出エジプト記14章15~22節
ヨハネの手紙一5章6~12節
「神の証し」
ヨハネによる福音書、そしてヨハネの手紙は、他のどの文書にも増して「神の愛」を語ります。
私は教会付属の幼稚園に通っていたのですが、卒園の時、記念品と一緒に小さな聖句カードをいただきまして、そのカードには「神は愛である」という、今日お読みした箇所の少し前、4章16節の御言葉が口語訳で記されて、赤い花の絵が描かれていました。お友達のカードも見せて貰ったのですが、どうやらカードは二種類あり、もうひとつは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」が記されてありました。どちらも素晴らしい御言葉ですが、私はそれを読み比べ、自分が「神は愛である」という御言葉をいただいたことが嬉しくてたまらず、「私は『神は愛である』を貰ったんだー」と、何度もいろんな人に言って回っていたような記憶があります。小さな子どもだった私がその御言葉にどうしてそこまで拘って喜んでいたのか、自分のことながらよく分からないのですが、「神は愛である」こそが、聖書の語る一番の核心なのだということを、子ども心に感じていたような記憶がおぼろにあります。「一番大事なものを貰った」、これが私への言葉なんだと、何度もそのカードを見てわくわくしていました。
愛=神の愛、アガペー=無償の愛という言葉ですが、子どもだった私がその言葉に嬉々として喜んでいたように、私たちには心地よく感じる言葉であると言えましょう。優しく包まれているような、安らぎを与えられる、求めてやまない、そのような言葉に思えます。
しかしながら、聖書に於ける「愛」というのは、人間の自然な情愛というのとは違います。本日お読みいたしました5章の少し前、4章19節から21節をお読みいたします。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見える神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」
人間のうちから沸き起こる自然の情愛は、自分の好みや本能によって愛します。嫌いなものは嫌いと感じてしまいます。しかしながら、聖書の告げる愛は、神からの愛を受けているものとして、定められた「掟」に基づく愛。神がまずわたしたちを愛してくださっている。その愛への応答として、兄弟を憎むのではなく愛しなさいと戒められているのです。情愛や本能に於いては憎んでしまう相手をも愛しなさいと。
これは非常に難しいことです。言葉で言うのは簡単ですが、実際憎んでしまう相手が居たとしましたら、その相手の方が自分に悪意を持って苦しめているという場合もありますし、そのような相手を愛するということはどれだけ大変なことでしょうか。御言葉のために苦しむこともありましょう。神の求める愛を行うことが出来るとしたら、そのためには、まず信仰が、信仰を持ち、救い主キリストに自らのすべてを投げ入れることが必要でありましょう。
そして、本日お読みいたしました5章6節からは、私たちが信じ、身を投げ入れるお方はどのようなお方か、私たちを愛して下さる愛、それがどのような愛であるか、神はどのような「証し」をその愛のうちに示してくださっているか、そのことを語っております。
この「証し」という言葉は、本来は裁判の法廷で使われる用語でありまして、広辞苑で調べてみますと「疑いを晴らす証拠」「愛の証し」「身の証しを立てる」「証拠を示す人」などと記されておりました。
そして私たちの信仰する神、御子イエス・キリストの「証し」とは、水と血と霊である、とここでヨハネは語っています。水と血と霊、私たちにはなかなか分かりづらい、また温かな温もりを感じる「愛」とはほど遠いような、信仰の「とげ」になるような言葉とその内容が、神を、キリストを証しするというのです。
6節前半をもういちどお読みいたします。
「この方は水と血を通って来られたお方、イエス・キリストです。水だけでなく、水と血によって来られたのです」。
「水」と申しますと、本日の旧約朗読でお読みいたしましたが、出エジプトの出来事が思い浮かべられます。エジプトで奴隷であったイスラエルは、その嘆きが主なる神に届き、神はモーセに命じてイスラエルの民をエジプトから脱出させます。その時、葦の海まで来たイスラエルをエジプトの軍勢が追いつめてきたその時、主なる神の命令によってモーセが手を海に向かって差し伸べると海の水がふたつに割れて、壁のようになり、イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで脱出した、この旧約聖書中最大の奇跡は、水を通ってイスラエルが救われたという奇跡です。水を通り、奴隷という人格のないものから、主なる神の民、選ばれた者、愛された者、人格のある者として、新しく歩み出した、このことを憶え、旧約の民は絶えず出エジプトの出来事を口ずさみ信仰の証しを立てて参りました。また、創世記のノアの方舟の物語に於いて、ノアとその家族、すべての種類の動物のひとつがいずつが、悪の世の滅びから、水を通って救われた、ということも記されております。
