8月18日礼拝説教「主にある賢明な心」

聖書 エフェソの信徒への手紙5章15~20節

「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。」(5:15b-16a)

ひとつの体

7月14日の礼拝からエフェソの信徒への手紙に聴いてまいりました。本日は、最後としてエフェソの信徒への手紙5章15節から20節に聞いてまいりたいと思います。

パウロは牢獄にいながらもエフェソの教会の信徒に教会を建て上げることを熱心に伝えました。私たちの身体の各部分が神経や血管でつながって一人の人間としてあるように、一人ひとりが、神の見返りを求めない無償の愛を交換することによって、すなわち互いに愛し合うことによってひとつの体となるのです。私たちキリスト者はイエス様によって無償の愛を戴き、その無償の愛によって生きていることを信じています。

「賢い者」になることを願うということ

本日のエフェソの信徒への手紙の箇所ではパウロは私たちに「愚かな者ではなく賢い者として細かく気を配って日々を送るように」(5:15)と勧告しています。この勧告の言葉は神が私たちを霊的な祝福で満たしてくださり、神の子としてくださったこと(1章)を前提にしています。私たちは神の財産を受け継ぐ者として今あるのです。

このことは私たちの日ごろの考えや行いからでは理解することはできません。洗礼を受けてキリスト者になったというのは罪を犯さない完全無欠の聖人君子になったということではありません。私たちの考えや行いが神の子としてふさわしくないとしても、私たちは神の子とされました。私たちが神の子としてふさわしいから神が私たちを子としてくださったのではなく、ただ神の憐れみによって子としていただいたのです。

パウロが15節で「愚かな者としてではなく賢い者として細かく気を配って歩みなさい。」と勧告する時、パウロは人間の弱さを見てはいません。神の強さや神の決して変わらない導きの確かさを見ています。私たちはパウロと同様に神を見上げて賢い者として細かく気を配って歩むことができるように祈らなければならないし、神の子としてこの願いを祈ることができるのです。

もし私たちが自分の力で賢い者になろうとするならば、外見だけでも完全な人間となることを目指すことになってしまいます。これは偽善です。主なる神の御力(ちから)によってのみ私たちは賢い者になることができます。祈りの大切さはここにあります。主に拠り頼み、憐れみを願うことが許されていることはキリスト者として、とても幸いなことです。

先ほど読まれた列王記上には主なる神がソロモン王に「何事でも願うが良い。あなたに与えよう」(王上3:5)と言われた時に、ソロモン王が「あなたの民を正しく裁き、善と悪とを判断することができるように、このしもべに聞き分ける心をお与えください」(王上3:9)と願ったことが書かれています。主はその願いを喜び、ソロモン王に「あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える」(王上3:12)と言われました。その言葉通りソロモン王は古代イスラエル王国を繁栄に導きました。噂を聞いて訪問したシェバの女王が「お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。」(王上10:7)と讃えたほどにソロモン王は賢明な心を与えられました。ソロモン王は主に祈り、主はその祈りをお聞きになられたのです。これがエフェソの信徒への手紙にあるパウロの勧告、「賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。」(エフェ5:15)という言葉の心です。私たちが努力するだけでは駄目で、祈ることによってはじめて与えられるのです。

賢い者の行動

それでは賢明な心を持った賢い者としての行動をパウロの勧告に聞きたいと思います。

16節に「時をよく用いなさい。」と書かれています。この「時」とは「主なる神の時カイロス」です。カイロスはその時がいつなのかを知ることができません。そしてその時が来たらすぐに行動しなければ神の時は過ぎ去ります。私たちが神の時を待つのには2つのことが必要です。ひとつは忍耐です。なにしろ神の時は私たちの思い通りにはならないからです。もうひとつはその時を逃さずに活かすということです。

皆さんはミヒャエル・エンデの『モモ』という小説をご存知でしょうか。時間泥棒たちが時間を貯金できると言って人間を欺き、人間は時間を節約するようになって、節約すればするほど生活はやせ細って無くなってしまいました。エンデは、生活とは人間の心の中にあるもの、と書いています。心の中にあったものがなくなっていくのです。子どもたちは自分で遊びを考えることはなくなり、与えられた物の動きに合わせて遊ぶようになりました。何だか現代のテレビゲームを思わされます。ゲームを作る人の意志通りに子どもたちがゲームで遊ばされているのです。新しいことを作り出すというのはたくさんの時間が必要ですが、その過程で人は忍耐することや、失敗しても諦めない気持ちや、人と協力することを学びます。「時を良く用いる」とはこれらのことを言っているのではないかと思います。

子どもだけではありません大人も老人も時を良く用いなければなりません。タイムパフォーマンス(時間対効果)という言葉に踊らされて時間を最大限に節約しようとして、よく考えることも試行錯誤することをしなければ、心の中は空っぽになっていきます。明日のことを考えても意味がないと思うようになれば人生を傍観者のように過ごすようになってしまい、やはり心の中は空っぽになっていくでしょう。

キリスト者には祈りの課題が与えられています。それは人からではなく神から与えられるものです。週報内側の中央上段には祈りの課題のいくつかが書かれています。自分のための祈りではなく、他者のための祈りです。この祈りを祈ることや、それぞれの方が地域や日本や世界のために祈ることには忍耐が必要です。いつ祈りが聞き届けられるか分かりませんから。

しかし私たちは主なる神が必ず聞き届けてくださると信じて祈り続けるのです。これは「時を良く用いる」ことの一つの具体的な行動であると思います。

17節にある主の御心は礼拝や家庭での祈りで聖書を読み黙想することで悟らせていただけるでしょう。

18節は原典では「酒に酔わされてはなりません」と受け身で表現されています。酒を飲むことを否定しているのではなく節度を保つことを勧めているのです。しかし、もし少しの酒でも節度を保てないならば飲まないことをお勧めしますし、交わりの中にそのような人がいたら皆が酒を飲まないという選択をしていただきたいと思います。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰの10章でキリスト者はすべてのことが許されているが、すべてを神の栄光のために用いなさいと勧告しています。

もし私たちが酔うのであれば霊に満たされて酔いたいと思います。使徒言行録の聖霊が降る出来事では弟子たちは各国の言葉で主を賛美しました。そしてそれを見ていた人たちは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」(使徒2:13)と言う人もいたと記されています。

この聖霊に満たされた人は「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌い」(19節)ます。そして「わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝する」(20節)ようになります。

祈りによって賢い者へと向かう

主にある賢明な心で賢い者として歩むということは私たちの力では達成できないことを、もう一度確認したいと思います。その上で、そのような者として歩ませてくださいという祈りを主にささげ、そしてパウロの勧告に従って歩みましょう。そうすれば忍耐して「時を良く用いる」ことができるようになりますし、交わりを豊かにすることができます。神の無償の愛の中に入れられて心を満たしていただけます。