6月9日礼拝説教「回復してくださるお方」

聖書 サムエル記上8章4~9節、コリントの信徒への手紙二・4章13~18節

人は生きる価値あり

私たちは先週の礼拝で私たちが朽ちていく土の器にすぎないけれども、その私たちに聖霊が宿ると、私たちは内側に神の栄光の光を持つということを知りました。だから私たちは不完全であっても罪を犯す存在であっても生きていて良いし、生きる価値があります。高齢になったり障がいを持ったからといって生きる価値がなくなるということはありません。このような理解は私たちの中から出てくることはなく、父なる神と子なる神が私たちに教えてくださるから知ることができる事柄です。

本日与えられた新約聖書の御言葉は先週の御言葉の続きの部分です。私たち人間はどういう存在なのかを今日の御言葉を通して思いめぐらせたいと思います。

人生の喜びと艱難

4:13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます。

パウロは詩編116編10節を引用して、「自分たちは語るのだ」とコリントの教会の人たちに書き送っています。パウロはイエス様が地上を歩かれた時代に生きていた人で、最初の頃はイエス様を信じる人たちを、間違った神を言いふらす人たちだと思って、捕らえて牢獄に送っていた人でしたが、復活のイエス様に出会って本当の神を知り、それからはイエス・キリストを伝えるために一生をささげた人です。

パウロは旧約聖書を引用して、詩編作者と自分とは同じ霊をもって語っていると公けに言い表わしています。パウロは自分たちが宣べ伝えているキリスト・イエスと旧約聖書に証されている神とは同じだということを信じて、語っているのです。

神を信じた者は語らずにはおられません。だからパウロは2節にあるように「真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」とか、5節にあるように「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」と語ったのです。

4:14 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

イエス様の復活と私たちの復活とは関係しています。イエス様は私たちの初穂、すなわち最初となられました。フィリピの信徒への手紙に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリ2:6)とあります。イエス様は神でありながら人となられたお方です。人間となられたイエス様が復活されたのですから、私たちも復活させていただけるのです。「イエスと共に」とあります。これはキリストが再び来られる時にということですから、私たちはキリストが再び来られる時に復活させていただけるのです。復活とは霊の身体によみがえることであり、父・子・聖霊の神との愛の交わりの中に完全に入れていただくことです。

復活すれば私たちは神の御前に立つことになります。そこで私たちは裁きを受けるのですが、この裁きは私たちの中にある罪を焼き尽くすものです。ちょうど金が高温の炎で焼かれて純粋なものになるように、私たちは主なる神さまがお造りになった状態に回復するのです。

4:15 すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。

私たちの人生において起きるすべてのことは私たちのためです。私たちが受ける喜びも苦難も、すべてのことは「多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるため」なのです。

私の人生が私のためだけではないということは、人生は空しくない、ということを意味します。人のためにというのは究極的な満ち溢れ(満たされること)を意味するからです。「人のため」に私たちが行うことはすべて「神に栄光を帰すため」です。神のために喜びも苦難もあるということを知るならば、人は喜びだけでなく苦難をも受け入れることができるでしょう。

このことはイエス様の人生が示しています。私たちはイエス様を仰ぎ見て、どの様に生きるかを知るのです。イエス様の十字架は「使命を全うする」ということを私たちに教えます。使命とはこの世に生きる者とされた私たちに与えられている働きということができます。「働き」といっても、存在すること自体が働きですから、何かを成し遂げるということではありません。私たちは自分に与えられた使命が何であるかを知りませんが、しかし、天に召された時に、その使命を知るでしょう。また私たちが経験した喜びや苦労が何であったのかをその人の周りにいる人たちが知るでしょう。このことは私たちが近しい人の死によって経験することであります。

4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

「落胆」とは「やる気を失う」とか「諦める」ということですが、人は死ぬことによって終わらないということを知っている人にとってはそのようなことはないとパウロは言います。高齢になったり、病気や怪我で体や精神が不自由になったとしても落胆することはありません。外見は弱っていても内なる人は日々新たにされるのです。人は衰えていき、死に至りますけれども、復活の希望は私たちを強め、最後まで希望を持つことができます。内なる人は聖霊によって新しくされていくのです。自分で新しくなるのではありません。父と子が贈ってくださった聖霊が私たちをつねに新しくしてくださる。回復させてくださいます。

