5月26日礼拝説教「神の子としてくださる聖霊」

聖書 ローマの信徒への手紙8章12~17節

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節/新共同訳)

洗礼後の日々

先週の礼拝で私は悔い改めた死刑囚の石井藤吉さんのことをお話ししました。今日も少し彼のことについてお話ししたいと思うのです。彼は何人もの人を殺し、強盗や強姦などの罪を重ねた凶悪犯でした。その石井さんは刑務所で教誨師に出会い、キリストの福音に触れて、自分の罪を悟り、悔い改めて、キリストの救いを信じ、しかし自分の犯した罪を償って死刑になることを受け入れて天の御国に帰っていきました。悔い改めてから死に至るまで、彼は聖書を読むことと自分の罪を告白して懺悔することにすべての時間を使いました。そして神の愛を知らない他の受刑者に手紙や文章で神の愛を伝えたのです。

石井さんは悔い改めて洗礼を受けてから天に召されるまで、刑務所の中という謂わば世間から隔離された場所で純粋にみ言葉と向き合う時を与えられて、信仰を育み、そして喜びにあふれる日々を送ったのですが、私たちはどうでしょうか。洗礼を受けた後、多くの人はこの世の荒波の中で誘惑を受けたり、また心の中から湧き上がる罪の誘惑を受けて、これに対峙しつつ日々を送ります。それは決して楽な生き方ではありません。言葉を変えれば苦難を受けつつこの世を旅するのがキリスト者であるということになります。

パウロが伝えるキリスト者の生き方

本日与えられた御言葉はキリスト者はどういう存在かを私たちに示しています。まず、先ほど読まれたローマの信徒への手紙8章12節から17節を超訳でお話ししたいと思います。超訳というのは正確さよりも分かりやすさを重視した訳です。今日の私たちが理解しやすいように表現したものです。ちょうどパウロが今日の私たちに説教しているような気持で聞いていただければと思います。

お集まりの皆さん、私たちは義務を持っていますが、それは欲望や怠惰に対する義務ではありません。もしあなたたちが欲望の支配のもとに生きるなら、あなたたちは死ぬことになります。しかしもしあなたたちが聖霊によって欲望の支配を絶つならあなたたちは生きるでしょう。誰でも神の霊によって導かれます。誰でもです。
そのような人たちは神の子です。皆さんは、恐れに引き込む奴隷の霊ではなく、聖霊を受けました。そして神の養子とされたのです。
この聖霊によって私たちは神を親しく「お父さん」と呼ぶことができるようになりました。この聖霊ご自身が私たちの魂と一緒に、私たちが神の子どもであることを証言してくださいます。
子どもなら相続する権利を持っています。畏れ多いことですが、聖霊を受けている人は神の相続人です。そしてキリストの共同相続人でもあります。私たちはキリストと共に栄光を受けさせていただくのですから、福音を宣べ伝えるためにキリストと共に苦難をも受けようではありませんか。

今日はこの超訳をもとに証をしたいと思います。

8:12 お集まりの皆さん、私たちは義務を持っていますが、それは欲望や怠惰に対する義務ではありません。

キリスト者はすべてのことにおいて自由です。そしてその自由の下で神や隣人に喜んで奉仕します。それは欲望や怠惰に対する義務からではありません。自分を甘やかす生き方や傲慢を助長させる生き方をしなければならない義務などありません。

8:13 もしあなたたちが欲望の支配のもとに生きるなら、あなたたちは死ぬことになります。しかしもしあなたたちが聖霊によって欲望の支配を絶つならあなたたちは生きるでしょう。

なるほど、そのような生き方は自分を自分らしく生きる生き方のように思われるかもしれません。しかしそれは私たちを死へと向かわせるのです。誰が自分のことしか考えない人と心を通わせようとするでしょうか。人は利害関係でつながっているという人がいますが、それは心を通わせる関係ではありません。人は一人では生きられないという言葉は利害関係から逃れられないという表面的な理解を意味してはいません。人は他者と豊かな交わり、愛の交わりの中にいなければ生きられないのです。自分だけが良くなろう、得しようとすることは豊かな関係を壊すことであり、関係を拒否することです。その人は利害関係の中で生きていても心からの喜びを持つことができず、絶えず不満を感じ、不足を感じます。そいう会ってその人は生きていてももはや死ぬんでいるも同然です。

8:14 誰でも神の霊によって導かれます。誰でもです。その人たちは神の子なのです。

神の霊は聖霊です。聖霊に導かれる人は神の無償の愛を知り、キリストの救いの恵みを知ります。そのような人は神との愛の交わりに招き入れられた人です。

8:15 皆さんは、皆さんを恐れに引き込む奴隷の霊ではなく、聖霊を受けて神の養子とされたのです。この聖霊によって私たちは神を「お父さん」と呼ぶのです。

奴隷とは自分の意志とは違うことをさせられる存在ですね。つまり「奴隷の霊」とは自分の望む善を行わず、望まないことをさせる霊です。そしてそのような霊が私たちの内にいれば人は奴隷なのです。ローマの信徒への手紙7章19節から20節に「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」とありますが、このような罪の奴隷になっているのです。

聖霊は私たちを神の子とします。神さまとの愛の交わりの中に私たちを加えてくださいます。それは引いてはキリスト者同士の豊かな交わりとなります。神の子とされるというのは、私たちが神を恐ろしい存在とか近寄りがたい存在と思わず、神は真理を教え、私たちが親しく呼びかけることのできる存在であることを知ることです。

