聖書 レビ記25章10~18節、コリントの信徒への手紙二 6章1~13節
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(2コリ6:2)
創立40周年記念礼拝に向けて
来週は創立40周年記念礼拝と祝会を行います。この1年くらい私は記念誌の編集に携わって土気あすみが丘教会の歩みを、総会資料や役員会資料や季刊誌『風』などを調べ、また教会員の方からのお話を聞かせていただいて、まとめる作業をおこないましたが、本当に大変な40年間であったことがわかりました。教会はオウム真理教事件や旧統一教会がらみの事件や新型コロナウイルス感染症などの外的な苦難と教会内部で起きてしまった内的な苦難との両方の苦難を受けながら、祈りと恵みに感謝することを通して信仰を強めていただき、またその都度、助け手が現れて危機を乗り越えて、今日までこの地で豊かな交わりを築き、御言葉を宣べ伝える働きを続けてきました。
神からいただいた恵み
先ほど私たちが耳にしたコリントの信徒への手紙二には「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」というパウロの勧めがありました。私たちは40年の歩みを神の恵みと受け止めているわけですが、その恵みの源泉に思いめぐらせたいと思います。
5章の終わりにその恵みのことが書かれています。先週は5章6節から17節の御言葉を聞きました。そこには「キリストの愛が〔車のエンジンのように〕私たちを駆り立てていて、私たちは無償の愛の交わりの中に招かれて、キリストを証しするように向けられる」ということが記されていました。
その個所と本日の箇所との間に5章18節から21節の御言葉があります。ここにパウロは大いなる恵みについて書いています。特に21節にその恵みが端的に示されています。
5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
神は罪を犯さなかったイエス様を私たちのために罪人とし、イエス様が十字架にかかって死なれることによって、私たちは罪を犯す存在でありながら神の義をいただきました。つまり神の目に正しい人とされました。私たちがどんなに努力しても得ることのできない神の義を無償でいただいたのです。これが「神からいただいた恵み」です。
私は最初の方で、「教会は苦難を受けたときに助け手が現れて危機を乗り越えてきた」ということを申しましたけれども、その一番の助け手は十字架で無残に死なれたイエス様なのです。イエス様は三日目によみがえり天に上られました。そして天の聖所で今も私たちを執り成してくださっています。父なる神に願って私たちに聖霊の神を遣わしてくださいます。
恵みを無駄にしないとは
ですからパウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と私たちに勧めるのです。パウロはこのことを旧約聖書のイザヤ書を引用して私たちを説得します。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」というイザヤ書49章8節の言葉です。
「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」です。人はパウロのように復活のイエス様に出会って大きな恵みを受けたことを霊的に体験することができます。私たちの魂に復活のイエス様、キリストが来てくださり、「あなたに代わって私が死んだからあなたは生きなさい」とおっしゃってくださるのです。今もまた、パウロの手紙を通してキリストが私たちにこのことを伝えておられます。
私たちは失敗を繰り返す存在ですし、他者を嫌いになったり呪ったりしてしまう存在です。しかしそのような存在であってもイエス様は私たちを貴重な存在として、かけがえのない存在として、ご自分の命によって私たちを生かしてくださるのです。「今」が恵みの時です。救いの日です。
主なる神は50年毎のヨベルの年を示してくださいました。その年には土地も人も解放されます。その年には失っていた土地が無条件で戻ってきます。この旧約聖書に記されているヨベルの年は現代では領土問題の解決の大きなよりどころとなるものです。土地は人間のものと勘違いするから自分のものにしようとするよこしまな考えに囚われます。人も支配したいと考えるから支配者が現れます。旧約ではヨベルの年が恵みの年であったと言えるでしょう。しかしイエス様が来られてからは「今」が恵みの時です。イエス様に従いたいと願うならば「今すぐに」恵みを得ることができるし、それを用いることができます。
安価な恵みと高価な恵み
