聖書 ヘブライ人への手紙2章5~13節
多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。(2章10節)
キリスト者を励ますヘブライ人への手紙
先週まで私たちはヤコブの手紙に聴いてまいりました。ヤコブの手紙を通して私たちはどのように生きていけばよいかを考える機会をいただきました。それは立派なキリスト者になるというのではなくて、神さまが聖い者にしてくださるという約束に信頼して奉仕をしていくというものでした。祈り、祈られることの大切さを教えてもらいました。
そして今日から私たちにヘブライ人への手紙が与えられました。この手紙の宛先のキリスト者たちはイエス様に対する信仰を捨ててしまう危険や誘惑にさらされていた人たちであったようです。その誘惑とは、第1にイエス様がこの世で示された無抵抗で苦悩するお姿をイメージして、イエス様を信じられなくなることです。第2にキリスト者として受けなければならない苦難です。手紙が書かれた頃のキリスト者たちは命を奪われるほどの苦難を受けていました。最後にイエス様の再臨が訪れないことに対する信仰の揺れでした。それで手紙の著者はイエス様がどのようなお方かを旧約聖書を通して明らかにする手紙を書き送ったのです。
これらの誘惑は現代のキリスト者も受けなければならないものではないかと思います。当時のような迫害はありませんが、イエス様が救い主であるとの信仰を揺さぶられる誘惑はたくさんあるからです。
御子キリスト
ヘブライ人への手紙の2章1節は「私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」と語ります。私たちの心や霊が弱っている時に私たちは他者の言葉を聞いていても受け止めることができなくなってしまいます。著者は「聞いたことをいいかげんにするのではなく、いっそう注意を払いなさいよ。そうしないとこの世の論理に押し流されますよ」と注意を促しています。
「私たちが聞いたこと」とはどのようなことなのかを1章に書かれていることを振り返ってみたいと思います。1章2節と3節には「神はこの終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます。」と記されています。御子という時、人間イエス様というよりは天地創造の時から神と共にあったお方を表しています。このお方のことをヨハネによる福音書は「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。」というふうに表現しています。つまり、御子は万物の相続者であり、世界を創造されたお方です。創世記1章は、神は言によって天地を創造されたと記しています。天地創造の時に御子は言として神と共にありました。
3節後半から4節には「(御子は)人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。」と書かれています。「人々の罪を清められた」というのはイエス様の十字架の死による人々の罪の贖いを表しています。この時のイエス様は力なく惨めなお姿でしたが、人々のために父なる神に「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と執り成してくださいました。このイエス様を神は死から甦らせご自分の右の座につかせたのです。このことは旧約聖書の詩編110編に預言されていました。それはこのような言葉です。
『わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」』(詩110:1)
この言葉は新約聖書の中で何度も引用されています。最初の「わが主」は御子のことであり、次の「主」は父なる神のことです。このようにして御子は「天使たちの名より優れた名を受け継がれた」のです。
弱く惨めなイエス様は万物を従わせるお方
2章5節には「神は、わたしたちが語っている来るべき世界を、天使たちに従わせるようなことはなさらなかったのです。」と記されています。「来るべき世界」とは終末が完成する世界、すなわち御子が再び現れて新しい天と地が現れる世界です。終末の完成という救いが近づきつつあります。そしてその世界は旧約時代の人々が信じていた天使たちが支配する世界ではありません。
誰が支配するのかということが問題となるのですが、10節にあるように「救いの創始者」であるイエス様です。神がイエス様を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方にふさわしいことであったからです(10節)。
2章6節から8節には詩編8編が引用されています。ここで著者が示しているのは、人となられたイエス様が、わずかの間、天使たちより低いものとされたこと、そして十字架に示された従順によって神が栄光と栄誉とをイエス様にお与えになったということです。使徒信条ではこのことを「全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」という言葉で告白しています。
しかし現実は「神がすべてのものをイエス様に従わせられたにもかかわらず、私たちはいまだにすべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」(8節)。なぜでしょうか。手紙を受け取った人たちはこのような疑問を持っていてイエス様の救いに懐疑的になっていたのかもしれません。
これに対して著者は「ただ、天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」と告げています。人間が見たものは十字架につけられて死なれた弱い惨めなイエス様であり、人間が聞いたのはそれを見た人たちの言葉でした。しかしイエス様の人生と十字架の死が示している事柄は、イエス様がどこまでも人の罪を父なる神に執り成して、人に対しては悔い改めるように諭していたお姿です。このお姿を福音書や手紙は私たちに示しています。
「わたしたちが見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」(Ⅱコリ4:18)ならば、十字架でのイエス様の死は父なる神の愛とイエス様の大きな恵みであることがわかってくるでしょう。
確かに「私たちはいまだにすべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」。これは終末の完成、すなわちイエス様の再臨がまだであることを示しています。イエス様がいつ再び来られるかは私たちには明らかにされてはいませんが、必ず来てくださいます。これは約束であり、福音(喜びの知らせ)なのです。
11節に「事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。」と書かれています。「人を聖なる者となさる方」はイエス様、「聖なる者とされる人たち」は私たちです。本来ならば私たちとイエス様の間には大きな隔たりがあります。その両者が父なる神の御心に基づきイエス様の十字架の贖いによって兄弟姉妹とされました。これは私たちが罪を抱えた者であってもイエス様を信じる信仰によって、私たちを神の家族の一員としてくださったということです。神の家族になったということはキリスト者は神の子となったということを表しています。聖くない人間がイエス様によって今ある姿のまま、ただイエス様を救い主と信じてイエス様の御後につき従うことにおいて「聖なる者」としていただいたのです。これはすでにこの世界に贖いによる回復が始まっているということを示しています。キリスト者がこの世に存在することが世界の贖いが進んでいることを証明しています。
信仰の戦いに決然と抗していく
2章3節に「キリスト者は大きな救いに無頓着でいてはいけない」と書かれています。キリスト者はこの世の悲惨な状態を見て救い主イエス様への信仰を揺らがされるのではなく、このような世界に教会が建てられ、キリスト者がいるということに神の愛と御子の救いの恵みを見ることができます。イエス様は親が子や孫のことを案ずるように、今も私たちを導いておられます。救いの創始者であり完成者であるイエス様に目を留め、眼前にある信仰の戦いに決然と抗していきましょう。