4月14日礼拝説教「復活の証人たち」

聖書 ルカによる福音書24章36~49節

体は年と共に衰える

私は先週、健康診断を受けました。健康保険組合が年に1回、健康診断を受けるように連絡してくるので定期的に受診できるので便利で安心です。しかし検査のために前の晩から食事も水分をとることもできないことやバリウムを飲まなければならないことが負担に思えます。まだ結果はわかりませんが、検査を受けていて右目が見づらくなっていることに気づきました。若い頃、私は足が遅いことと球技が苦手なのが嫌いでした。体がよみがえるときに苦手なことは解消されて完全無欠の体になりたいと願うのですが、体のよみがえりとはそういうものではなさそうです。本日与えられた御言葉を通して体のよみがえりについて考えたいと思います。

イエス様は体を伴って復活した

本日のルカによる福音書のイエス様復活の記事は、弟子たちが集まってイエス様が復活したことを噂し合っているところから始まります。

36節 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

「こういうこと」とは本日の箇所のすぐ前に書かれている出来事を指しています。エマオという村に向かっていた二人の弟子が戻ってきてイエス様に出会ったことを話し、そのことで皆が驚いたり、喜んだりしていたときのことです。そこに復活のイエス様キリストが現れました。そして「あなたがたに平和があるように」と言われました。これはユダヤの挨拶の言葉ですけれども、「平和があるように」という言葉を聞いた弟子たちは安心したことだと思います。この言葉には「平安があるように」という意味もあるからです。そしてまた、イエス様が何事も起きなかったかのように挨拶の言葉をかけられたので弟子たちは大いに喜んだことだと思います。意気消沈していた弟子たちにとってイエス様の挨拶の言葉は救いの言葉でした。

37節 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

ここに「亡霊」という言葉があります。これは「肉体を離れた人間の魂」という意味です。つまり弟子たちは目の前に現れた復活のイエス様は肉体を持たない霊だと思ったのです。当時のユダヤでもギリシア文化に影響されて霊魂の不滅が信じられていました。ですから弟子たちであってもイエス様がよみがえられて目の前に現れても、イエス様は霊としてそこにおられると思ったのです。私たち日本人は霊魂不滅の方が肉体を伴ったよみがえりよりも信じやすいかもしれません。そういう意味ではこの時の弟子たちと同じです。

38~40節 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

弟子たちの反応を見てイエス様はご自分の体を見せて触らせることで、肉体があることを示しました。私たちは葬儀をします。「体のよみがえりを信ず」と言いながら葬儀をします。愛する人の肉体を火葬にしてしまいます。そこで体のよみがえりを信じるとはいったいどういうことなのかということになります。これに関して、ヨハネの手紙一の3章2節に「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」という言葉があります。ここに言われている「御子が現れる時」というのはイエス様が再び来られる再臨の時ですけれども、その時には私たちは復活のイエス様に似た者になるというのです。イエス様が再臨される時、私たちは自分たちが復活のイエス様に似る者となることを知っています。キリストは肉体を伴ってよみがえられました。そのように私たちもよみがえるのです。私たちはこのことを信じて礼拝のたびに使徒信条を唱えています。

41~43節 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

弟子たちは喜びもありましたが信じられない気持ちが残っていました。そこでイエス様は食べ物を求めました。食べるという行為によって確かに体があることを示されようとしたのです。そこで弟子たちは焼いた魚を一切れ差し出しました。イエス様はそれを弟子たちの目の前で食べたのです。イエス様は弟子たちと宣教されていた時に、たびたび汚れているとされていた人たちと食事をしていましたから、イエス様が魚を食べているのを見て弟子たちは間の前にいる人が確かにイエス様であることを知ったのです。この食事の場面は最後の晩餐の場面を思い起こさせます。イエス様は捕らえられる夜に弟子たちと食事をしました。私たちも礼拝の中で聖餐をします。パンを食べ、ぶどう液を飲みます。この聖餐では私たちはイエス様の食卓に招かれて、イエス様と一緒に食事をしているのです。

44~47節 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々にその名によって宣べ伝えられる』と。

モーセの律法と預言者の書と詩編とは旧約聖書のことです。旧約聖書にイエス様のことがすでに予言されているというのです。当時のユダヤ人は旧約聖書の中に救い主メシアが現れるということを読み取っていました。しかしそのメシアは誰なのかを知ることはできませんでした。特にイザヤ書52章、53章に示されている「苦難のしもべ」は謎の預言でした。

イザヤ52:10 主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。

イザヤ 52:13 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。

イザヤ53:10c 主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。

イザヤ53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった。

復活の預言はヨナ書とダニエル書に書かれています。

罪の赦しを得させる悔い改めはそれこそ旧約聖書の至る所に書かれています。旧約の表現は「主である私に立ち帰れ」というものですが、悔い改めというのは神の方に向き直り神を見ることですから同じ意味です。

キリストを証しする使命

この後、イエス様は弟子たちを宣教に派遣します。それはイエス様のことを伝えることです。

47~49節 エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

エルサレムはイエス様を十字架につけた場所です。イエス様を十字架につけたこの都になおも悔い改めと罪の赦しを宣言しなさいと言われるのです。弟子たちはすべての民族にイエス様の福音を届けるにあたって、エルサレムから始めるように命じられました。イエス様がこの言葉を命じられることこそ、イエス様が十字架の上で「彼らをおゆるしください」と祈った願いが聞き入れられていることなのです。

私たちもイエス様の復活の証人に連なる者たちです。私たちはこの地域でイエス様が体を伴ってよみがえられたことと、そのことが私たちのよみがえりを指し示していることを証言するように招かれました。そして守りも与えてくださいます。それは「父が約束されたもの」という聖霊です。聖霊が私たちに与えられました。

私たちは完全な者でも積を犯さない者でもありません。失敗ばかりする者だと言っても良いような存在です。キリストを信じていなくても立派な人たちがたくさんいるように思えます。私たちはキリストの福音を伝えるのは相応しくないものだという思いがあるかもしれません。しかし、復活のイエス様はこのような私たちであっても、イエス様を信じて救いの喜びを知っている私たちに福音を語るように命じられています。

よみがえりの体

私は最初の方で「よみがえったときには完全無欠の体になりたい」ということを語りました。しかしこのような願望は結局、自己満足の願いに過ぎません。パウロはコリントの信徒への手紙で「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」と語っています。私たちはよみがえる時には霊の体によみがえります。神が人を創造した時の姿に戻ります。罪を知らず、罪を犯すこともなく、神と共にいることを望む者となるのです。

イエス様を信じるならば体のよみがえりを信じることができます。そして私たちは神と共に生きる喜びを持ちつつ、一緒に神の国を目ざして歩いていくのです。人生の旅は暗闇ではありません。キリストの光に照らされて歩いていく旅です。この喜びを伝える者にならせていただきたいと思います。