聖書 ヨハネによる福音書16章7~15節
聖霊降臨の出来事
ペンテコステおめでとうございます。今日はこの礼拝の前に子どもの教会の礼拝をおこないました。子どもたちの礼拝では使徒言行録2章1節から4節を聞きました。聖霊降臨の場面が記されているところです。皆さまにも聞いていただきたいと思います。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
聖書に親しんでいる人は何度も読んだことがあると思います。初めて聞いたという人もいるでしょう。この「激しい風」や「炎のような舌」といった光景はまるでファンタジーのように思えるかもしれません。この時からイエス様の福音の言葉が世界中に広まりました。今や日本に住む人も福音を聞くことができるようになりました。
さて、ここに書かれている聖霊とはどのようなお方でしょうか。そのことが先ほど読まれましたヨハネによる福音書16章7節から15節にイエス様の言葉で語られています。このイエス様の言葉はイエス様が天に上げられてこの世界ではイエス様を見ることができなくなってもイエス様を信じる人々を守るという約束の言葉です。
聖霊は弁護者、癒し主、真理の霊
16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
16章はイエス様が天に上げられることを予告する言葉が記されています。イエス様はご自分が弟子たちのところから去ることが弟子たちの利益になることを語ります。イエス様が天に上げられたあとに弁護者が遣わされるというのです。この弁護者は原典であるギリシア語聖書ではパラクレートスという言葉で、その意味は弁護者だけでなく、慰め主、とか助け主というものです。
弟子たちはイエス様と共にいたいと願っていたことでしょう。しかし去っていかないひとりのイエスという人がいたとしても、私たちには慰めはありません。なぜならそのような「理想の世界」の中で、私たちが理想化した、私たちが望むイエス様という一人の人と一緒に、神さまの憐れみもなく、神さまの希望も未来もなしに、そこに居続けるだけだからです。そうすると私たちは慰めを必要としなくなるでしょう。
16:8-11 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
聖霊の働きが3つ示されています。罪、義、裁きの3つです。
キリスト者は罪とは神から離れることだと知っています。神から離れて自分勝手に自分の欲することをするようになれば多くの悪に染まるようになります。イエス様はこのことを別の言葉で表しました。すなわち罪とはイエス様を信じないことだと言うのです。イエス様を信じないことは神から離れることであり、そのことによってすべての悪が私たちに働きかけ私たちはその誘惑に絡めとられてしまいます。イエス様を信じないことは、私たち一人ひとりが他の人を信頼しないことに通じます。そこには嫉みが生じ、疑いが生じます。なぜなら他者を信じる根拠はイエス様にあるからです。
義とは神の正義のことですね。イエス様はご自分が天に上げられ、イエス様を信じる人たちがイエス様を見ることがなくなることを義と言われました。私たちにとってはイエス様が私たちのそばにいてくださって私たちを導いてくださることを願うのですが、イエス様は私たちがイエス様の教えに従い自らの判断で神の道を進んでいくことを義としてお示しになりました。
「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである」とイエス様は言われます。確かにウクライナにロシアが侵攻していることや、パレスチナにイスラエルが侵攻していることや、ミャンマーで人権弾圧が起きていることなどは支配者が悪を行っているからだと思います。しかし、この世の支配者とは、私たち自身のことではないかと反省することが求められているように思います。つまりこの世の支配者とは自分のしたいことを実現することに関心がある私たちのことではないかと思うのです。神を信じていると言いながら、神の御旨から離れて自分勝手なことをしているとすればそのような私たちが裁かれるのです。だから私たちは神の憐れみを必要としているのです。慰め主である聖霊を必要としています。
16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
