉の故に、領主ヘロデ・アンティパスによって首を刎ねられ殺されています。
譬えに於いて、三人も僕なる預言者を送った主人、これは神の忍耐と憐れみを表しているのでしょう。
そして、神は最後に自分の愛するひとり子、イエス・キリストを人々の中に遣わします。イエス・キリストの誕生です。ルカ2章に語れている「大きな喜び」であり、福音=よきおとずれであり、それまで顕されたことのない、神ご自身の権威が世にただ一度顕された出来事。
しかし、イスラエルの人たちは、神から与えられた律法に自分たちの勝手な論理を神の言葉に加え、神の言葉を自分たちの都合のよいように捻じ曲げ、神が裁かないのに、人間が人間を裁くということを行い続けていました。イスラエルは神のぶどう畑であったのに、いつのまにか、神の御心にそわない、酸っぱい実がなる、ぶどう畑になってしまっていたのです。
神の御子が、神の権威が、今目の前にあるのに、祭司長、律法学者たちは、自分たちの権威が脅かされることに怒り、イエス様を憎み、殺すための策略を考えている。そしてもうすぐ主の十字架の時がやってきます。
農夫たちがぶどう園の外に主人の息子を放り出して殺してしまったように、イエス様はエルサレムの城壁の外のゴルゴタの丘で、十字架に架けられて殺されることになるのです。
イエス様の譬えは続きます。
自分の愛する息子を殺されたぶどう園の主人は、遂にぶどう園に戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いないと。
この譬えを聞いた民衆は「そんなことがあってはなりません」とイエス様に申します。農夫たちが僕や息子を「殺してはならない」と言っているのか、主人がぶどう園の農夫を「殺してはならない」と言っているのか、この文章でははっきり分かりません。
しかし、17節で「イエスは彼らを見つめて言われた」、「見つめて」と敢えて記されているのは、恐らく民衆の間違った思いを憐れまれた主のまなざしがあったに違いありません。
祭司長、律法学者は、神の選びの中に生かされているにも拘らず、自分たち人間を中心にしか物事を捉えられず、イエス様の権威を認めていない。そして同様に、この時はイエス様の言葉に熱狂して聴き入っていた民衆も、その心は祭司長たちと実は同じ。ぶどう園は、そしてこの世は、神のものであることを実はすっかり忘れ果てており、自分たちの思うままに、自分たちの心の満足するところだけを求めている人たちであることを、そして、すぐにも裏切り、イエス様を十字架へと扇動する人となることを、主は見抜いておられたのでありましょう。人間の人間中心の思い、傲慢によって、イエス様は、十字架の死を迎えることになるのです。
しかし、神は人間の傲慢さを砕く石として、主の十字架をお用いになるのでしょう。主は言われます。
「『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と。
捨てられた石が、すべての物を支える石となられたのです。このことは人間の生まれたままの価値観では測り知れない神の御業、罪の世の価値観の逆転です。
私たちは生まれながら、それぞれが、自分の正しさだけを、自己中心的な考えだけを求めているのではないでしょうか。そして神を忘れ、自分中心の思い、価値観が、世界中至るところに溢れ返り、収拾がつかないような状態になっている。すべては神が造られ、神のものであり、世を生きる私たちは、すべてのものを神から預けられている、私たちひとりひとりも、神のぶどう畑の農夫として生かされていることを忘れはててはいないでしょうか?そして残忍で自己中心的な農夫のようになっていないでしょうか。
しかしそのような私たち人間のために、イエス・キリストは十字架に架かられ、死なれました。すべての罪を引き受けて、悔い改める者に罪の赦しを、どこまでも与えるために、主は来られ、命を捨てられました。そして、復活されたのです。ここに、すべての世の事柄の逆転が起こりました。主は十字架で死なれたけれど、復活され、すべてのものを統べ治めておられます。捨てられた石は隅の親石となった。ありえないこと、世の価値では測り知れない逆転が起こったのです。
すべての権威は、イエス・キリストの上に、今置かれています。それは、自らの罪を悔い改め、すべてのものは神から私に預けられているのだということを受け止め、生きる者と絶えず共にある石です。
ひとりひとりは弱いのです。しかし、隅の親石があるから、支えられ、生きている。その石に連なるならば、弱い者が強くされる、自分に強い者は退けられる。どこまでも自分の利益のみを追い求める人には、その石の上に落ちたならば打ち砕かれ、押しつぶされてしまう。
主の十字架はそのような価値の逆転です。
今、私たちに与えられている目に見えるすべてのものは、主のものです。主から、私たちはすべてのものを預けられている。このことを今日しっかりと受け止め、隅の親石なるイエス・キリストと共に、主イエス・キリストに支えられて、与えられた命を、また隣人を愛して生きていきたいと願います。
私たちが、自分自分と自分の利益だけを求めるのではなく、それらは一旦手放して、隅の親石なるイエス・キリストの赦しのもと、生まれたままの人間の価値観とは真逆にある神の支配の中に、イエス様の御言葉に、すっぽりと自分自身を大胆に投入した時、はじめてすべての私たちの道は拓かれるのです。
このことを信仰を持って受け止め、主と共に、主に預った命を生きるものとならせていただきたいと願うものです。