4:17 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

地上における苦難はどんなに大きく辛く厳しく思えても、パウロに言わせれば軽い艱難です。なぜならばそれが「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」をもたらしてくれるからです。復活の希望とはそのような大きな大きな希望です。

人生において、喜びは歓迎するけれども艱難は嫌だと思うのは私たちの自然な感覚だと思います。できることならば艱難に遭わない人生を送りたいと思います。しかし人生に艱難はつきものなのです。そしてまた艱難があるから喜びがあり、喜びが大きくなります。何も苦しいことのない人生を想像してみてください。きっと喜びもないであろうことに気づくのではないでしょうか。

今日はサムエル記の箇所も耳にしました。そこに書かれていることは、イスラエルの民が神の直接的な支配ではなく王の支配を望んだということでした。そして神は民の願いをお許しになりました。しかしそれは民が王に支配されて苦しむことをお許しになったということだったのです。目に見えない神との交わりよりも、目に見える王による支配を望んだことによって、イスラエルの民は大きな苦難を受けることになりました。その苦難によって民が知ったことは、神に立ち帰らなければならないということでした。しかし人間は忘れやすいもので40年か50年すると、ある委はもう少し長くて70年すると、その記憶が薄れて、また神から離れるということを繰り返しました。そこでまた苦難に遭遇するのです。イスラエルの民は苦難を通して本当の喜びや平安は神から来るのだということを知りました。

彼らは復活を知らされてはいませんでしたから、死後のことについては旧約聖書にはわずかにしか書かれていませんが、私たちはイエス様を通して復活の大きな恵みを知っています。この栄光の希望がありますから、どのような苦難があっても落胆してやる気を失ったり、人生を諦めたりすることはありません。復活後の永遠の栄光が私たちを待っています。私たちは神との交わりの中に入れていただけるのです。今はまだ神を見ることはできませんがその時には神を見ることができるようになります。創世記2章に描かれているアダムとエバのエデンの園にそのイメージが描かれています。

4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

この御言葉は私たちに希望を与えます。もしこの世界の中に見えているものだけしか存在しないならば私たちは襲い掛かる艱難に耐えることはできません。暗いニュースに押しつぶされそうになります。たとえそのような状況に耐えたとしても、それは希望のない忍耐にしかすぎず、素の忍耐から生きているる意味を見出すことはできません。

この世のものは過ぎ去ります。この世のもので永遠に存在するものはありません。しかし見えないものは永遠に存続します。神の言葉は決して滅びることはなく、神の支配は終わることはありません。

死の間際に

昨日、Hさんの夫のEさんが天に召されました。私はお嬢さんからEさんが危篤との知らせを受け、水曜日の夕方にEさんを訪問し、神さまのお話をさせていただく機会を得ました。もう話すこともできなくなっていたEさんでしたが、死は終わりではない、神さまの御許にいくのだという私のお話や詩編23編を聞いていたように思います。人は意識がなくなっているように見えても聞こえているということを聞いたことがありますが、このことは確かだと思います。Eさんは死の間際に神様の言葉を聞いたのです。そしてきっと安らいでくださったのではないかと思います。その場にはEさんの3人のお嬢さんとお孫さんが同席していました。きっとご家族の皆さんもEさんは地上での生を終え、神さまのところに行くのだということに慰められたことだと思います。Eさんは死者たちと共に眠り、キリストの救いを待つことでしょう。そして家族の信仰によって救われてキリストの再臨の時に復活の恵みに与ることができると信じます。使徒言行録に記されているパウロとシラスの言葉「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使16:31)は信じるに足る言葉です。出来ることならば1日も早く救われていただきたいと願うのですが、その時については神さまに委ねたいと思います。

神の似姿に回復させていただく

復活とは私たちが神さまに造られた姿に回復しさせていただくことです。その時は私たちには知らされていませんし、私たちはその時を知る必要もありません。今の時が苦しみの時であったとしても落胆することなく、喜びの時であれば感謝して、復活の希望を抱いて日々を送りたいと思います。