9月29日礼拝説教「力ある神に祈る」

聖書 詩編124編1~8節、ヤコブの手紙5章13~20節

「互いのために祈りなさい。」(ヤコブ5章16節より)

主に従って歩む家庭を祈る

西千葉教会の菊地信行先生の結婚式が9月23日月曜・祝日に西千葉教会でありました。結婚式には西千葉教会の方々や菊地先生とご伴侶のご家族、友人や千葉支区教会関係者が参列して礼拝堂が一杯になりました。真壁先生からコリントの信徒への手紙1の13章、愛の賛歌の箇所を通して二人が誠実に互いを愛し合い家庭を築くようにとのお勧めがありました。お二人が主に従って歩む家庭を築かれますよう祈りたいと思います。主に従って歩むというのはキリスト者の生き方です。先ほど読まれたヤコブの手紙は主に従って歩むとは具体的にどのようにするのかということを私たちに教えています。

互いのために祈る

今日はヤコブの手紙5章16節「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」という言葉が与えられました。この言葉は、主に従って歩むというキリスト者の生き方は「互いのために祈る」ということだと教えています。13節には「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。」と書かれており、14節には「あなたがたの中で病気の人は祈ってもらいなさい。」と書かれています。この言葉から、祈ることの大切さと、祈ってもらうことの大切さを知らされます。

さて、神に祈るのはなぜかと考えてみますと、神がおられるということが前提になっていることは当然だと思います。日本のことわざには「苦しい時の神頼み」というものがあります。普段は神さまを信じていない人でも、苦しいときは神さまにすがってでも、その助けをもらおうとすることです。神様を信じていないのに苦しい時だけ神さまにすがろうというのは何とも身勝手だと思うのですが、考えてみれば神様を信じていなくても人間には限界があって、それを越える存在を感じているということですからほとんどの人は人間を越える存在を知っているということになります。

旧約聖書の詩編19編には、

天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。

という詩があります。天も大空も昼も夜も喋ることはありませんが、その存在をもって私たちにこの世界をお造りになった神、私たちをお造りになった神のことを伝えているのです。その声にならない声はすべての地に響き、世界の隅々にまで向かうというのです。現代人は、特に空がスモッグで汚れていて、地上は夜も煌々と明りがあるようなところに住んでいる人々は天を見上げることが少なくなってきました。星空の美しさに目を奪われることよりも、テレビやスマホを見て過ごすことが多くなりました。しかしそんな現代でも目を上にあげれば私たちが住んでいる世界とは違う世界が広がっていることに気づきます。

またコヘレトの言葉3章11節には「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」という言葉が記されています。有限の存在である人間が永遠を思うことができるというのは考えてみれば驚くべき不思議です。誰に習ったわけでもなくても永遠を思う心があります。動物がどのようなことを考えているか分かりませんが、永遠という概念を知っているとは思えません。人間には永遠を思う心が与えられている。これを突き詰めていけば人間は神の存在を理解することができる、そのように神は私たちをお造りになったのではないかと思うのです。

神を信じていない人でも神に頼るのですから、神は偉大な存在であることがわかります。人間の力ではどうにもならなくなった時でも苦しい状況を変えてくださる存在がおられるのです。

私たちはこの神に祈ります。「祈る」というのは祈りをささげる対象があるから祈るのです。そしてその祈りの対象は祈りをかなえてくださると期待するから祈るのです。

16節には「正しい人の祈りは大きな力があり効果をもたらします。」という言葉が記されています。この言葉を聴くと「正しい人」でなければ祈りに力がなく祈っても効果がないのかと思ってしまうかもしれません。なぜなら「正しい人」というと倫理感が強く正義の実現のために働く人を想像してしまうからです。自分はそんな正しい人間じゃないから祈っても無駄だという気持ちになるかもしれません。しかし聖書の言う正しい人とは「神さまの目に正しい人」のことですから私たちが自分を正しい人間じゃないと判断する必要はありません。神様の目に正しい人とは神様をすべてのものの上に置き、その言葉に従う人です。その人は傲慢になることがありません。祈る相手に心を寄せてその人の幸せを思って祈ります。そして祈るだけではなく自分に出来ることを見返り無しに与えるのです。

しかしそうすると、私たちは一層「正しい人」にはなれそうにありません。私たちは自分の欠点を良く知っています。それは神さまの目に正しい人ではない自分です。どうしたら「正しい人」になれるでしょうか。

このことについて、菊地先生の結婚式のことを通してお話をしたいと思います。菊地先生は白のタキシードに身を包み、ご伴侶は白のウエディングドレスに身を包んでいました。菊地先生もご伴侶もとても素敵な人に見えました。先生自身は変わらないのにタキシードに身を包むことによって立派に見えますし、本人もその姿にふさわしいように行動するようになります。

このことが示しているのは私たちは「正しい人」になろうとしているけれどもいまだ「正しい人」ではありませんが、「正しい人として」祈ることはできるということです。

教会の基礎を築いた使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙3章27節「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」と言いました。私たちは洗礼を受けることで聖霊によってキリストに結ばれ、キリストを着ているというのです。内側の人間は「正しい人」ではなくてもキリストを着ることで私たちは洗礼を受けてキリストと共に歩む者として行動するようになるということです。ですから私たちはヤコブの言葉に悲しむことはなく、キリストを着て、キリストならばどのようにされるだろうかと考えて行動する人間に変えられているのです。そのような人が祈るならば父なる神は祈る者の願いを聞き入れてくださいます。

15節には「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」と書かれています。病気の人の枕元で主のお名前が唱えられることは、主が助け主として呼び求められることです。主はその祈りに応えて癒しをお与えになります。

イエス様に祈れば病気を癒してもらえるだけでなく、ある人が知りつつも犯してしまった罪や知らないうちに犯した罪も赦してもらえるのです。力ある神が御子イエス様を通して私たちの祈りを聞いてくださいます。

祈ってもらいたいことを互いに伝え祈り合う

私たちが他者のために祈る祈りは正しい者の祈りとして神に聞き入れていただけます。他人のことより自分が抱えている困難を取り除いてほしいと願いたくなる気持ちはわかります。しかしそれは問題を自分一人で抱えている状態なのです。罪を告白するというのは過ちを言葉にするだけではありません、自分が抱えている問題、生きていくことが困難になっている状況を言葉にすることも含まれます。すべてを語ることは出来なくても祈ってもらいたいことを他者に語ることはできます。その告白を聞いた人は告白した人のために祈るのです。このようにしてそれぞれの困難や重荷を告白し合い、祈りの課題を互いに祈り合うことで神はその祈りをお聞き届けくださり、それぞれの人を癒してくださいます。