6月2日礼拝説教「土の器に宝が」

聖書 サムエル記上3章6~10節、コリントの信徒への手紙4章5~12節

人は土でできた器

創世記2章7節の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」という言葉は有名です。最初の人はアダムと呼ばれましたが、これは塵(アダマ)から造られたことに由来しています。私たちは天に召されれば肉体は滅びます。しかも土で出来たこの器(うつわ)は完全ではなく欠けがあります。それは自分で自分が嫌になるような性格であったり、何かをしようとしてもうまくやり遂げることができない弱さであったり、外見の不完全さであったりと、それぞれの人が感じている不完全さです。自分自身にそのような不完全さを感じますし、他者にも感じます。しかし使徒パウロは私たちがイエス様を信じて、「神の栄光を悟る光」(6節)という宝を与えられたと語ります。玉川聖学院というミッションスクールの卒業生が作った曲は「土の器の内側にある輝きが、器の欠けたところから、周りに、光と輝きを届けていく」ことが歌われています。

教会はこの世において神の福音を伝える最前線に置かれている神さまの足掛かりです。しかしこの教会も土の器で、欠けがあります。欠けがありますが教会のかしらであるキリストがここにおられるので、そのかけたところからキリストの光が輝き出るのです。このことを本日与えられた御言葉に聞いてまいりたいと思います。

使徒パウロの生き方

コリントの信徒への手紙二の4章5節から12節です。

4:5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。

使徒パウロとその一行は各地を巡回してキリストを宣べ伝えていました。彼らは自分たちがどのような苦労をしたかとか、どの様な喜びを受けたかを語るのではなく、主イエス・キリストの言葉や業(わざ)を語ったと書かれています。パウロ達は自分たちのことを「イエスのためにあなたがたに仕える僕」と言っています。「イエスのために」とは「イエス様を通して」という意味でもありますから「イエス様が成し遂げてくださったがゆえに」ということをパウロは言いたいのです。イエス様がパウロを救いました。神が与えた律法という規則をすべて守っても、自分を正しい者とできなかったパウロが旅の途中で復活のイエス様、キリストに出会い、神の愛や恵みを知って救われたのです。パウロはそのことを証しして多くの人々を律法の縛りから解き放し、神の許に導きました。

4:6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

「闇から光が輝き出よ」という言葉は創世記1章3節の『神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。』を基にしている言葉です。この言葉は神が世界を創造したときの最初の言葉です。その言葉を発した神がパウロたちの心のうちに輝いています。神は、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストの御顔に神の栄光を悟る光があるというのです。そしてその光は私たちの心のうちに輝いています。

この礼拝堂は光の会堂です。今は室内の照明が外からの光に勝っているので、あまり外からの光を感じませんが、もし室内に照明がなければ暗い部屋の中に外からの光が差し込むのが感じられるでしょう。

この礼拝堂は私たちの心の中を表しています。私たちの心の中には闇があります。それは自分だけしか知らない闇ですし、場合によっては自分でも気づかない闇です。その闇にキリストの光が輝くと私たちは闇や欠点を見るのではなくその光を見て絶望や失望から希望へと変えられていきます。

この「光」は聖霊でありましょう。私たちに聖霊が降り、私たちの内に宿られました。コリントの信徒への手紙一の6章19節には「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です」と書かれています。聖霊の神はひとつですがそれが各人に分かれ分かれに降ったのです。

4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

「このような宝」とは6節の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」のことです。私たちは土の塵から造られました。しかしその鼻に神の息が吹き込まれて生きる者になりました。(創 2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。)

「並外れて偉大な力」とは人間が6節にある「神の栄光を悟る」ことができる力のことです。その力は私たちが持っている力ではありません。神からのもので、それがキリストによって私たちに与えられるのです。

4:8-9 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。

この8節と9節の言葉は「苦難のリスト」です。この言葉からいろいろな聖句が思い出されます。その中のひとつを紹介します。6章4節から10節と12章10節の言葉です。

Ⅱコリ6:4-10 「4大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、5鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、6純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、7真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、8栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、9人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、10悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」

二コリ 12:10 「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

このような言葉です。パウロの言葉は真実でしょう。しかし私たちのような普通の人間にはこのような意識を持つことはできないのではないかと思えます。なぜパウロはこのようにも強いのでしょうか。その理由は10節に書かれています。

4:10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。

8節と9節のパウロの言葉がまことである理由は、パウロ達がイエス様の死を身にまとっているということにあります。この「死」とは屈辱の死です。十字架の死は屈辱であり絶望ですが、それをパウロは神の栄光と悟ったのです。

神の栄光が十字架の屈辱の死とはまさにコペルニクス的な転換です。パウロや彼の一行の人々の中でこの大いなる偉大な転換が起こったのです。

イエス様は地上を歩かれた時にいろいろな救いの福音を告げられました。それは山上の説教であり、迷い出た一匹の羊をどこまでも探し求めて見つけ出す羊飼いの譬えです。

マタイによる福音書5章の山上の説教ではイエス様は「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と福音を語られました。

同じくマタイによる福音書18章12節―13節では「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」と語られました。

究極は十字架にかかられたイエス様が祈られた言葉です。ルカによる福音書23章34節にはイエス様が死を目前にして「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って自分を迫害し死に追いやった人々のために、その人々が悔い改めて神に立ち帰るように祈られたことが記されっています。