イエス様はもっとたくさんのことを語りたいと思っていました。しかしそれは私たちには耐えられないことで、理解できないことだと言われます。私たちはすべてを知ることはできません。そしてそれは神の憐れみによるのです。火星に人間が住める居住地を造るという構想を打ち出している人たちがいます。一昔前の科学万能を信じていた時代であれば人類の英知と称賛されたかもしれません。しかし今や人類は化石燃料を使い尽くしつつあり、それを使って排出される二酸化炭素や分解されない廃棄物のために地球環境が人間の住めないものになりつつあります。火星に居住地を造るにはどれだけ多くのエネルギーが必要になるか考えただけでも恐ろしくなります。私たちは神さまがお示しになっている限界を越えることは許されないことを知らなければなりません。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
真理の霊、すなわち聖霊が来ると私たちは真理を悟るようになります。その真理とは何かといえば、それは子どもの方が良く知っているし受け入れることができるものです。すなわちあなたの神である主を愛し、また、隣人を自分のように愛するということです。神を愛することには神を畏敬の念をもって敬うということが含まれています。自分を愛せなければ隣人を愛することはできません。神さまが愛してくださっていることを知らなければ自分を愛することはできません。すなわち私たちはイエス様を通して神さまの愛に触れ、私たちは一人ひとり愛されていることを知って、隣人を愛することができるようになります。そのような愛を教えてくださるのも聖霊なのです。
16:14-15 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
聖霊はイエス様に栄光を与えます。イエス様のものを受けて、キリストを信じる者に告げるからです。父なる神と子なるキリストはすべてのものを持っておられます。そして聖霊はイエスさまのものを受け、それを私たちに告げるのです。聖霊は慰め主であり、イエス様と父なる神さまのことを私たちに教えてくださいます。そして私たちを神の無償の愛の交わりに入れてくださいます。私たちが神さまやイエス様のことを忘れないようにしてくださるのです。私たちには慰めが必要です。いつも力いっぱい生きている私たちですが、誰かに支えてもらい、慰めてもらわなければ、とてもそれぞれの人の人生で遭遇する苦難を耐えていくことはできません。
悔い改めて慰めを受けた人
死刑囚でクリスチャンとなった石井藤吉という人がいました。この人のことを紹介した人の文章をお借りしてお話ししたいと思います。彼は貧困な家庭に生まれ、19歳の時に窃盗事件で刑務所に入って以降、脱獄、強姦、殺人を繰り返し、死刑となりました。その彼は教誨師から聖書をもらい、暇つぶしにルカ福音書から読み始めたそうです。読み進めていくうちに、十字架上で自分を十字架につける者たちの為にイエス・キリストが祈られた「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているかわからないのです。」(ルカ23:34)という言葉に心が釘ずけられました。この時、石井は、五寸釘が胸に差し込まれるほどのショックを受け、キリストの十字架の愛が大罪を犯した自分にも注がれていることを実感したのです。そしてイエスのこの一言で、聖書の全てを信じることができたと書いています。
しかし、ここで彼は考え込んだそうです。強盗、強姦、そして度重なる殺人などの悪事を犯してきた者が、最後に神頼りになんて、虫が良すぎる、果たして自分のような罪人は本当に救われるだろうかと自問自答する日々でした。その時、ルカの福音書15章7節の「あなたがたに言いますが、それと同じように、一人の罪人が悔い改めるならば、悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」という言葉に触れて、罪人である自分に注がれる神の赦しの愛を確信するに至りました。彼はイエス・キリストが十字架で血を流してまで、自分を贖い、罪を赦し、永遠の命を与えて下さったこと、地上の肉体は滅びても魂は天の都に凱旋することを心から感謝したのです。
それからの彼は、看守が驚くほどに変わり、牢獄で処刑されるまで、懺悔録を熱心に書き続けました。彼の心は、自分のような極悪人に与えられた罪の赦しと、キリストの驚くべき恵みを、一人でも多くの人に知らせたいという思いで一杯でした。彼の処刑の日、彼の愛唱歌「いさおなき我を」(賛美歌271番)が、おごそかに歌われました。それは、彼の心境そのものでした。
「いさおなき我を、血を持て贖い、イエス招きたもう、みもとにわれゆく。
罪とがの汚れ、洗うによしなし、イエス、きよめたもう、み許にわれゆく。」
死刑執行の時の彼の辞世の歌は、「名は汚し、この身は獄に果てるとも、心は清め今日は都へ」というものでした。
聖書の言葉が五寸釘が胸に差し込まれるほどの衝撃で迫ってくるというのは決して人間の理解によるものではありません。聖書を読んでいる時に聖霊が働かれたのです。考えてみれば私たちもまた死を待つ者です。死刑宣告こそ受けていませんがいつかは死んで神さまの御許にいくのです。そのような時にも慰めがあります。聖霊が私たちを慰めてくださいます。