10月13日礼拝説教「大胆に恵みの座へ」

聖書 アモス書5章13~15節、ヘブライ人への手紙4章12~16節

だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)

説教

創立40周年記念コンサート

私たちは創立40周年記念コンサートのために、新聞折込みで近隣にチラシを配り、また皆で家族や知り合いを誘いました。その結果、教会員よりも多い40人以上の方が来てくださいました。

コンサートは、デュオ・ステラ(紫園香さん、菅野万利子さん)のお二人の素晴らしい演奏や心に残る証しがあり、キリスト者ではない人たちも私たちと一緒に楽しんでくださいました。アンケートには「素晴らしい演奏で心にしみました」、「紫園さんのお話しに感動しました」、「美しい音楽に日頃の憂さを忘れさせてもらいました」といった嬉しいコメントが寄せられました。復活のイエス様、キリストが一緒におられたに違いありません。会場が「ひとつ」になっていました。

共に神の安息にあずかる

本日の新約聖書はヘブライ人への手紙4章から御言葉が与えられました。4章1節には「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。」と書かれています。信仰は各人の決断により、神の招きによって与えられるのですが、洗礼を受けたならばその人は神の家族と共にこの世の旅路を歩いていくのです。

神の家族はこの世にあってはノアの箱舟のようなものです。形として見えるものは教会堂です。愛の交わりのうちにこの世の荒波を乗り越えて神の安息に入ります。神の家族のだれ一人、取り残されないように、私たちは神さまからの恵みを互いに証ししながら、一緒に進んでいくのです。誰一人として取り残されないことが主なる神の御旨であることを心に留めたいと思います。その旅路には神の安息があり、その先には神の国の安息があります。

4章2節から11節には出エジプトの民が荒ら野で心をかたくなにして神の安息に入らなかったことが示されています。心がかたくなになると神の声が聞こえなくなります。聞こえたとしても心に届きません。それで心をかたくなにした人たちは安息に入れなかったのです。

しかし9節にあるように「安息日の休みが神の民に残されています」。だから、私たちは11節にあるように「この安息にあずかるように努力しようではありませんか。そうしないと、私たちの神の家族の中に、出エジプトの民のように神の安息に入らない人が出てしまうかもしれません」。神は手紙の著者を介して、「神の民はお互いに励まし合いながら、恵みを証ししながら、神の安息から取り残されないようにこの世の旅路を進んでいきなさい」と私たちに告げています。私たちはひとりでこの世の荒波の中を進んでいるのではありません。もし各人がばらばらに進んでいるのであれば、きっと早い段階で神の安息から漏れてしまうでしょう。神さまはキリストを救い主と信じた人が一人も滅びないようにと心にかけてくださっています。

神の言葉は鋭く切り分ける

しかし神は優しいだけではありません。私たちのことをよくご存じです。12節には「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」と記されています。神の言葉は心の思いやはかりごとに分け入り、自分は良いことや正しいことをしているという思いを解体し、何が良いことで悪いことかを分からせてくれます。御言葉によって何が神の御心かを知ることが私たちのいいかげんな思いを良い思いと悪い思いに切り分けてくださいます。

昔、「小さな親切」という運動が盛り上がりました。小さな親切を提唱した人の思いは「誰にでもできる小さな親切をきっかけとして、これが社会の隅々にまで行われるようになり、日本が心豊かな国になる」ことでした。この運動が始まった当初は挨拶を交わすことが全国的に盛り上がりを見せました。しかし段々と押し付けの親切をする人が現れたり、親切をしない人をののしるということが見られるようになり、段々と反対意見が出てくるようになりました。このような反対意見によって運動は徐々に小さくなっていきました。小さな親切をおこなうことに反対する人はいないと思います。しかしそれが運動という形で広がるにつれて、相手が望まないことをしてしまったり、親切をすることが義務のようになってしまって、日常生活が窮屈になってしまいました。

人間には思いやりの心とお節介の区別ができないように、良いことと悪いことの区別ができないということを示しているのではないかと思います。信仰者にとっては信仰的な高まりと自己陶酔を区別するのは難しいことです。

私たちの心の中にある傲慢さや神への不従順を認めることから、心のかたくなさを取り除く作業が始まります。そして私たちは自分の罪を告白して心を軽くしていただくのです。神の言葉は私たちを救うために私たちの心の隅々にまで伝わります。そのような神の言葉が私たちのかたくななな心を砕き、感受性にあふれる柔らかな心にしてくれます。

13節には「更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」と記されています。

神は世界や私たちをお造りになられたのですから被造物のすべてのことをご存知です。私たちが自分のことを誰よりも知っていると思う以上に、神は私たちを知っておられます。誰もいないところで隠れておこなったことでも神はご存知であり、神の御前に立った時に私たちは裁かれます。良いことであれば報いを受け、悪いことであれば裁きを受けることになります。

ですから私たちは何かをする時には良いことをしているという思いではなく神さまのために働いているという思いで自分に出来ることを行っていくことが大切だと思います。

共に、大胆に、恵みの座に近づこう

「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられています」(14節)。私たちは神の言葉によって体と心の隅々までが切り分けられて、私たちの中に入り込んでいる罪が明らかにされますが、私たちを救い、執り成してくださる大祭司イエス様がおられます。だから安心してください。復活のイエス様、キリストが私たちのために、私たちの側に立って祈っていてくださいます。私たちはこのキリストにすべてを委ねて、神のために為すべきことをおこない、神の安息に入るのです。「私たちが信仰告白などで言い表わしている信仰をしっかり保ちましょう」(14節)

「大祭司イエス様は罪を犯しませんでしたが私たちと同様に試練に遭われたのですから、私たちの弱さを知っており、その弱さに痛みを感じるほどに同情してくださいます」(15節)。

もう一度申し上げます、安心してください。私たちの力は弱く、不完全であっても、私たちには大祭司イエス様がいてくださいます。だから私たちは共に神さまがお示しになった道を歩き神の安息に入ることができます。

私たちは一緒に「大胆に神の安息である恵みの座に近づこうではありませんか」(16節)。狭い門ではあってもイエス様を信じれば神の安息に入ることができます。