旧約の民は、このように水の中を通って救われました。水を通って古い自分に死に、新しくされたものとなったのです。それは、現在、私たちキリスト者が、イエス・キリストの御名によって洗礼を受けることによって救われる、ということのひな形であり、また、新しくされる、復活のしるしとなっているのでありましょう。
そしてイエス様ご自身、バプテスマのヨハネによって水の洗礼を受けておられます。罪のない神の御子が、罪を洗う洗礼を受ける必要があったのか。主はヨハネの問いかけに対し「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と答えられました。イエス様は、完全な人として、罪ある人間と同じところに立ち、水による洗い、洗礼を受けられたのです。そしてその時、聖霊が鳩のように降り、さらに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の宣言がなされました。主は水を通って人間のもとに来られたお方であられました。
そして、主は十字架の上で、私たちのすべての罪をその身に負い、死なれました。釘で打たれた手首、そして踝からは血がとめどなく流れました。どれほどの痛み苦しみであったことでしょうか。ヨハネによる福音書19章によれば、イエス様のその肉体の死を確実にするために、わき腹を槍で突かれた時、わき腹から「血と水とが流れ出た」と記されております。
血というものは、痛みを伴い、体内の20%が失われると死に至ります。血を流すということは、肉体の死を意味致します。またいかにも凄惨なむごたらしいものと思え、私たちは思わず目を背けたくなるものはありますが、血というのは、神の被造物なる人間、また動物の中に確実に流れているものであり、旧約聖書レビ記17章11節には「生き物の命は血の中にある」と記されているほど大切なものです。聖書によれば、すべての被造物の命そのものが血である、と語られているのです。まさに命の根源と言えます。そして、現在私たちは、「イエス・キリストが十字架で血を流されたことを覚えて」、聖餐に与らせていただいております。
この「血」のことについて、私は神学校の卒業論文に於いて取り上げて調べたことがあります。先ほど申し上げましたレビ記の17章11節で「生き物の命は血の中にある」ということが、また17章14節では「すべての生き物の命はその血だからである」という御言葉が不思議で、また旧約聖書に於いて、数知れぬ動物の血が人間の罪のために流され続けたこと、またイエス・キリストがその「血によって」私たちの罪を贖って下さったということ、何故そのような残酷に思えることが必要であったのか、その意味が知りたく、またこの語りにくいむごたらしい死を伴う血について、聖書は多く語っておりますのに、教会の言葉としてはなかなか踏み込んで語られることが少ないことに、ちょっと物足りなさも感じていたため、血=ダームというヘブライ語について調べ始めました。そうしますと、「血の中の命」と記されている「命=ネフェシュ」というヘブライ語に興味を持つようになったのです。結局論文は「血」そのものではなく、「血の中の成分」、これは物質的な成分ではなく、「命、ネフェシュは血の中にある」という、御言葉に基づく成分、そのネフェシュについての論文になってしまいました。
ネフェシュという言葉は「喉」という意味を語源としまして、生きた人間の存在のすべてを表す言葉です。日本語の聖書では「命」と訳され、また「魂」と訳され、生きる人間を含めた動物、その存在自体を表す言葉であり、またその存在というのは、死を以って終わる非常に弱い存在であり、その存在自体では生きることが出来ない、だからその語源の「喉」が象徴しますように、いつも飢え渇いており、他者を求め、究極的には神を求める存在であり、神なしには生き得ない存在であると私は理解致しました。
また律法の書に出て参ります、「目には目を、歯には歯を、命には命を」という御言葉がありますが、これが血による贖いを知るキーワードであると思いました。これは目に対する傷害を受けた場合は、目の傷害によって償い、歯の傷害を受けた場合は、歯の傷害で償う、それ以上の報復をしてはならないという、同刑報復法と言われる教えでありまして、「命には命を」というのは、命を奪う罪を犯した場合は、命を以って償わなければならないという、最高に思い刑罰を示す教えであるのです。
