9月15日礼拝説教「老人の知恵」

聖書 コリントの信徒への手紙第一 1章18~24節

わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。(23節)

生かされていることを感謝する

明日は敬老感謝の祝日です。この祝日の主旨は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ということです。教会では今日まで生かされてきたことを神さまに感謝する日として礼拝します。実際は高齢者だけではなく全ての人が神さまに生かされてきたことを感謝する日で良いと思うのですが、高齢になって心身が弱ってきても生かされていることを神さまに感謝する日として礼拝することには意味があると思います。

老人の知恵

高齢になるといろいろなことができなくなります。走ること、歩くこと、料理や洗濯をすることなどができなくなってきます。このような状態をある人は「神さまにお返ししている」と言いました。私たちは生まれた時は自分で生きることができず親に育てられました。そして成長するにつれていろいろなことができるようになりました。社会に出てからもいろいろな経験を積んで賢くなってきました。高齢になるとはそれらのものをひとつひとつ神さまにお返ししていくことなのだと分かれば、できなくなってきても寂しくはありますが落ち込むことはないのではないかと思います。

老人の知恵とは、人間は神さまの前に幼子のようであることを知ることではないかと思います。そのような目で本日与えられたみ言葉を耳にしますと、18節の「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」という言葉が心に飛び込んできます。十字架の言葉とは神さまの愛のメッセージがイエス様の十字架の死にすべて含まれているということだと思うのです。

人が知識や経験を身につけることによって幼子の心を忘れ、人間関係や損得勘定に重きを置くような生き方をしてしまえば、イエス様の十字架は私たちの心を打つことはないでしょう。しかし人生で獲得してきたものをひとつひとつ神さまにお返しするようになると、私たちにとって本当に必要なものは十字架の死に示された神の愛の力であることが分かってきます。

預言者イザヤはイザヤ書29章14節で「それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。」と預言しました。パウロはこの言葉を「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」という風に言い換えて私たちに語ります。

人間の知恵や賢さは神の目から見れば愚かなものです。働き盛りの頃には人は他者と比較して知恵と賢さを誇ろうとします。他者より勝っていると思えば優越感を抱き、劣っているとすれば劣等感を抱きます。しかしそれは人間同士の競争に過ぎません。人間は神の前に無知であり、愚かであることを知らなければなりませんし、それを知る者こそ知恵者であり賢者です。それが分るようになるのは高齢者になってからであるといえるのではないかと思います。

20節の「神は世の知恵を愚かなものにされた。」という言葉はキリスト者には良く分かる言葉だと思います。例えば人間はワクチンを発明しましたが感染症はますます人間に脅威をもたらしています。宇宙空間に人を運ぶような科学技術を持っていても、飢餓や貧困や戦争をなくすことはできていません。私たちは快適な生活を手に入れたように見えて、温暖化が進みエアコンなしでは生きることが難しい環境になってしまいました。これからは人間の知恵ではなく神の知恵に頼らなければなりません。

祈るという恵み

幕末から明治期時代を生きた日本メソジスト教会の初代監督の本多庸一は祈ることについて「小児はお菓子を下さいと申すのみにて、安心しているぞよかるべき」と言いました。子どもはお菓子をくれる人を信頼しており、それが与えられることを信じて願っているというのです。そしてこれが祈ることだと教えています。若い時には自分の力に頼っていた人も高齢になるにつれ、子どものようになって、恵みを与えてくださる神さまに頼るようになりたいと思います。頼らなければもはや自分の力ではどうにもならないことを知らされるからです。

一方で祈ることの難しさについてルドルフ・ボーレンという神学者は『祈る』という題の本に次のように書いています。

「私たちはどうすればふさわしい祈りをすることになるのか知りません。祈ることは子どもにも容易にできることです。しかしその祈りで世界を変革した人が、わたしたちはどう祈るべきかを知りません(ロマ8:26)と言うのです。」

このような言葉です。世界を変革した人とは使徒パウロのことです。使徒パウロはキリストの福音を伝えて、世界中にキリストの福音が広まるきっかけを作りました。パウロが世界を変革することができたのは祈るという支えがあった、ということをボーレンは伝えています。その世界を変革したパウロが「どう祈るべきかを知りません」と告白しているのです。

「祈ること」、これは子どもにもできる安易なことであるということと、どうしたら真実に祈れるようになるのかわからない困難なことというのが同時に成り立っています。ボーレンは『祈る』の本の中で「祈ることの修練」ということを書いています。修練とはどの様に祈るかを練習することですが、これは音楽の練習に似ています。歌ったり楽器を演奏しようとする人は楽譜を読むのですが、その楽譜から作曲者の意図を汲み取り楽譜には表現されていない表情をつけて演奏します。歌詞の奥に隠されている作詞者の思いを汲んで歌います。

聖書は神の御心が明らかにされた書物ですから、私たちの側から見れば神への畏れや神の祝福といったものが書かれた楽譜といえます。私たちは聖書の文字の奥に神の御心を汲み取り、生活のただ中にあって自分の人生として表現します。ですから聖書を読み、御言葉を何度も繰り返し、黙想することで祈る言葉が生まれて来ると言うのです。

『祈る』の本な中からひとつの祈りを紹介します。聖書の御言葉はテモテへの手紙2の4章6節「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。」です。ボーレンはこの御言葉を心に繰り返し、黙想して次のように祈りました。

主なる神さま、
私は自分が必ず死ぬのだということをわきまえます。
この書物を開くたびに。
死を越えて自分を生きさせることはない、ということを。

特に聖書解釈をする人々、説教をする人々のために私どもは祈ります。
この人々が、御言葉を失わないように。

このような祈りです。この祈りには死をどのように自分のものにしているかが祈られています。そしてそれだけではなく神学者や牧師のために祈っています。ボーレンはこの本を書いたとき90歳近い年齢でしたが、人は死ぬべきものであることを私たちに思い出させます。祈りの修練の書物である聖書を開くたびに死の思いを刻みます。それだけではありません。執り成しの祈りを祈ります。神の言葉を取り次いでくれる人々が神の言葉を失わないようにと。この祈りに支えられて説教者は語ることを励まされ、また真っすぐに神の言葉を語るように促されます。この祈りは神の言葉を聴き続けることなしには祈れない祈りです。

キリストがそばにいてくださる

コリントの信徒への手紙1の1章24節には「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」と書かれています。ギリシア語原典では「召された者」というのは「招かれた人」という意味ですからすべてのキリスト者のことです。キリスト者は人種や国籍によらず神さまが招いてくださいました。

その人たちには神の力であり、神の知恵であるキリスト・イエス様が共にいてくださいます。高齢になろうが、心身が不自由になろうが、霊が弱ろうが、私たちが神さまを遠ざけようが、イエス様はそれぞれの方の人生に寄り添っていて導き守り助けてくださいます。

これから招かれる人たちもいます。これから招かれる人たちにもイエス様は共にいてくださいます。そのことを知るならばその人は既に招かれた人たちのすぐ近くにいるのです。いつ招きに応えるかはその人に一番ふさわしい時期が用意されています。そしてその時期は決して遠くではありません。また高齢になったからと言って遅すぎるということもありません。どうぞ神さまのお招きに応えていただきたいと願います。

高齢になりいろいろなことができなくなったことを嘆くだけではなく、希望があることを覚たいと思います。それはいままで神さまからいただいていたものをひとつづつお返しし、神さまのところに近づいていくという希望です。最後まで聖書を頼りに、祈りつつ人生を過ごしていくという目標が与えられています。これらのことに感謝して、祈ることを続けたいと思います。