他にもたくさんの箇所に救いの福音の言葉が記されています。人は完全ではなく欠けがありますから間違いや罪を犯してしまいます。イエス様はご自分の命を以て人のそのような過ちを償ってくださったのです。このことが6節の「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光」であり、そのことを悟ったパウロはイエス様の屈辱の死を自分の体にまとっているのです。

ですからパウロはやせ我慢や自分を良く見せようという偽善ではなく、心から8節と9節の言葉を自分の生き様として語ることができました。もし私たちがイエス様の屈辱の十字架の死を身にまとって日々を送るならば、私たちもパウロと同じく、苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望しないし、虐げられても見捨てられていないことを知り、打ち倒されても絶望することはありません。

 

4:11 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。

この言葉は意味的に8-10節に続いています。パウロたちはイエス様の十字架の死を自分のことのように感じています。それはイエス様を自分の中に感じているということです。イエス様の死は屈辱の死であり見捨てられた者の絶望の死です。イエス様はそのような死を遂げられました。

こんな逆説があり得るでしょうか。私はこのパウロの逆転の発想に驚きます。これこそ本当の救いです。このイエス様の十字架の救いによって救われない者はいません。この救いは究極であり凄い恵みです。十字架の惨めな死というその外見上のみすぼらしさの中に他のものをも遥かに凌駕する救いの力があります。これはこれ以上ない私たちへの贈り物です。このことを悟らせてくださったのは神からの光である聖霊の力です。

4:12 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

この言葉は「私たちの内にイエス様の死が力を及ぼしている。その力が死んだも同然の状態になっているあなたたちに命を及ぼす」というように理解することができます。当時の多くの人々は抑圧され、搾取され、人権を奪われて生きていました。特に汚れた者とされた人々はそうでした。またユダヤ人以外の外国人はすべて汚れた人々と見なされていました。そのような人々にイエス様の十字架の死の贖いが力を及ぼして命を得させるのです。

教会という器

さて、私は冒頭で、教会は神さまの福音の最前線であるにもかかわらず、欠けの多い不完全なものであると言いました。どういう欠けがあるかを想像しますと、「高齢者が多い、若者や働き手が少ない。」、「教会に十分な駐車スペースがない」、「牧師館がない」など、無いない尽くしの欠けです。確かに今この礼拝堂にお集まりの方々やZOOMで参加しておられる方の年齢は高いのです。そのような私たちは体力がありません。知恵も衰えてきました。

しかしそのような欠けを逆にしてみると私たちが不完全だと思うことに実は傲慢があることに気づきます。このような問いを考えてみましょう。「若者が多く、働き手が沢山いればそれで教会は良いのか」という問いです。このように問いを立ててみると決して高齢者が多くて働き手が少ないことが欠けではないことに気づきます。

私はこう思います。教会に欠けがあるとすれば、せっかく礼拝で神の言葉を聞きながらその恵みを受けずに帰ることではないかということです。高齢者であろうと若者であろうと、礼拝で神に向かって賛美の歌を歌い、この1週の間の失敗や煩いを心の中で神に告白して憐れみや赦しを受け、神の言葉を聞いて勇気づけられて満たされ、この世へと出ていくならば何の欠けもありません。礼拝に参加する私たちが、私も含めて、このような喜びに満たされるかどうかが欠けがあるかどうかの最大でたぶん唯一の問いであります。礼拝がまことにこのようなものであれば、礼拝に参加する人は神からの力を受けます。

神の前で小さな子供のように

弱さの中から光が輝き出ます。なぜなら弱いからこそ力に頼るのではなくキリストに頼るからです。いつの時にもキリストに祈り、キリストに助けを求め、キリストに感謝するならば、欠けの多い私たちですがキリストの光をその欠けの隙間から輝かせることができます。

キリストに頼るということは小さな子供が母親に信頼しているようなものです。小さい子どもは自分だけでは生きていくことができません。世話をしてもらって生きています。小さい子ども達はそのことがはっきりとわかっていないかもしれませんが、「お母さん大好き」といった言葉で信頼と感謝を表わします。

私たちは神の前で小さな子供なのです。自分に力があると思っている間は自分の力で生きていると感じていますし、自分だけで生きなければならないと思っています。しかしもともと人は神なしにひとりでは生きられません。悩み苦しみを一人で背負うことは辛いことです。しかし私たちには十字架で死なれて復活し、今も働いてくださっているキリストがおられます。そして聖霊はそのことを私たちに示しています。

土の器に神の栄光の光

神は土の器である私たちに宿り、私たちの心の中で輝いています。この光はイエス様の十字架の惨めな死が神の栄光のしるしであることを私たちに悟らせてくださいます。この光は聖霊です。

私たちはイエス様を信じ、人を愛して生きることで、四方から苦しめられても行き詰まりません。途方に暮れても失望しません。虐げられても見捨てられてはいません。打ち倒されても滅ぼされることはありません。なぜならイエス様が十字架で惨めに死なれたことが私たちを救ったというこの上もない恵みを知ったからです。

どうか全能の神がすべての人をこの恵みへと招き入れてくださるように。私たちがイエス様の恵みを証ししていくことができるように。お祈りいたします。