「命には命を」は「ネフェシュにはネフェシュ」と原文では書かれてあります。「生き物の命=ネフェシュは血の中にある」、ということはすなわち「命には命」、死に至る罪を犯した場合は血の中にある命=ネフェシュを以って償わなければならない、それが神の支配の大原則であり、そのために旧約の時代は人間の罪の身代わりとして贖いとして数知れぬ動物が屠られ、血を流したのだということ、そして、動物の犠牲をもう喜ばないと言われた主なる神ご自身が、死を以ってしか自ら償うしかないような罪を犯す私たち人間のただ中に、神の御子イエスを完全な人間として世に遣わされ、「目には目を、歯には歯を、命には命を」という、神ご自身のご支配の大原則そのものに、神御自身が人=弱きネフェシュとなり、苦しみを受け、十字架の上で流された御血=血の中にある命、ネフェシュによって、すべての人間の罪を取り去られる道を開かれたのだということに思い至ったのです。
主イエスは、神であられましたが、まことに人となられたお方でありました。人としての肉体を持ち、その体内には血が流れ、まことにその血の中には人間の弱さや渇望を表す命=ネフェシュを持っておられた。
この「ヨハネの手紙」が書かれた時代には異端の教えが多くはびこっており、イエスさまは肉体はなかった、などイエス様がまことの神であり、またまことの人であった、ということを否定する教えを広めたりしておりました。しかし、聖書が語ることは、イエス様はまことの人であり、まことの神であられたということです。イエス様は私たちと同様に弱い肉体をもったまことの人としてお生まれになられ、その神の御子が十字架の上で苦しまれ、命なる血を流された。主は、人間としての血すなわち命、ネフェシュを含む血を以って、私たち人間の罪、負うべき悲しみ苦しみの代わりに、まことに神の子自らが痛み、苦しまれ、人間の償うべき血の中のネフェシュに代わり、神の御子が、ご自身の血の中のネフェシュをもって、私たち罪深い人間の流すべき血を、その血を以って買い取り、贖われた。主はまことに命を賭けて人間の罪、死に値する罪、命には命をもって贖われなければ許されない罪を自ら引き受けられた。それが主イエスが血を通って人間のもとに来られたという意味なのです。
その血によって私たちの罪は赦されました。私たちは今、その主の苦しみを思い、主が私たちの罪のためにいのちを捨てられたことで私たちが命を得たことを思い起こしつつ、聖餐の杯の恵みに与っているのです。聖餐とは命を賭けた主の贖いのしるしです。信じて、御子の十字架に自らのすべてを委ね、御子の十字架と復活による新しい命を頂いて、初めて受けるべきものであります。
そして、洗礼によって主イエスに下された“霊”聖霊は、ペンテコステの時、使徒たちに下されました。イエス・キリストは十字架の後、陰府に降られましたが、復活され、復活の姿を弟子たちに顕されました。そして、弟子たちの見ている中、天に昇られました。今、主イエスは天の父なる神の右の座におられます。そこ、天より、父とキリストのもとから地に聖霊は下されたのです。聖霊は真理の霊、神の霊、主イエス・キリストの霊であられます。キリストは十字架と復活の後、聖霊として私たちの只中に来られたのです。そして、今も私たちのうちに、また私たちと他者との関係の只中に働いておられます。また、聖霊は「生ける水」とも言われております。
水はイエス・キリストが旧約の救いの出来事をすべて通って来られた証しであり、新しい命、復活の命を顕し、血は罪の許しを、そして聖霊は私たちと共におられる神、イエス・キリストの霊なるお方、生ける水。それらはイエス・キリストに於いてひとつであり、イエス・キリストを証しするものであり、またそれこそが「神の証し」である、ヨハネの手紙はそのことを語っております。
「神の証し」、水、血、霊とは何でしょうか?それはひとことで言えば、「命を捨てるほどの愛」であるのです。
信じる人には、その人の内に、水、血、聖霊による証しがあります。新しい命、復活の命と、罪の赦し、主なる神がわたしたちの内におられ、また私たちが主なる神のうちに生きている、すなわち「神の証し」を信じる人は、御子と結ばれており、また御子のうちにあるものとして、永遠の命が与えられているというのです。
それが、神の愛です。神ははじめの人アダムによって神と断絶し、死に定められた人間を、ご自身のもとに取り戻そうとしておられます。命を賭けて。
神は愛である、ということは、神の子ご自身が人となって世に降られ、人として罪の赦しの洗礼、水の洗いを受けられ、その肉体を以って苦しまれ、血を流され、死に、復活し、今聖霊を与えてくださっている、その命を掛けた、壮絶なまでの愛。ご自身のもとに取り戻すためにすべてを賭けた愛。それが神の愛であり、神が主イエス・キリストを通してなされたご自身を証しであるのです。
この証は、信じる私たちのうちにあります。信じる私たちとキリストはひとつに結ばれております。
世にはさまざまな苦難、問題がありますが、信じる者には世に打ち勝つ力がすでに与えられているのです。主イエスの証しが、神の命を賭けた愛の証しが私たちのうちにあるからです。
主にそれほどまでに愛されている者として、「神の証し」をこの身に受ける者として、神を愛し、また互いに愛し合い重んじあって世の戦いを戦い抜いて参りましょう。