9月1日礼拝説教「御言葉を行う幸い」

聖書 ヤコブの手紙1章22~27節

「自由をもたらす完全な律法(み言葉)を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(1章25節)

本田庸一に学ぶ

私は8月19日から21日まで日本聖書神学校同窓会が主催した卒業生研修会に参加し、戦前の日本メソジスト教会を創設し初代監督を務めた本田庸一について学びました。本田庸一は明治維新の19年前に生まれ、津軽藩の藩校に学び、維新後に横浜に留学して、1872年(明治5年)に横浜で宣教師ブラウン・バラから洗礼を受けました。その後、弘前に帰り藩校を引き継いだ東奥義塾の塾長に就任しました。彼は第2代青山学院長も務めました。

メソジスト教会の伝統

メソジスト教会は土気あすみが丘教会のルーツです。メソジスト教会を創設した英国のジョン・ウェスレーは18世紀のイギリス国教会の司祭で、その後メソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導しました。メソジストとはウェスレーの信仰覚醒運動を笑いものにした人たちが付けたあだ名のようなものです。メソジストの人たちは祈りや黙想などを毎日規則正しく行っていたからでした。それがウェスレーたちの教会団体の名前になりました。

この信仰覚醒運動でウェスレーは『キリスト者の完全』を唱えました。「完全」とは人間の絶対的な完全を意味する言葉ではありません。キリスト者が恵みによって、また、信仰によって自分のものとすることのできる信仰の状態、すなわちアダムの罪以来すべての人のものとなった罪に傾く性質が、聖霊によってきよめられ、その支配から解放たれた心の状態を言い表すものです。欠点や過誤のないことではなく、その動機において、絶えず神の愛に支配された状態です。メソジスト教会の人たちは『キリスト者の完全』を目ざして、祈りと奉仕を中心に日々の信仰生活を送りました。

「キリスト者の完全」ということ

ヤコブの手紙1章22節に「御言葉を行う人になりなさい」という勧告が書かれています。これをウェスレー流に言えば『キリスト者の完全』になりなさいということになるでしょう。イエス様の救いを信じて洗礼を受けキリスト者になっても御言葉を行わないならば自分を欺いています。キリストを信じて従おうと決心して洗礼を受けた人がその決心に背いているからです。

日本メソジスト教会の本田庸一は『「キリスト教は何ですか」と問う人があれば、最も完全で、最も短かい答えは「キリストである」ということである』と言っています。キリストの教えはキリスト・イエス様そのものだということです。ですからキリスト者とはイエス様の教えに学び、その行いに倣う者です。イエス様はご自身が貧しい者でありながら貧しい人々のために教え、その人々を癒し励ましました。

そして本田庸一は献身を次のように伝えています。

「キリスト教の悟りの道は克己(こっき)献身にある。自分のことを後にしてキリストに従い、自分の意志を後にしてキリストの意志に任(ま)かせる、これがキリストの心を知る道である。献身とは、キリストと事業を共にすることである。およばずながら神と目的を同じにし、神と共に働くことは、献身の秘訣である。」

このように伝えています。これはヤコブの手紙1章22節の「御言葉を行う人になりなさい」と同じだと思います。武士であった本田庸一ですから「悟りの道」という言葉を使ったのでしょうが、「主なる神の御心」と言い換えても良い言葉だと思います。イエス様の救いを信じてイエス様の御後に従いたいと欲する人は、自分の貧しさを知りつつも、他者に手を差しのべるように主によって用いられます。

これはしかし、私たちの能力や努力でできるようになるのではありません。極端な言い方になりますが、人間は無力です。自分が努力すればするだけ「他の人が何もしない、あるいは他の人は努力が足りない」と他の人を批判するようになってしまいます。どれだけ努力しても報いられなければ、自分の能力のなさを嘆いたり、自暴自棄になることがあるでしょう。

主が支え導いてくださるから、私たちの小さな努力が用いられるようになるのです。ですから献身や奉仕は祈りをもって行わなければなりません。

一方で、御言葉を聞くだけで奉仕をしない人は23節、24節にあるように顔を鏡に映して眺めている人に似ています。鏡から離れればどのような顔色や表情だったかを忘れてしまいます。礼拝で過ぎた日々の自分を顧み、罪赦されて、それで良しとして主から離れた生活をするならば、自分がどのような存在であるかを忘れているも同然です。御言葉を聞いても自分が変わることはなく、それまでの神を知らなかった頃の生き方と何も変わりません。そうすると神の恵みを受け取り損ねてしまいます。大きな恵みが与えられているのに、小さな恵みしか受け取っていないということになります。

25節に「自由をもたらす完全な律法」という言葉があります。これは旧約聖書に出てくる律法のことではなく、御言葉のことです。御言葉を一心に見つめて守る人は行う人であり、その行いによって幸いを受うけます。他者に奉仕する人は恵みによって他者から奉仕を受けるからです。これは受けたら返すというギブアンドテイクとは違います。見返りを求めない行いは与えた奉仕以上のものを受け取ることができます。それは目に見えるものだけではなく、相互の信頼、共にある喜び、生きていることの実感など、目には見えないけれどもとても大切なものです。これは私たちが本当は一番必要としているものです。

お金を貯める人の願いは友人を多く持つことやのんびりすることだったりします。しかしお金を貯めなくても生き方を変えれば願いはかなうのです。健康を求める人の願いは長く生きることでしょう。しかし人は必ず死にます。その死が恐ろしいものでないことを知る方が楽な生き方ができるでしょう。他にもいろいろあります。私たちが求めているもので一番必要としているものは自分で手に入れることができないものであることを知れば、生き方は変わります。

十戒は生き方のガイドライン

先ほどは申命記も読まれました。申命記4章はモーセが神から十戒を与えていただくにあたり、エジプトで奴隷だった人々に十戒を受ける意味を語ったところです。十戒には人がしてはならないことやすべきことが書かれています。つまり私たちが神と共にどう生きるかが示されています。そこには行いが書かれています。イエス様は行いはどうでもよいとは言われません。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と言われました。

行いは私たちが救われるための条件ではありませんが、イエス様に救われた者が、そのことに感謝しておこなう奉仕です。

御言葉を行う

自由をもたらす完全な律法である「み言葉」を心に留めていれば、御言葉を行う人になります。御言葉には私たちを変える力があります。しかしその力を信じなければ、自分を欺いて聞くだけの者になってしまうでしょう。

私たち自身は強い者ではなく弱い者です。弱い者は他の人を助けることなどできない、自分のことだけで精いっぱいだと思ってしまいます。しかしイエス様は弱い者が弱い者を助けることを望まれています。そしてイエス様は天の聖所で私たちの罪を執り成しておられるだけではなく、私たちが良い業をおこなうように祈っていてくださいます。そのイエス様の祈りに支えられて、良い業を行うことができるように祈り、奉仕を続けたいと思います。