ボンヘッファーという名のドイツ人牧師がいました。ボンヘッファーはヒトラーの人権侵害や戦争に反対して処刑された人です。この人の『キリストに従う』という本の中に<安価な恵みと高価な恵み>という題の文章があります。
安価な恵みとは、平易に表現すれば「救われて罪が無くなった、良かった良かった」、と考えるような恵みです。そのような恵みであればその人は生き方を変えることがなく、本当の安らぎや満足を得ることができません。高価な恵みは「イエス・キリストに対する服従へと招く恵み」です。
パウロはこのことを3節から10節まで自分自身の苦難を通して示しています。この箇所にはパウロの人生において遭遇した苦難の数々か書かれています。そして、それにもかかわらずパウロが高価な恵みの内にいたことが証しされています。パウロは「神に仕える者」としてイエス・キリストに服従していました。パウロはイエス様が言われた言葉「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というマタイ福音書の最後に記されている言葉を忠実に実行しました。そのために私たちの想像をはるかに超える苦難を受けましたが、「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって」(6,7節)神の掟を守りつつ「どんな事にも人に罪の機会を与えず」(3節)、キリストを宣べ伝えました。
パウロは自分たちのことを次のように言います。8節から10節を別の訳でお読みします。「私たちは人を惑わす者でいて、同時に真実な者であり、人に知られていない者でいて、同時に認められた者であり、死んでいる者でいて、同時に、見よ、生きており、懲らしめられる者でいて、同時に殺されることのない者であり、悲しんでいる者でいて、しかし常に喜んでいる者であり、貧しい者でいて、しかし多くの人を富ませる者であり、何も持たない者でいて、同時にすべてを持っている者である」(岩波新訳)。
このような言葉です。それぞれ2つの相反することがパウロには同時に起きている、ということを表しています。
「悲しんでいる者でいて、しかし常に喜んでいる者」というのは、マタイ福音書にあるイエス様の山上の説教「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)を思い起こさせます。
「貧しい者でいて、しかし多くの人を富ませる者」というのはルカ福音書のイエス様の言葉「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)を思い起こさせます。
さらに「何も持たない者でいて、同時にすべてを持っている者」というのは神殿の境内で足の不自由な人をいやしたペトロの言葉「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録3:6)を思い起こさせます。
パウロの言葉をじっくりと味わうならばパウロが平安を得ていたこと、そして自由であったことがわかります。私たちが生きていくうえで本当に必要な高価な恵みをパウロは得ていたのです。
しかし、私たちは思います、「パウロだからできたのであって、私にはキリストに倣うなんて無理だ」と。私たちは不完全であり、欲望の渦巻く罪の世の中に生きていますから、<キリストへの服従>や<キリストに倣うこと>は不可能だと考えてしまいがちです。
確かに私たちの力や努力でそのようにすることは不可能です。ですから、そのような私たちのために、キリストは十字架にお架かりになりました。そして無償の愛をもって私たちと関係を持ってくださいます。神が私たちより先に無償の愛を示してくださいました。それは主の御苦しみであり、十字架の死でした。しかもそれにとどまらずに、よみがえられて私たちに信じる力と希望を与えてくださいました。
今こそ恵みの時
私たちは本日与えられた御言葉を通して、神からいただいた恵みを無駄にしているのではないかと顧みる時を与えられました。コリントの信徒たちだけが恵みを無駄にしていたわけではなく、私たち自身にもそのようなことが起きる可能性があります。もし私たちが<安価な恵み>を受けて、洗礼前の生き方に戻って人生を送っているのであれば、今こそ恵みを受けて、新しく創造された者として人生を歩み始めなければなりません。
神は今日、「わたしの恵みを間違わずに受け取るように」と告げています。私たちは<今>この言葉を聞きました。今こそ恵みの時です。私たちが古い生き方に戻っていたなら、今こそ新しい生き方を始めましょう。いつでもできると思ってはいつまでも新しい生き方は始められません。今こそ高価な恵みを受け取り、霊の結ぶ実りを得たいと思います。