7月28日礼拝説教「キリストの愛に根差す」

聖書 列王記下4章42~44節、エフェソの信徒への手紙3章14~21節

「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソの信徒への手紙3章17節)

当たり前のことを見直す勧め

私は5年位前に左ひざが痛むようになりました。いよいよ関節が痛みだす年になったのかと思いながらもなんとか自力で痛みを治そうとしました。幸いなことに痛みはひどくなりませんでしたので、歩き方をいろいろ試していました。あるときインターネットの動画を見つけて、その動画の説明のように歩き方を変えてみたところ半年ほどで痛みが減って来て、いまではほとんど痛みがなくなりました。歩くというのは立ち上がるようになってからずっとやってきたことなのに、次第に体の使い方が悪くなってきて膝に痛みを覚えるようになったのだということに気づいて私は驚きました。歩くというのは毎日おこなっていることなのに、知らず知らずのうちに前後左右の体重の移動が不自然になっていたのです。

『牧師室から』には食事のことを書きました。食事も同じです。私たちは毎日、食事をしているのですが、食べる物に気を使っていないと栄養が偏ってしまいます。ある番組で脚気という病気のことが紹介されていましたが、ビタミンB1は体の中で作ることができないし、水溶性なので体から排出されてしまうので、ビタミンB1を含む食品を食べないでいると心不全による足のむくみや神経障害による足のしびれが起きる脚気になるのだそうです。

今日は礼拝の後に「礼拝について」をテーマに教会懇談会が開かれます。私たちは毎週日曜日の午前中に教会堂やパソコンの前に集まり礼拝しています。ですから今さら礼拝について何を話すのだろうかと思われるかもしれません。しかし礼拝も同じで、礼拝の意味や礼拝のなかで行われていること一つひとつの意味を確認して正しい礼拝をおこなわないと神さまからの恵みを受け取り損ねることになってしまいます。

礼拝とはなにかを考える

今日はエフェソの信徒への手紙3章14節から21節が与えられました。14節に「わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」という言葉が書かれています。これは礼拝を意味しています。「御父」とは15節に書かれている「天と地にあるすべての家族にその名を与えたお方」です。家族とは血統とか種族という意味です。「名前を与える」とはどういうことでしょうか。私たちは親から名前をつけてもらいました。私は「よしろう」という名前です。両親からこの名前に込められた思いを聞くこともありました。つまり名前を付けるというのは名づけられた人を守り導く人がすることです。すべての血統や種族に名前をつけた主イエス・キリストの父はすべての人を守り導くお方なのです。もちろんキリスト者は聖書に書かれていることから私たちをお造りになられたのは父なる神であることを信じていますが、お造りになられただけでなく守り導いてくださる存在です。この手紙を書いたパウロはその父を礼拝すると書いています。

16節から19節にはパウロの祈りの言葉が書かれています。パウロはエフェソの信徒のために父なる神に祈っています。パウロの祈りを私たちの祈りに変えて箇条書きにしてみます。正式な表現は今皆さんのお手元にある新共同訳の聖書に書かれている言葉ですが表現をやさしくしてお伝えいたします。

1番目、御父が、その輝かしさを十分に発揮して、霊による力で、私たちの内なる人を強めてくださいますように。(16節)

「内なる人を強める」とは他者と比べて力が強くなるとか能力が勝るということではなく、人生にどのようなことが起きようとも動じないようになることです。これは聖書の御言葉を通してキリストに信頼することによって得られます。

2番目、御父が、信頼して歩みを起こす私たちの心にキリストを住まわせてくださるように。(17a節)

ですから私たちの心の内にキリストがお住まいにならなければなりません。そこで父なる神と御子イエス・キリストは私たちに聖霊を降して下さり、キリストといつも一緒に居られるようにしてくださいました。私たちはぶどうの枝でぶどうの木に譬えられるキリスト・イエス様とつながっていて生きるための養分をいただいています。

3番目、私たちが人を大切にする思いに根ざして、しっかりと立てるようになりますように。(17b節)

4番目、すべての「聖なる者」たちとともに私たちが、御父の思いの広さと奥行きと高さと深さがどれほどであるかを理解できるようになるように。(18節)

5番目、想像をはるかに超えてキリストが人を大切にしておられることを、身をもって知るようになりますように。(19a節)

6番目、神の内に満ちているものすべてに、私たちが満たされるまでになりますように。(19b節)

キリストが共に祈っておられる

これら6項目の一つひとつはこと細かに説明しなくても分かることではないかと思いますので、全体でどのようなことを父なる神に祈っているかを見てみたいと思います。

まず、すべてのことは御父によって与えられることを信じることが前提になっています。これを信じないことには礼拝の祈りも成り立ちません。先ほど読まれた旧約聖書の列王記下4章42節から44節には預言者エリシャが召使いにパンと大麦パン二十個と新しい穀物を100人の人々に与えて食べさせるように命じますが、召使いは食べ物が少ないことをエリシャに告げました。そこでエリシャが告げた言葉は「主は言われる」あるいは「主の言葉」というものでした。神に信頼するということは主の言葉に信頼するということであり、それは御父を信頼することです。この信頼がなければ私たちは礼拝することも祈ることもできないことを改めて確認したいと思うのです。

次に、キリスト・イエス様が聖霊を通して私たちとつながっているということです。パウロはそのことを「私たちの心にキリストを住まわせてくださるように」と祈っています。キリストは天に上られて天のまことの聖所で私たちを御父に執り成しておられます。これは大祭司としてのキリストのお働きであり、ヘブライ人への手紙にはこのことが明らかに記されています。キリストは地上に来られて私たちの罪の贖いをなさった後に、復活のからだを伴って天に上られ、御父が神に逆らう諸霊をキリストの足台とするまで私たちのために祈り、私たちの祈りを執り成してくださっておられます。

礼拝の中心は私たちではありません。私たちが献げる賛美や祈りが貧弱であったり、不完全であったとしてもキリストは私たちの賛美や祈りを受けて執り成してくださりそれらを完全なものとして御父にささげてくださいます。(ヘブ4:14)。そして聖霊によって私たちに神の言葉を届けてくださいます(エフェ1:13)。キリストは大祭司であり、私たちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせてくださいます(ヘブ9:11-15)。これらのことはヘブライ人への手紙に記されています。

私たちが礼拝する父・子・聖霊の神は讃えられるお方というだけではありません。神は完全ですから神ご自身の内に互いに讃えるお方として完全な愛の交わりのうちにおられます。その愛があふれ出て私たちは神を賛美する者として造られました(詩102:19、エフェ1:6)。イエス様に信頼して祈り、賛美し、御言葉を聞き、聖餐に与るならば、礼拝は豊かにされます。私たちは完ぺきな礼拝というものを夢想しますが、それは行いによる義をもとめることに向かっているという危険性に気づかなければなりません。

何よりもイエス様が共に祈っておられることに信頼して礼拝することが大切であります。そうすれば気づきが与えられます。神の言葉が聞こえてくるでしょう。その言葉に感謝の賛美を献げるのです。礼拝によってキリスト・イエス様の執り成しを受けて罪赦されたことを覚え、御言葉の糧、すなわち命の栄養をいただき、喜びに満ちてこの礼拝堂から世に出ていくことができます。

私たちの礼拝

これが私たちの礼拝です。ここに集まり、パソコンの前に集まっている人たちだけが礼拝しているのではありません。復活のイエス様、キリストが私たちを愛して、天の聖所で礼拝しておられます。ておられます。私たちはキリストと共に礼拝し、キリストの執り成しによって、私たちの努力を遥かに超えた大きな恵みを受けることができます。