神の子どもという比喩は理想的な家族関係が前提となっています。最近の家族関係は愛情によって結び付けられていないことがあるので、親子関係を譬えにすることが人によっては嫌悪を抱かせることがあるかもしれません。しかし、この箇所では家族は愛情でつながっているということを前提にしていることを前提としています。

8:16 この聖霊ご自身が私たちの魂と一緒に、私たちが神の子どもであることを証言してくださいます。

聖霊こそ、私たちが神の子どもであることを証言してくださるのです。聖霊はご自分で語るのではなく、神やキリストの言葉を語ります。そして神の愛の交わりの中に私たちを入れてくださいます。

8:17 子どもなら相続する権利を持っています。畏れ多いことですが、聖霊を受けている人は神の相続人です。そしてキリストの共同相続人でもあります。私たちはキリストと共に栄光を受けさせていただくのですから、福音を宣べ伝えるためにキリストと共に苦難をも受けましょう。

神の相続人は神のすべてを相続する権利を持っています。それを独り占めにするのではなく、すべての相続人が神のすべてを相続するのです。

「苦難をも受けましょう」とはキリストと苦難を共にすることです。旧約聖書に預言者エレミヤや信仰者ヨブのことが記されていますが、彼らが神の前に立ったように、私たちもキリストと共に神の前に立つことです。すなわち、私たちが神の厳しい裁きだけしか感じない時でも、神を雷鳴の中に見つつ、神を暗闇の光として認めつつ、神を愛しつつ、神の前に立つことです。

苦難の問題は生きるということそのものにあると言ってよいでしょう。私たちにとって生は有限です。遅かれ早かれ私たちは死に直面します。私たちが色々な場所や状況で遭遇する困難や苦労は私たちがいずれは死ぬということに起因していると言っても過言ではありません。食べるものや飲むものがないといった生きることに直結する困難から、仕事や社会において遭遇する出来事まで、すべては死の恐怖に起因しているのです。

ここで神の問いが私たちに向けられています。そして答えが私たちのために用意されています。私たちは苦難のうちに聖霊が働き、私たちの生の意味を知ることができるようになるでしょう。苦難を共にすることは神への栄光に至る道なのです。苦難の中で神を知るということこそが神のお働きであり神の業です。この業を悟り、恵みを見出し、真理を得ること、それが、私たちが神の子であるということです。

聖霊は苦難に対峙する力を私たちに与え私たちを神の栄光を現す器してくださいます。聖霊による交わりが豊かであれば、苦難の中にあっても私たちの周りには愛の交わりが現れ、喜びが満ちます。苦しい時に共に祈ることはこの交わりの実りであり、その苦難から逃れる道です。イエス様は十字架にかかって苦しんでいる時に自分を十字架につけた人々のために祈られました。イエス様が祈っていてくださるのです。そのイエス様の苦難とイエス様が祈られた祈りによって、苦難の中にある私たちは慰められるのです。

父・子・聖霊の神の交わりに招き入れられる神の子

さて死刑囚の石井さんをキリストに導いた教誨師は石井さんに詩編116篇の聖句を贈っています。その中の8節はこのような言葉です。

詩 116:8 あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。

この御言葉を教誨師は次のように石井さんに説明しました。

「死」とは過去の罪過の結果を指し、「涙」とは現在の煩いや苦悩を指し、「突き落とそうとする者」とは将来の誘惑や失敗を指したもので、「助け出してくださった」とあるのは、すなわち過去と現在と将来の生涯を通じて助け出してくださいました。ヘブライ書13章8節にもあるように「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。広大無限の御恵みをもって救い出してくださるのです。

教誨師が石井さんに伝えた詩編116篇8節やヘブライ人への手紙13章8節には本日与えられたローマの信徒への手紙8章12節から17節のみ言葉と相通じるものがあります。天に上られたイエス様は父なる神さまに願って聖霊を私たちに遣わしてくださいました。それによって私たちは過去も現在も未来も守られているのです。たとえ現在、苦難や煩いがあろうとも、たとえ将来にどのようなことが起きようとも、父・子・聖霊の神は私たちを助け出してくださいます。神の子とされ神の愛の交わりの中にいることの幸いとはこのようなものです。

世の誘惑や欲望の罠ということを、例えば福音書は比喩的にガリラヤ湖に漕ぎ出した船が突然嵐に遭った出来事として記しています(マタイ8:23~27)。弟子たちは船を操る熟練者だったにもかかわらず、自分たちだけでは嵐の苦難から抜け出ることはできませんでした。神との交わりを忘れていたからです。しかしイエス様はその嵐の中で船に一緒にいてくださいました。弟子たちが自分たちの力で何とかしようとしていた間、弟子たちはイエス様に助けを求めることをしませんでしたが、弟子たちがどうにもならなくなってイエス様に助けを求めると、嵐に譬えられる苦難は過ぎ去ったのです。

神の子として歩む

キリスト者は聖霊を受け、神の子とされました。聖霊に導かれる人は神の無償の愛を知り、キリストの救いの恵みを知ります。そのような人は神との愛の交わりに招き入れられた人です。誰でも神の子としていただけます。ただキリストがあなたを救ってくださることを信じて皆の前でそのことを話すことで、聖霊が降り神の子としていただけるのです。資格や経験といったものや何かを為したという功績などは一切必要ありません。神の子は神との愛の交わりに加えてもらえます。そしてキリスト者の豊かな交わりの仲間に入ります。