6月16日礼拝説教「キリストの愛が」

聖書 エゼキエル書17章22~24節、コリントの信徒への手紙二・5章6~17節

神の言葉は人を生かす

人は死を恐れます。人生において一度も経験することなく誰も教えてくれない死を一人で迎えなければならないからです。しかし主がその時も共にいてくださることを知るならば大きな慰めを受け心が安らぐでしょう。神の言葉は人を生かします。先ほど私たちが耳にした神の言葉は使徒パウロが福音を宣べ伝え、その言葉を聞いて信じたコリントの教会の人たちを励まし、その信仰を支えているということでした。そしてそのようにする理由を耳にしました。

与えられる存在

コリントの信徒への手紙二の5章11節に「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。」と書かれています。人々の説得に努めるとは一生懸命に福音を宣べ伝えていますということですし、「あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」というのは福音を聞いて信じた人たちと何度も手紙のやり取りをしていることを示しています。パウロはコリントの町から離れた所にいてもコリント教会の人々のことを思っていました。

なぜそのようにするかといえば14節にあるように「キリストの愛がパウロとその仲間を駆り立てている」からです。駆り立てるとは、「駆動する」という言葉があるように、車のエンジンがタイヤを駆動させて車を走らせるような時に使う言葉です。パウロたちは「十字架で死んだあのキリスト・イエス様の愛に揺り動かされて、愛に駆動されて福音を語っている」と告白しているのです。福音を語ることは決して簡単なことではなく、非難されたり罵られるようなことが多くあったと福音書には記されています。それでも6節と8節にあるように「パウロたちはいつも心強い」のです。パウロたちは7節にあるように「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」からです」。

パウロは「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それは信じた人たちのためです」と自分たちの奉仕の業を伝えます。彼らは気がふれたのではないかと人々が思うほどに神の言葉を伝えるようにキリストの愛が彼らに迫っています。

パウロは15節に次のように書いています、「キリストはすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(15節)と。キリストの愛をしっかりと受け止めているパウロがいます。キリストの愛に駆り立てられて神の言葉を伝えているパウロがいます。その目的は私たち人間が自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることだとはっきり宣言します。ここに人間とはどのような存在かが示されています。人間とは自分自身のために生きる存在ではなく、人間を愛してくださってその人間のために十字架にかかり死んで復活してくださった神であるキリストのために生きる存在なのです。

私たちが経験によって知り得る私たちの存在理由がひっくり返されます。人間は元々、与えられる存在です。空気や水や食べ物は私たちが生きるために必須のものですが、私たちはそれを自分たちで得ることはできません。食べ物は自分たちで得ていると思われるかもしれませんが、備えられていなければそれを手にすることはできません。すべては与えられているのです。

それなのにそれらを自分のものにしようという悪い考えが芽ばえてしまいます。それが自分自身のために生きるということです。このことによって不信感が芽ばえ、争いが起こり、人は不幸になります。

私たち人間は本来、与えられたもので生きていることを喜び、それらを与えてくださる神さまに感謝して生きる存在なのです。このように生きるならば人は仲良く助け合って生きることができます。人間だけでなく、生き物とも、環境とも仲良くしていくことができます。

預言者エゼキエルが「うっそうとしたレバノン杉にあらゆる鳥が宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。」(エゼ17:23)と語ったように、人間は神のお守りの内に安らぎ、神の支配の中に住むようになります。エゼキエルが活動した時代はイスラエルの人々がバビロンに捕囚になっていた時代でした。人々は故郷から遠く離れたバビロンでその国のために働かされていて低く扱われていました。人々は自分たちは力弱い者たちだと思って落胆していましたが、エゼキエルは神が人々を安らかにしてくださると伝えたのです。彼らは神により頼むことで希望を持つことができました。

パウロは神の言葉を語り続けています。そしてパウロは自分たちが罪を犯す存在であることを知っています。10節にパウロは「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」と書いています。パウロは自分たちの奉仕の務めが非難されないように、また人に罪の機会を与えないようにと注意して神の言葉を伝えています。しかしそれでも、パウロは自分たちが行ってきたことに応じて裁きを受けなければならないことを知っているのです。このように自分たちの行動を顧みることは素晴らしいことです。人は良いことをしていると思っている時に傲慢になりやすいからです。神から裁かれて報いを受けるということをいつも心に置いているから彼らは謙虚であったのだと思います。

新しい創造としての人間

パウロは16節に「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」と書いて、人を外見で判断しないと伝えています。もしキリスト・イエス様を外見や十字架の死ということで判断するならば、何と力弱い惨めな存在でしょう。しかしイエス様が語られた言葉や行われた業を知るならば、このお方が私たちを間違った生き方から救ってくださったことがわかります。

キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者です(17a節)。その人はキリストの愛に包まれています。ちょうど大きくて立派なレバノン杉に鳥たちが抱かれて安心しているようです(エゼ17:22-24)。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じました(17b節)。イエス様が地上に来られてからは古いものが滅びるように定められていて、新しいものが既に現れている時です。このことはすなわち、この世界に新しい創造としてのキリスト者が現れて神の支配が現実のものとなったのですが、古いもの欲望や傲慢といった価値観がまだ残っており、それがせめぎ合っている時だということです。キリストが再び来られる時まで、この状態は続きます。このことを自覚することによって私たちキリスト者は自分たちの価値を自覚できるようになります。キリスト者はこの世において神を証しし、福音を伝える存在であり、福音に従って与えることの喜びを知って、共に御国への旅路を歩いていく存在です。

讃美歌480番「新しい時をめざし」

この後、讃美歌480番「新しい時をめざし」を歌って神さまを賛美します。この讃美歌はピアノ伴奏が適している従来の讃美歌とは趣が異なる讃美歌です。原歌詞は次のようなものです。480番を開いていただければと思います。そして歌詞を見ながら聞いていただければ、イメージがより豊かになるのではないかと思います。

1節
神は、私たちを召される。その民と共に歩む新しい時に向かって。
行き詰まった状況からの変革の時が来た。
しかし一人で孤立していては何もできない。
(くりかえし)
だから、さあ来て!
私たちの輪に入ってください。
あなたがとても大事なのです。

2節
簡単にできることとは思えない。
死を作り出し、痛みや悲しみを引き起こす、非常に大きな力が存在している。
絆を強めなければならない。

3節
命を産み出す力が、今日神の恵みを通して、私たちのうちに働いている。
愛を分かち合い、力をあわせて働くようにと、
神は私たちを招いておられる。

このような歌詞です。この「新しい時」とはイエス様が地上に来られて私たちの人生を暗闇から救い出して下さり、新しく私たちを創造してくださった時です。それは2000年前の時であり、一人ひとりにとっては神さまに従って生きていこうと決心して聖霊が与えられた時です。

この歌詞には「福音を伝えよう」という言葉はありませんが、内容的には福音に生きることが書かれています。「あなたがとても大事なのです」というメッセージが心に響いてきます。日本語の歌詞では「みんなで手と手つなぎあって、いま共に輪をつくろう。」という繰返しの言葉にそのことが表されています。

キリストの愛が駆り立てる

キリストの愛が私たちを駆り立てています。キリスト者は本来の与えられることに感謝する生き方を取り戻して、人や生き物や地球と共に生きていきたいと思います。そして神さまを畏れつつキリストの福音を多くの人に伝える働きを担わせていただきたいと思います。