8月25日礼拝奨励「わが子らよ、今このとき」

聖書 歴代誌下29章10~11節、コリントの信徒への手紙一・3章10~17節

奨励者 伊藤守正役員

信徒奨励は久しぶりとなりますが今回は自身の聖書日課の中で示された旧約より題材を取らせていただき、また新約からも補完の意味で選んだ箇所を中心に話を進めてまいりたく存じます。
さて簡単に歴代誌の流れを振り返ってみますと歴代誌上の1章~9章まではアダムからダビデまでの系図による歴史であり10章~29章がダビデの治世。歴代誌下の1~9章はソロモンの治世、10章~36章まではレハベアムからバビロニア捕囚までのユダ王国の歴史という内容になっています。バビロニア捕囚が紀元前587~538年とされていますが歴代誌の著述は紀元前300年から250年までの間に書かれたと推定されています。

本日、私がこの歴代誌のどこに注目しているかということを先ず申し上げたいのは当時のユダヤ民族がいかに熱心に神殿復興建設に努力したかが詳細に記述されているということであり、単に建設のみに取り組んでいただけではなく様々な他国からの妨害侵略に備えながらの中での彼らの働きは単なる建築上の労苦を超えたものがあったものと推察されると思われる点にあります。建築上の労苦を超えるものとは何か。これは当時の預言者を通して神様が困難の中を通して試練を乗り越える信仰上の力を与えたからに他ならないものと私は考えております。神様は預言者イザヤを当時のユダ王国で25歳で王位を継いだ(代下29:1)ヒゼキヤに遣わしております。ヒゼキヤは周囲の敵対していた国々への報復をする前に先ず主の宮を整えることに全力を注ぎました。その時の民(レビ人)に言ったことばが歴代誌下29章4節~11節であります。11節の「わが子らよ、今このとき怠けていてはならない。主があなたたちをお選びになったのはあなたたちが御前に出て主に仕え、主に仕える者として香をたくためである。」ヒゼキヤは預言者イザヤの激励によって神への信頼を回復し、エルサレムはアッシリア軍の手に落ちないとの預言に力を得てアッシリア軍は退却した(王下18:17-19:35)のです。ヒゼキヤは周囲への報復の前に先ず主の宮(神殿)を整えることをしたということを先に述べましたが主の宮を整えるということは主の御心に忠実に従うということでありユダの人々も預言者の言葉を謙虚に受け止めて何にもまして主のみ言葉に堅く立ち従う故に恵みが訪れたということではないかと思います。

しかし現実に我々は信仰的に神さまに従うということはその時は頭で分かったつもりでいても生活の場面が変わると主の御心から離れてしまう弱さを持っているために後悔することがあります。しっかりした土台の上に立ち上げる建築物の必要は世間一般の常識になっています。土台の重要性そのことは誰しもが認めることであり否定する人はないでしょう。私はここで現実的な話を少々することになりますが現教会堂は2009年11月に完成し2010年1月31日に献堂式を行いました。2013年10月15日大型台風26号の千葉県通過時に会堂エントランス、男子トイレにおいて雨漏りが確認されそれ以後専門業者に依頼し原因調査・対応に務めてまいりました。その当時の専門業者3社に工事相見積をした際、そのうちの1社が教会堂の基礎部分に設計当時と比較して歪みとかが生じていないか機器調査を行いました。その結果異常は認められず教会の基礎土台は設計図通りしっかりしていることを確認しました。土台基礎が歪むことで土台上部の建築部分にも影響が出る確率が高くなる訳です。土台上部建築に問題なければ雨漏り原因の究明の範囲は狭くなることになります。ちなみに当教会堂の基礎工事は鉄筋コンクリートで一般の木造建築に比べ鉄筋の数も多くかなり強固な土台工事をしております。この教会堂の献堂式の時に当教会が長年お世話になっているある牧師がつぶやいていたことばを私は今も覚えています。「この教会は土台はできた。これからは中身だな」と。

何事も土台は大切であることは誰しも認めるところですがその土台の上にどのような建て方をしていくかはこれまた非常に大切になってくる。しかも信仰というものを形成していく上においてはすべてに深い配慮が必要になるかと思います。新約聖書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一の3章10節には「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。」なお、口語訳聖書259頁(同箇所)を開いてみますと次のように記述されています。「神から賜った恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい」となっております。
また同じコリントの信徒への手紙一の3章16節の言葉も重要な意味を持っていると思います。16節「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とあります。私たちは肉の体を持ちながらも霊を宿すという存在であることが明確に聖書に記されております。神の啓示から現実を見て歩んだ預言者イザヤはもちろんのことヒゼキヤ王時代のユダの民も信仰の在り方を常に注意を払いつつ歩んだ結果、そこで神の栄光を拝することができたというものがあったと思います。そうでなければ困難な信仰の戦いに勝利をとることができたのではないかと思います。私は神様のみ言葉を受け取ってもなかなか現実の生活の中で応用するというか実践の場に生かしきるというか徹底できていないところがあるが神様との約束の祈りの時間にしっかり守り切ることが出来た場合、必ず神様は恵みを以て応えて下さる方であることは経験している。そのような時というのは自己中心的な時間で進めていては神様からの恵みというのは明確であり、神様の御言葉に対して従順に従う神第一の生活を行い切るというか徹底すれば神様は必ず応えて下さることは間違いないことでありそこが厳しいところとも言えます。

わたくしは土気駅の北側に引越して来たのが1990年(平成2年)8月でしたから今年8月で34年になります。JR土気駅からゆっくり歩いて15分くらいのところですが引越当時と比べると周囲の環境は全く変わってきております。引越当時は緑が多く7月でもウグイスの声が聞こえる環境でしたが今は緑はなくなり住宅建設のラッシュになっております。私の家の北側地区に約200区画の住宅が建設中です。既存の住宅地の中に200区画の宅地が出来つつあり建設の槌音が当分止むことはないでしょう。私の南側は建築50年位の家が2件まとめてこの8月に解体されました。この8月は南側のショベルカーの解体音と北側の建築中の槌音で大変な騒音状態に挟まれて過ごしておりました。今は解体の方は終わりましたので静寂さを取り戻しつつあります。今回はこのような周囲の環境に影響されて、つい私の奨励の内容は旧約の歴代誌下から神殿建設そして新約はコリントの信徒への手紙一の手紙から自分が自身が霊的に神の神殿であることの意味をもつがゆえに注意することの必要性を以てつたない話をさせていただきました。

最後に私の好きな御言葉のうちからひとつ紹介させていただきます。
フィリピ人の信徒への手紙1章29節(新362頁)
「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむ  ことも、恵みとして与えられているのです。」
パウロが殉教を目前にした状態の中においてなお、喜びの生活を生き抜く力を持つことができたことが分かる言葉ではないでしょうか。