8月4日礼拝説教「信仰は一つ」

聖書 出エジプト記16章2~4、9~12節、エフェソの信徒への手紙4章1~16節

今日は平和を願う聖日

パリでオリンピックが開かれており競技に沸いています。寝不足の方もおられるのではないかと思います。オリンピックの精神は「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること」です。ルールに則って競技をする選手たちを応援したいと思います。そしてオリンピックを通して「平和でよりよい世界の実現に貢献する」という目的が達成されることを願わずにはおられません。

キリスト者の生活

私たちはエフェソの信徒への手紙を読み進めています、先週の礼拝では3章後半の御言葉が与えられて、私たちは主なる神に招かれて天上の主イエス・キリストと一緒に礼拝していることを知りました。イエス様は父の言葉を私たちに届け、私たちの不完全な祈りや賛美を完全なものとして父に届けてくださっています。

本日は4章1節から16節が与えられました。そしてそれに関連する旧約聖書として出エジプト記16章が与えられました。

エフェソの信徒への手紙には私たちキリスト者の生活についてパウロの勧めが記されています。パウロは1節で私たちに「私たちは神から招かれた」と語ります。その後に続くキリスト者の生活に関するパウロの勧告はこの言葉に基礎が置かれています。パウロは神から招かれたんだからその招きに相応しく歩こうと勧めているのです。ここを見逃してしまうと本日の箇所は外見が立派なキリスト者になることの勧めということになってしまいます。

「神から招かれた」というのはどういうことでしょうか。そしてその意味は何でしょうか。エフェソの信徒への手紙のこれまでのところを思い出してみると、「キリスト者は天地創造の前から選ばれており、神は恵みによって私たちキリスト者を信仰によって救ってくださった」とパウロが伝えていたことを思い出します(エフェ1:4、2:8)。私たちはイエス様の命によって贖われ、罪を赦されました。神はイエス様によって私たちを神の養子にして神の財産を受け継ぐ者にしてくださいました。これほど大きな恵みをいただいたのがキリスト者です。このことを感謝してパウロの勧告を聞くならば、勧告の言葉が愛の言葉として聞こえてきます。

16節が最終の目指すべき姿です。パウロは「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」と語ります。

この体とは地上におけるキリスト者の共同体です。この教会の信徒だけでなく、全世界の信徒がしっかり組み合わされ、結び合わされキリストにある共同体が成長していくのです。しかも一人ひとりは無償の愛によって造り上げられるのです。キリストの体は目に見えるものではありません。それは見返りを求めない無償の愛によってつながっています。ちょうど人間の体の各部分が神経や血液でつながっているようにです。

ローマの信徒への手紙には「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ロマ12:4-5)と書かれています。またコリントの信徒への手紙には「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリ12:26)と書かれています。このようにキリスト者はそれぞれ個別の存在でありながら、無償の愛の交換によって一つのキリストの体を形づくっています。

そこでキリストは人にそれぞれ職務を与えられました。一人ひとりに与えられた務めは違います。教会の働きにおける職務は11節にその代表的なものが示されています。主に遣わされていろいろな土地で福音を宣べ伝える使徒、主の言葉を託されて人々に伝える預言者、福音を人々に伝える福音宣教者、この世の旅路を導く牧者、神を教える教師です。その他、使徒言行録によれば。使徒たちは「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」(使徒6:2-3)と言って、教会ごとに長老たちが任命されました(使徒14:23)。この世においても職業に貴いものや卑しいものがあるのではなく、それぞれの役割を担って社会が成り立っています。教会がこの世と違うのは、それぞれの職務の人が見返りの無い愛の交わりで結ばれているという点にあります。これは大きな違いです。

キリスト者はイエス様の十字架の愛を知っている者です。イエス様の苦しみの理由を知っている者です。だから自己実現よりも、主の御心が実現することを求めるのです。それが私たちです。「こうして、私たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆきます。」(4:12)。奉仕はそれが他の人や社会のためのものであっても究極は私たちの主なる神のためですから喜びです。このような無償の愛の交わりと奉仕を通して私たちは「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(4:13)とパウロは告げています。

試練は神の臨在を知るとき

私たちは旧約聖書の出エジプト記の言葉も耳にしました。エジプトで奴隷だった民はエジプトから脱出しましたが、荒れ野で生命の危機に瀕しました。食べ物がなかったのです。民を解放した主なる神は荒れ野で民を滅ぼそうとされているのではないかと人々は思いモーセに不平不満を言いました。しかし主は荒れ野で天のパンと肉によって民を養いました。主が民を荒れ野に送ったのは、このようにして民が主を知るようになるためでした(出16:12)。

無償の愛の交わりや奉仕において試練を受けることがあります。試練を通して主との出会いが求められています。私たちは何の試練もなく過ごせるならどんなにいいだろうと憧れますが、試練がなければ私たちは主を知ることができないし、我がままで争いばかりをする者になるでしょう。

キリスト者は無償の愛の交わりと奉仕によって一つのものとなり、神に似る者へと成長します。愛に根差しキリストに向かって成長します。その元になるのがイエス様への信頼です。イエス様がご自分の命を投げ出して父なる神に執り成してくださったことを知って、そのイエス様に倣う者になろうとすることが私たちをキリストの体へと成長させます。「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神はひとつであって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」(4:5-6)。

今日を主に従って生きる

島崎藤村の『千曲川旅情の歌』の一節に「昨日またかくてあり/今日もまたかくてありなむ/この命何をあくせく/明日をのみ思い煩う」という言葉があります。解説によれば、「ここには、もはや青春のはなやいだ気分はありません。哀愁の想いで千曲川の岸辺に立った藤村は、川の流れに人の世の移り変わりを見、古城に時の流れを見ます。名家だった島崎家の没落を見た藤村は人の世の不安定さ、はかなさを強く感じたことでしょう。それでも人は、生きていかなければなりません。ようやく春めいてきた千曲川の川べりをただ一人歩きながら人生の流転の憂(うれ)いを深くし、「この岸に愁(うれい)を繋ぐ」と、重く静かに生きる決意を固めている」ということだそうです。

一方で人生は明日何が起きるか分からないということも真実です。突然の病気や事故によって急に大変なことになることもあります。明日はどうなるかわかりません。

しかしキリスト者は明日がどうなるかに気を遣うのではなく、キリストに向かって成長することを目指すのです。その生活は病気や事故といった出来事に左右されることはありません。不安がなくなるわけではありませんし、いつも喜んでばかりはいられないかもしれません。しかしいつも無償の愛の交わりとその人ができる奉仕を通してキリストの体の一部であり続けます。私たちにとって一番つらいことは交わりから遠ざけられることです。無償の愛の交わりは父・子・聖霊の神から与えられます。

信仰が私たちをひとつにする

キリスト者の信仰は一つです。父なる神がおられて、子なるイエス様が私たちをお救いになられます。そして聖霊が無償の愛の交わりに私たちを招いてくださいます。もし信仰が私たちの中でからし種一粒くらいの非常に小さな信仰であっても、その信仰が私たちをひとつにします。