9月22日礼拝説教「神は近づいてくださる」

聖書 ヤコブの手紙4章1~10節

神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。(8節)

人間関係の難しさ

今日は私の失敗談をお話ししようと思います。私は金属工学を学んだのですが、入社すると専門の全く違う制御システム開発部門に配属になってしまいました。同じ工学と言っても金属工学と制御工学はまったく違う分野ですから、私が学んだ知識はまったくと言っていいほど役に立ちませんでした。そこにはいわゆるパワハラ上司がいて、配属から1年経った頃に大変難しい現場に長期間出張させられました。それは人質のようなもので、そこでは誰の助けもなく一人で問題の解決に当たらなければなりませんでした。専門知識が乏しかったにもかかわらず問題を解決して来いといいう命令だけでお客さんのところに行かされたのです。自分なりに専門書を読んで問題を解決しようとしましたが努力は実を結ばず、結局その現場ではお客さんの満足する品質を達成することはできませんでした。今、考えれば会社対会社の仕事ですから私一人が責任を取る必要はなかったのですが、その当時の私はこのことに大きな負い目を感じてしまいました。

この負い目を背負ってその後も仕事を続け、10年ほどかかりましたが次第にどうすれば問題を解決することができるかが分るようになりました。そして小さな成果を出すことができるようになったのですが、そうするとその上司は私の成果を勝手に自分のものにしてしまったのです。周りの同僚は私の味方になってくれませんでした。結局私は泣き寝入りのようになってしまいました。次第にその人を憎むようになりました。その人がこの世からいなくなれば自分はもっと仕事を評価してもらえると考えるまでになってしまいました。

この頃は神さまを知りませんでした。ただ人間関係の中でもがき苦しんでいました。もし私が教会に行くことがなく、イエス様の苦しみを知ることがなかったら、私は何をしただろうかと考えると恐ろしくなります。しかし神さまは私を見捨ててはおかれませんでした。教会に足を運ぶ道を備えていてくださり、私が過ちを犯す前にイエス様に出会わせてくださったのです。私はその上司を赦そうとしてみました。すると不思議なことに理由は分かりませんがその上司のパワハラが収まって来たのです。私の成果を自分のものにしたことについて謝罪はありませんでしたが私はそれも赦しました。イエス様の苦しみが私を救ってくれたのです。

人は関係性の中に生きています。そして人間関係だけでは人は追い詰められてしまいます。神様との関係を見出し自分の存在が確かなものになれば、人間関係も改善することを、私は体験しました。神様との関係がわかってくると、人間関係に大きな変化が現れます。神さまがすべての人を支配していることを知れば、他者は隣人に変わります。隣人とは相手のことを思い、友達になるということです。相手が友達と思っていなくてもこちらの方としては友達なのです。煩わしい友達かもしれませんが無視する対象ではなく、関りを持つ相手なのです。

神に近づくようにという勧告

私は今日のみ言葉を黙想しながらこのようなことを思い出しました。ヤコブの手紙4章1節の言葉からある人々の間に争いがあったことが想像できます。ヤコブはその争いの原因を外部の要因に求めるのではなく人の内面に見出しています。「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」と語ります。私のことで言えば、私は認められたいという欲望があったのではないかということです。他者は協力し合う仲間ではなく、競争相手でありいち早く成果を上げて評価を受けたいという欲望が私の中にあったのではないかということです。

2節に「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。」と書かれています。名誉や地位や他者が認めるといったものは欲しても得られません。「人を殺します」は相手だけではなく、自分を殺すことも含みます。そしてそれは自死だけではなく、引きこもりになり社会生活が送れないような状態を含みます。私が陥った状態は正にこのような状態でありました。私は認められたいと思っていましたが、それには評価されて昇進したいという欲望が隠れていたと思います。そのような欲望は「熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりする」(2節)ようになります。

ヤコブは4節で「神に背いた者たち」「神の敵」、6節で「高慢な者」、8節で「罪人たち」と呼びかけていますが、これらは欲望の罪に陥って間違った人生を歩んでいる人々のことです。キリスト者も例外ではありません。キリストと共に人生を歩いていくことを決心したのに再び世の友となってしまい、いろいろな欲望に誘惑されて争うようになることがあるからです。そのような人たちは「神の敵」(4節)だと書いています。

ヤコブは「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。」(5、6節)と私たちに神の御心を明らかにしてくれました。神が私たちをどれほど深く愛してくださっているかを知らせる言葉です。また旧約聖書の箴言3章34節を引用して「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(6節後半)と告げています。神は高慢な者を敵とされるのですが悔い改めへと導くための裁きであることに注意したいと思います。神はお造りになった者を祝福されました。本来の人間に戻るならば神は再び祝福してくださいます。そうすると神の前にへりくだる者とさせていただけます。ちょうど神殿から遠く離れた所で『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈りをささげた徴税人のように(ルカ18:13)、人間の側には正義はないことを知り、神に従おうとする人にさせていただけます。この人はもはや争うことは考えられなくなります。他者は隣人であり、助けを求める人はイエス様だと思えるようになります。一人で生きているのではなく神さまに支えられ、隣人に支えられて生きていることを知る者となります。

これこそ神に近づいている状態と言えます。ヤコブは「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(8節)と勧告しています。

私たちには希望がある

私たちは現実の自分を顧みれば、ヤコブの勧告のようにはできないと悲しんでしまいます。何しろ洗礼を受けてキリスト者となってからも誘惑に弱く、負けそうになる自分がいるからです。私たちは悲観的になるしかないのでしょうか。このことを考える時にヒントになるのはイエス様のことです。イエス様は「あらゆる点において私たちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブル4:15)。イエス様は「罪を犯されなかったが」、すなわち「罪を除いて(罪から離れて)」(ヘブル4:15)私たちと同じです。この「罪を除いて」と書かれていることは重要です。つまり、罪は人間に付き物であるというのではなく、私たちの本来の姿に入り込んできたものであるということです。誘惑に負けて罪を犯すのが本来の人間の姿ではないということなのです。これは私たちの現実からはとうてい明らかにならない事柄ですが、聖書に証されている神の視点から見れば明らかなことです。

私たちは罪を犯さない存在にならなければならないのではなく、罪を犯さない存在だった本来の姿に戻るということです。私たちの力では成し遂げることはできませんが、イエス様が贖ってくださり、今も天で大祭司として、私たちの弱さを知って祈っていてくださいます。私たちはイエス様の祈りに支えられています。ですからイエス様を信頼して、イエス様に頼って、神に近づかせてくださいと祈るならば、神はそのようになさってくださいます。

8節後半と9節は世の友となっている人たちへの勧告です。「悲しみ、嘆き、泣きなさい」(9節)とは、この世を愛して欲望に生きている人の喜びや笑いが表面的なものであることを表しています。世の友となっている人たちは自分が老い、病み、死ぬ存在であることを忘れようとして楽しく暮らしていても、眠りにつく時や一人の時にそれらのことを思い出して恐れを抱きます。神に背き永遠の命を知らないからです。ヤコブは「世を友とする人々よ、笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。」と言います。これは神に敵対する人間に生の深淵を見させようとする言葉です。その深淵を見た者は神を信頼し神にすがるしかなくなるからです。

主の前にへりくだりましょう

欲望の誘惑を受け世を共にしている人が居ましたら「主の前にへりくだってください。そうすれば主があなたがたを高めてくださいます」(10節)。そうすれば深淵を覗き見ることがあっても恐れることはなくなります。他者を隣人として仲良く暮らすことができるようになります。行き違いがあっても修復して、再び喜び合うことができるようになります。