聖書 エゼキエル書2章1~5節、コリントの信徒への手紙二・12章2~10節
「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリ12:9より)
信仰に堅く立つ生き方を考える
先週は教会創立40周年記念礼拝をおこないました。40年は出エジプトの民が荒れ野を旅した期間で、聖書的には大きな意味を持っています。記念礼拝で主なる神は木下宣世牧師の口を通して、土気あすみが丘教会が福音に堅く立って歩みを続けるようにという御言葉を与えてくださいました。
今日(こんにち)の私たちが「福音に堅く立つ」というのはどのような生き方なのでしょうか。本日はエゼキエル書2章1から5節の預言者エゼキエルが主なる神から預言者として呼ばれた召命の出来事と、コリントの信徒への手紙第二の12章2から10節のパウロの「大いに喜んで自分の弱さを誇る」という言葉が与えられました。この御言葉を通して福音に堅く立つ生き方について御言葉に聞いてまいりたいと思います。
奇跡を語るパウロの思い
コリントの信徒への手紙は約2000年前にギリシアのコリント市の信徒たちに向けて書かれた手紙です。この手紙ではコリントの教会に入り込んだパウロの反対者たちに対して、キリストにつながるパウロの誇りが語られています。「キリストにつながる」というのは「福音に堅く立つ」ということです。
12章2節から6節前半まででパウロは「キリストに結ばれていたひとりの人」という書き方で自分に起きた奇跡を語っています。それはパウロが第3の天まで引き上げられたという経験でした。天はいくつかに分かれていると聖書は教えています。イザヤ書6章3節にセラフィム達が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。」と「聖なる」を3回呼び交わすことが書かれています。これは自分のいる天での言葉とその下と上の天にいるセラフィムへの言葉の3つなのだと言われています。パウロはその第3の天まで引き上げられるという奇跡を体験したのです。そこは楽園、パラダイスであったとパウロは記しています。
パウロが自分の崇高な経験を明かしたのには理由があります。12章11節に「あの大使徒たち」という言葉があります。この人たちはエルサレム教会から来た人たちでパウロの教えとは異なる教えを伝えていた人たちだったと考えられます。第1の手紙の7章19節に「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ること」というパウロの言葉が記されていますが、この言葉からわかるように、エルサレム教会から来た大使徒たちは人々に「割礼はキリスト者の条件」であることを教えていたと思われます。これは、神の救いにあずかるのは行いによってか、それとも信仰のみかという問題です。パウロは主イエス・キリストを救い主と信じる信仰だけで良いという「信仰のみ」を教えたのですが、その教えの権威をコリントの信徒たちに示さなければならない状況になってしまいました。これが、パウロに崇高な経験を明かすように促した理由でした。
恵みはあなたに満ちている
しかしパウロは自分の崇高な経験によって高慢にならないようにと、パウロの身体にサタンの使いから一つのとげが与えられたことを告白しています。パウロはその使いを離れさせてくださいと何度も願いました。キリストを宣べ伝えることにおいて体にとげがあるということは大きな不利であると思えます。そのとげさえなければ大胆に力強く宣教できるに違いありません。パウロもそう考えたのです。だから彼は主に祈りました。「三度主に願った」という言葉は「何度も主に願った」という意味です。パウロはどれだけそのとげに苦しんだかということを思わされます。
その時に主が言われた言葉は衝撃的なものでした。主はパウロの信仰に報いてパウロの願いを聞き入れたのではなく、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われたのです。
身体に一つのとげがあってキリストを宣べ伝えることの障害になっているとパウロは考えていたし、実際彼はそのとげのために苦しんでいたことでしょう。パウロにしてみればそのとげさえなければもっと力強く、大胆にキリストを宣べ伝えることができると思っていたことでしょう。
しかし主は体にとげを持つパウロに対して「私の恵みはあなたに満ちている」と告げたのです。これはパウロにとって大転換でありました。パウロは宣教や豊かな愛の交わりのために不足しているものがあると考えていた。その一番大きなものは体のとげであると考えていた。しかし主はパウロに「恵みは満ちている」ことを悟らせたのです。
さらに主は「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と告げました。この言葉は「力は弱さにおいて完全になるのだ」という意味でもあります。ここに私たちが考える「完全」というイメージと神の「完全」との違いが表われています。
