7月14日講壇交換礼拝(西千葉教会での説教)「御国の保証」

聖書:エフェソの信徒への手紙1章3~14節

「聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証であり、こうして、私たちは神のものとして贖われ、神の栄光をほめたたえることになるのです。」(14節、聖書協会共同訳)

主なる神を礼拝する民

本日はエフェソの信徒への手紙1章3節から14節の御言葉が与えられました。この箇所は父・子・聖霊の神と私たちとの関係が簡潔に語られています。神がキリストにあって私たちを選ばれたのは、6節にありますように「神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためである」と示されていて、私たちは神を礼拝することのためにキリスト者になったことが明らかにされています。

この言葉は詩編102編19節の「このことは後の世代のために書き記されるべきです。新たに創造される民は主を賛美するでしょう。」の言葉を思い起こさせます。詩編102編において、「新たに創造される民」が「主を賛美するようになる」ことが歌われています。

私たちキリスト者は<主イエス・キリストの父なる神>がキリストにあって天上で、あらゆる霊の祝福をもって祝福してくださった者であります。私たちが神によって選ばれたということについて神は2つのことを私たちに告げています。ひとつはイザヤ書41章9節に代表されるもので、「あなたは私の僕。私はあなたを選び、拒まなかった」という祝福です。もう一つはアモス書3章2節に代表されるもので「選びの故に、わたしはあなたをすべての罪のゆえに罰する」という裁きです。ですから決してキリスト者となったことは特権でも何でもなくて、「主を賛美する者」となったということであり、選ばれた人々はこのことに感謝して神を讃えるのです。

主なる神のすべてを引き継ぐ養子としての神の子

私たちの主イエス・キリストの父なる神は御子により私たちを神のものとしてくださり、神のすべての財産を受け継ぐ養子としてくださいました。5節に「ご自分の子」という言葉がありますが、これは実子のことではなく養子のことです。私たちは神に造られた者でありながら、イエス様の贖いによって神の養子としていただいたのです。6節に「それは、神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためです。」とありますように、礼拝は私たちが神の子としてイエス様と父なる神との交わりに与る恵みです。

7節に書かれているように、「イエス様はご自分の血、すなわち命によって、私たちの罪をご自分の身に受けて私たちを罪から解放して下さいました」。そのことによって私たちは罪の内にある者でありながら、神の無償の愛の内に聖なる者、傷のない者とさせていただきました。

8節から10節に「神は、この恵みを私たちの上に溢れさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御心の秘義を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってご自身でお決めになっていた御心によるものであって、時が満ちるというご計画のためです。それは、天にあるものも地にあるものも、あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられることです。」と証しされています。

「御心の秘儀」とは神が人間を愛しており、その愛の故に御子の命によって私たちを贖ってくださったことであり、そのことを私たちは聖書を通してキリストの復活の出来事の中に見るのです。時が満ちればこの世界のすべてのものがキリストのもとにひとつになります。

11節と12節に「キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。それは、キリストに以前から希望を抱いている私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」と書かれていて、私たちキリスト者が神のご計画によって神の栄光をほめたたえるために選び出されたことが再度示されています。

13節に「あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。」と書かれています。聖霊は私たちが神の養子とされ、父なる神と御子との愛の交わりに招き入れられたことの印を私たちに与えてくださいました。聖霊は私たちが受け継ぐべきものの保証です(14節)。神は私たちを養子としてくださったので、私たちは神がお持ちのものをすべて受け継ぐ権利を受けました。それはあまりにも偉大なことです。私たちの感覚からすると、現実の中でいろいろな困難に出遭いながら必死に生きているのであって、神の養子にしていただいたという実感はありません。しかしすでに神は聖霊によって私たちに受け継がせてくださいました。新共同訳では「御国を受け継ぐための保証」と訳されていました。これは意訳なのですが、私たちは神の国を受け継ぐ権利をいただいたのです。なんと大きな賜物でしょうか。

イエス様はマルコによる福音書10章で律法をすべて守っているという人に「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(10:24~25)と言われて、行いによって御国を受け継ぐことはできないことをお示しになりました。

イエス様の命によって贖われたことを覚え、悔い改めることによる他は御国を受け継ぐことはできないのです。もし人がイエス様の十字架の贖いを信じて悔い改めるならば、その人は天地創造の前から神が養子としてくださるように選ばれた人です。

キリストが祈って執り成しておられる

礼拝とは神がその愛する御子によって与えてくださった恵みの栄光を、私たちがほめたたえるためであることを知りました。そうすると人は懸命に努力して、神に認められる礼拝を捧げなければならないのでしょうか。一生懸命に祈る、讃美歌を歌って主を賛美する、説教を聞き逃さないように緊張して聞くといった努力はエフェソ書が語る「恵みの栄光を、私たちがほめたたえる」というものでしょうか。少しこのことを考えてみたいと思います。

ある神学者(ジェームス・トーランス)は主イエス・キリストのお働きを「人間が罪によって堕落したために実現されていない礼拝を回復された」と語っています。イエス様は礼拝と無償の愛による交わりを実現するために私たちのところに来られました。そして復活して天に上られてからは、天の聖所で大祭司として私たちのために執り成しておられます。これはとても不思議なことですが、神は賛美を受けるお方であるだけでなく、私たちと共に賛美をささげるお方でもあるのです。三位一体の神はご自身の愛の交わりのうちに完全であられますから、賛美されるお方であり、賛美するお方でもあるのです。

礼拝において私たちは「祈りが足りない」とか、「賛美の声が小さい」とか、「説教を聞き逃してはいけない」という、いわば強迫観念にとらわれる必要はありません。キリストが私たちのために執り成しておられることに感謝して、恵みを受け取り、生きる力を頂いて、この世へと出てゆくのです。私たちも一人ひとりが他者と関係なく神を礼拝しているのではなく、一緒に礼拝し、キリストの与えてくださった恵みの栄光を讃えたいと思います。そして一緒に御国を受け継ぎ、そこに入っていきたいと思います。

キリストにより豊かにされる礼拝

キリストこそが私たちのささげる礼拝の大祭司です。私たちが信仰を持つことができるのも、礼拝によって生きる力を受けることができるのも、キリストが天のまことの聖所で私たちのために祈っていてくださるからです。

私たちは福音を聞いて信じ、信仰共同体(神の民)として共に御国に向かって進んでいます。その旅は平坦な楽しいものとは限りませんが、神の民である私たちは父・子・聖霊の神の交わりに招き入れられて豊かな愛の交わりの中にいます。聖霊は私たちにこのことの印を与えてくださいました。私たちには神の秘められた御計画に従って受け継ぐ御国が保証されていいます。

私たちはキリストが現在も執り成しておられる祈りによって礼拝を豊かにすることができることを思い、感謝して、その恵みを受けたいと思います。

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