聖書 イザヤ書35章4~6節、ヤコブの手紙2章1~10節
もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。(ヤコブ2:8-9)
人を外見で判断すること
人は初対面の人を知ろうとすると、身につけているものや立ち居振る舞いといった外見的なことで知るしかありません。営業の人は身だしなみに気を遣うと聞いたことがあります。初対面の相手に良い印象を持ってもらうには身だしなみを整えることは大切です。
一方で、昔、あるテレビ番組で有名作家が銀座のクラブに行く時の身なりについて話をしていました。接客する人たちは身につけている服や装飾品でお客を格付けするので、丁寧に扱ってもらうためには高級なものや高価なものを身につける、というような話をしていました。私はその話を聞いていて、そのような世界があるのかと思ったものでした。きっとそういう場所ではありのままの姿で楽しむということはできないのでしょう。見栄を張ってまで高級な接待を受けるような世界にいるよりはありのままの姿でいられる世界にいる方がどれだけ良いだろうかと思います。
先ほど読まれたヤコブの手紙には受付係と思われる人が初対面の二人の人物に対して外見によって対応を変えたというお話が書かれていました。私たちの教会の受付をする方々にこのような極端な対応をする人はいないでしょう。どのような人が来ても同じ対応をしています。だからといって今日の使徒ヤコブの勧告は私たちには関係ないということではありません。
「分け隔てること」の重大な問題
ヤコブは1節で「分け隔てをしてはならない。」と勧告しています。これはどのような状況においても分け隔てをしてはならないということです。「分ける」ということは緊張や分裂や争いを招きます。政治的には国の指導者が人々を敵と味方に分けることによって国民の不満を逸らすということが行われてきました。ナチスドイツがドイツ民族の優位性を宣伝し、ユダヤ人を民衆の敵としたのは有名なことです。旧大日本帝国では日本人の優位性が強調され、領土や植民地拡大を目指して太平洋戦争へと突き進んでしまいました。現代でもロシアやイスラエルでは敵を作ることで戦争を正当化しています。国家レベルだけでなく学校や社会での差別やいじめの問題も「分ける」ことで起きていると言えます。自分や自分がいるグループとその他を分けることで差別やいじめが作られていきます。
ヤコブの手紙ではたとえとして金持ちと貧しい人が登場します。金持ちと貧しい人がいることについて聖書はどのように言っているでしょうか。旧約聖書の箴言には「金持ちと貧乏な人が出会う。主はそのどちらも造られた」(箴言22:2)。と書かれています。神はそれぞれの人に役割を与えられたのであって、金持ちは努力して成功したから金持ち、貧しい人は怠けていたから貧しいということではないということです。だれもなりたくて貧しくなった人などいません。人間の目で判断すれば金持ちは成功者、貧しい人は失敗者という判断をしてしまいがちですが、神の目にはすべての人が祝福されています。
旧約聖書のレビ記に「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。」(レビ19:9、23:22)と書かれているように、神は土地や仕事がない人たちが生きることができるようにしておられます。
ヤコブの手紙2章5節には「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。」と書かれています。読み方によれば貧しい人たちの方が金持ちより豊かであると伝えている言葉です。先ほど読まれたイザヤ書35章4節から6節には、見えない人、聞えない人、足の不自由な人、口のきけない人たちが神によってその不自由さを取り除かれて解放されるということが書かれていました。この人たちは分け隔てられていた人々と言えるでしょうが神はその人たちに目を向け私のところに来なさいと言われているのです。神はその人々に「強くあれ、恐れてはならない。神は来て、あなたがたを救われる」と言います。神は貧しい人に心を寄せておられ、その人たちが分け隔てられている状態から「ひとつ」になるようにされると言われています。
神の御子であるイエス様がこの世界に突入して来られたのは「貧しい人に福音を告げ知らせるためであり、捕らわれている人を解放し、目の見えない人が見えるようになり、抑圧されている人を自由にするため」(ルカ4:18)だとご自分でお話になりました。社会から分け隔てられていた人たちを「ひとつ」にするためにイエス様は来られました。ですからイエス様に倣う者としてキリスト者は分け隔てをしてはならないのです。
隣人をあなた自身のように愛しなさい
ヤコブがこのように勧告する根拠は8節にあります。「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というのはイエス様がすべての律法を完全にする教えとして教えた言葉です。直訳だと「あなたの隣り人をあなた自身のように愛しなさい」となります。「あなた自身」とは「あなたそのもの」です。これは言葉を変えれば、「あなたがしてもらいたいと思うことをしなさい」ということになります。誰も外見で分け隔てされて辱しめられたいと思っていません。ですから分け隔てをしてはならないのです。
もし人が分け隔てをするならイエス様が教えられた最も重要な教えに違反することになり、その人は罪を犯すことになります。この罪の結果として不信や争いが起きてしまうでしょう。「あなたの隣り人をあなた自身のように愛しなさい」という教えは、十戒の殺してはならないといった具体的な戒めとは違って抽象的です。したがってヤコブは一つの具体的な戒めとして「分け隔てをしてはならない」と私たちに勧告しているのです。私たちはいろいろな場面で「分け隔て」をしかねない状況に遭遇することを心に留めなければなりません。その時に私たちは「自分の目の前にいる人は私自身で分け隔てられることを望んでいない」ということを思い出すようにしたいと思います。
私たちのために執り成してくださる主イエス・キリスト
私たちは洗礼を受けたからと言って完全な人間になったわけではありませんから失敗してしまいます。だからといって言い訳をして自分を正当化するのではなく、神に自分のしてしまった失敗を告白し、悔い改めて、赦しをいただかなければなりません。私たちは罪を赦す権威を持っておられる神がおられることを知っています。イエス様が私たちのために天の聖所で執り成しをしてくださっていることに信頼しています。ですから失敗したことをくよくよ引きずるのではなく、これからは分け隔てをしないように生きる決心をして、そのようにしていくことができます。このことが許されていることの幸いを想います。
祈り求めて努力する
分け隔てることは争いや不信の元です。神はすべての人を造られ、ひとりひとりに必要な職務を与えられました。多様な人々によって地上に神の国が建て上げられていきます。私たちは分け隔てをしない者になるよう神に祈り求め、努力していきたいと思います。それはありのままの姿で神を賛美しながら生きることができる世界を作っていくことです。皆で一緒に御国を目ざしてこの世の旅を続けていきましょう。