パウロはこの主の言葉によって主の恵みの豊かさを知ったのです。家柄や高等教育や、地位や名誉や財産や健康によって主の恵みが十分であるということではないのです。すでに主の恵みはパウロに十分でありました。パウロはそのことに気づくことが必要だったのです。パウロはこの主の言葉を聞いて目が開けました。「力は弱さにおいて完全になる」のです。パウロの力ではありません。キリストの力がパウロを通して現れるのです。
預言者エゼキエルのこと
先ほど私たちは旧約聖書の預言者エゼキエルの召命の記事を聞きました。エゼキエルが召命を受けたのは捕囚の民としてバビロンに連れて行かれた後でした。彼は若者で何の力も持っていませんでした。エゼキエルは国が滅びるのを目の当たりにし、荒れ地を開墾するためにバビロンに連れて来られて意気消沈していました。その彼に主は「自分の足で立て」と言葉を発せられました。そして霊がエゼキエルの中に入りエゼキエルを立たせたのです。「立つ」という言葉は「よみがえる」ことを意味します。主はエゼキエルを捕囚の民に遣わし預言を語る者とされました。「なんの業績もない者の言葉を人々は聞くだろうか」とエゼキエルは思ったことでしょう。しかし主は「彼らが聞き入れようと、また、拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」と告げました。
エゼキエルは若者だからこその弱さを持っていました。何の実績もない若者の言葉に耳を傾ける者がいるとは思われません。自分のようなものには何もできない、と思ったことでしょう。しかしエゼキエルは主の圧倒的な力強さに自分を委ねました。
そして彼は主の言葉を伝え続けました。それはユダヤが回復されるという主の言葉でした。ただ単に回復されるのではありません。人々がバビロンに暮らしながらも主を礼拝し続けるということにおいてユダヤは回復されることを告げ知らせました。70年という期間は人々の希望を打ち砕くのに十分な期間であったことでしょうが、人々は預言者の言葉に支えられて希望を持ち続けました。
再びパウロ
再びパウロの手紙に戻ります。キリストの力が、弱いわたしたちを通して現れるのです。自分の強さや他者に対する優位を誇ろうとしても、上には上がいます。人間の強さなんて相対的なものにすぎません。しかし神の強さは絶対です。人間の誰も神の強さに勝つことはできません。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです(Ⅰコリ1:25)。
だからパウロは「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と私たちに勧めています。私たちは自分のとげを取り去ってもらうことを願うのではなくキリストの力がわたしの内に宿るように祈りましょう。そうすれば主の恵みは私たちに十分であり、私たちは主の恵みに満たされていることに目を開かされます。
パウロは10節で「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」と告白しています。「満足しています」という言葉はギリシア語原典では「喜んでいます」という言葉です。
イエス様のことを思い出してください。イエス様こそが、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にありました。それはパウロの弱さ以上の弱さでした。貧しさと不衛生の中で生まれ、父親が誰だかわからないと陰口を言われながら育ち、教育を受けず、公生涯に入ってからは放浪を続けて福音を語って救いの奇跡をおこない続けました。しかしそのことを当時の支配層から咎められ、無実であるにもかかわらずひと言も弁明せず、黙って十字架の死刑判決を受けて、支えてくれるはずの人々からも排除されて死なれました。父なる神も沈黙したままでした。パウロはそのイエス様、キリストを見ています。そしてどのような弱い状態にあっても喜んでいます。
あなたの恵みは私に十分です
これこそが「福音に堅く立つ」生き方です。パウロが喜ぶことができたのはイエス様が自分のために死なれたことを信じ、また復活のキリストがいつもパウロと共にいてパウロの弱さを通して神の力を表していてくださることを信じていたからです。私たちにもこの生き方ができますし、この生き方以外に喜びの生き方はありません。私たちは困難のない世界を願うのではなく、この現実の世界において困難の中にあって福音に堅く立って生きていきましょう。それはキリストの苦しみの故の喜びなのです。主の力は私たちの弱さの中で発揮されます。
私たちは主に対して「あなたの恵みは私に十分です」という応答を以て神を讃えつつ、喜びの日々を送ってまいりましょう。