聖書 ヨハネによる福音書17章6~19節
母の日は教会で始まった
今日は母の日です。テレビでは母の日にちなんだニュースが放送されています。母の日の起こりは諸説ありますが、5月第2日曜日になったのは、今から117年前の1907年5月の第2日曜日にアメリカのアンナさんという人が、亡くなったお母さんのアン・ジャービスさんの記念会を教会でおこなったときに、お母さんの好きだったカーネーションを捧げ感謝の気持ちを表し、そのことに心を動かされた人たちが毎年5月第2日曜日にお母さんに感謝を表すようになったからだと言われています。
日本には1915年に教会で始まり、その後「日本キリスト教婦人矯風会」などキリスト教関係団体が中心になってこれを広めていきました。今では一大商業イベントと化してしまった感がありますが、その起こりはキリスト教にあります。この母の日は旧約聖書に書かれている十戒の第五戒「あなたの父母(ちちはは)を敬え」にルーツがあることはよく知られています。母や父と子との関係は主なる神とその民との関係と重なります。主なる神との関係とは契約を表します。母と父はこの神との契約の担い手であり、この契約を子供たちに伝える者なのです。
母の日の意味
申命記の6章20節、21節に次のような言葉があります。
「将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定(さだ)めと掟(おきて)と法(ほう)は何のためですか」と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。」
こういう風に子供が質問し、親が答えるという形で主との契約が引き継がれてきました。そのようにして子供が母と父を敬う時に、その子供は、実は主との契約を重んじ、主が忠実であってくださったことを喜ぶようになります。
アンナさんのお母さんアンさんは当時、牧師夫人であり子育て中の母でありいろいろな社会奉仕をしていました。教会では教会学校の教師を長年続けていました。アメリカで起きた南北戦争では敵味方を問わず負傷兵をケアする活動を行ったそうです。このような活動を通して、アンさんはアンナさんに神様との契約を教えたに違いありません。だからアンナさんは記念礼拝で特別な方法で母への感謝を表したのだと思います。
箴言23章22節には「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない」と書かれています。十戒の第五戒は年老いてしまった両親を保護するものです。
イエス様は父母を敬わない人たちに次のように言って、その人たちを断罪しました。
モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マルコ7:10-13)。
キリストにつながる人々は「神の国の共同体」の中で家族です。だから、もし天涯孤独という人がいたら、この「共同体」は家族なのです。家族の一員として、小さい子に接し、年配者に接するということができます。
イエス様の言葉は神の言葉
イエス様はこの他にも様々なことを教えられましたが、それらの言葉は主なる神の言葉です。キリスト者にとってイエス様が語る言葉は神の言葉であることは当たり前のことです。しかしイエス様が復活なさった時代の人々の中にはイエス様は人間であって神ではないと教える人たちがいました。これは現代でも同じです。異端と呼ばれるものの中にはイエス様はバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時に神の子になったと教えるものや、イエス様は救い主ではない自分たちの教祖が救い主だと教えるものがあります。
それらに対して本日の御言葉はイエス様が父なる神に祈る祈りによって、ご自分が、世が作られる前からおられるお方であることを明かししています。この箇所はイエス様が弟子たちからいなくなることを予告するお別れの祈りです。
17:6 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。
イエス様は弟子たちに父なる神のお名前を現しました。これは名前を教えたということではなくて、弟子たちに御自分を現したということです。ご自分を現すことが神のお名前を現すことなのです。弟子たちは元々神さまが選び出してご自分のものとされていたのですが、それをイエス様に与えられました。そして弟子たちは神様の言葉を守りました。これは今日(こんにち)私たちが神の言葉を聞いて、それに従う生活を送っているのと同じです。
17:7-8 わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
イエス様は父なる神さまの言葉を弟子たちに伝え、弟子たちはそれを聞いて受け入れました。そうして弟子たちはイエス様が神さまの御許から来られたことを信じたのです。私たちキリスト者も聖書の御言葉を聞いて、イエス様が神さまの御許から来られたことを信じています。信じる根拠は聖書にあります。聖書に記されている言葉が私たちに聞こえて来た時に、それは単なる言葉ではなく、神の言葉になるのです。イエス様が直接語ってくださらなくても、私たちが聖書の言葉に耳を傾け、受け入れるならば、聖書の言葉は神の言葉として聞こえてきます。
イエス様は9節から弟子たちのために執り成しの祈りをささげています。その中でもご自分を明らかにしています。10節に「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」とイエス様が祈られたことが書かれています。この祈りはイエス様と神さまはひとつであることを示しています。イエス様が神の子であるのはバプテスマのヨハネから洗礼を受けたからではなく、世の初めからそうだったのです。
イエス様は私たちのために執り成しの祈りをささげられました。11節に「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。」と祈っています。「御名によって」というのはギリシア語原典ではもっとていねいに「あなたのお名前のうちに」と書かれています。「神の名」が唱えられる時、神はお働きになられます。イエス様が神のお名前によって弟子たちを守ってくださるように祈られましたから、弟子たちは神様によって守られるのです。
こういうと、「弟子たちは祈られたにもかかわらず迫害に遭ったではないか」という反論があるかもしれません。14節を読めばイエス様は弟子たちが迫害を受けることを予告していたことがわかります。
17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
「守る」という意味を「安全にする」と理解するならば、確かに弟子たちは守られませんでした。弟子たちはイエス様が神のみ子であり死者の中から復活したことを宣べ伝えたことで迫害を受けました。しかし彼らは仲間が迫害を受けようと、自分が迫害されようと、このことを伝えることを止めませんでした。自分の命をかけてイエス様を証ししたのです。つまり「守る」という意味を「どんなときにも平安でいられるようにする」と理解するならば、確かに弟子たちは守られました。弟子たちはどんな時にもイエス様が一緒にいてくださることを信じ、神さまの言葉に従って生きたのです。今日のキリスト者も同じように守られています。今日の日本ではイエス様を信じることで不利益を受けることはありません。人は何を信じるかで差別されることはなくなりました。
17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
私たちはインドのどこかにあるというガンダーラや天上の神の国にあこがれを持つことがあります。疲れ果てている時にはこんな生活から抜け出したいと思ってしまいます。しかしイエス様は私たちがこの世界にいて悪い者から守ってくださるように父なる神に願いました。私たちはこの祈りをよくよくかみ締めなければならないと思います。私たちがこの世に生を受けたということは意味があることだからです。この世での使命を果たして神さまの御許に帰るのが私たちに与えられている人生です。その使命とは華々しいものでもなんでもなくて自分の身近で神の御言葉を実践することにほかなりません。誰からも褒められなくても神さまは見ておられます。私たちはイエス様に祈られています。そして守られていて、イエス様を思い出すならばいつでも平安でいられます。
救い主イエス様の言葉を守る
私たちが本日与えられたイエス様の祈りの言葉を深く味わうならば、イエス様は神の許から来られたお方であることを知ることができます。イエス様は世の初めから神と共におられました。しかし罪に支配された人間をお救いになるために父なる神に遣わされてこの世界に来られました。このお方だから私たちを救うことがお出来になります。このお方以外のどのような人も存在も私たちを救うことはできません。