10月20日礼拝説教「キリストは救いの源」

聖書 イザヤ書53章11~12節、ヘブライ人への手紙5章1~10節

そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられた。(ヘブライ人への手紙5章9節)

説教

人生の苦しみ

「人生に苦しみがなければどんなに素晴らしいだろう」と思う人は多いと思います。しかし人生に苦しみは付きものです。どなたも人生の中で苦しみに遭って大変だったことがあると思いますし、今でも苦しみを抱えているかもしれません。人にはなぜ苦しみがあるのかは人間には解明できないことですが、その苦しみを知って担ってくれる人がいてくれるならば、心が癒されるのではないかと思います。

大祭司

ヘブライ人への手紙5章には大祭司という職務が書かれています。大祭司は祭司の中から選ばれて人々のために神さまに執り成しの祈りをささげます。この大祭司は「罪のための供え物やいけにえを献げるよう人々のために神に仕える」(ヘブ5:1)と書かれています。「罪のため」という言葉は「罪に代えて」という意味でもあります。つまり私たちの苦しみの根本に罪があり、その罪によって生じている苦しみから神さまが解放してくださるように祈るのが大祭司の務めなのです。

大祭司は自分でなるのではなく、人々によって選ばれるのでもなく、神から招かれてなるということが4節に書かれています。具体的には祭司の務めを果たす人々が祈ってくじを引き、そのくじに当たった人が大祭司に選ばれます。「くじを引く」というのは偶然に頼るというふうに考えると思うかもしれませんが、くじの前に神さまに祈ることによってくじが神さまの選びになるのです。

新約聖書のルカによる福音書1章には、ザカリアという祭司が「祭司職のしきたりによってくじを引いたところ主の聖所に入って香をたくことになった」(ルカ1:9)と書かれています。これはザカリアが神さまによって大祭司の職に召されたことを表しています。この大祭司が、所定の儀式で「供え物やいけにえを献げる」(ヘブ5:1)ことにより、神さまは人々を罪から解放して苦しみから解き放ってくださいます。旧約聖書の時代からイエス様の時代まで人々は大祭司が祈ることによってすべての罪が赦されて、罪から解放されたことを信じました。

現代の人々は神さまの存在を感じていても神さまにそのような力があることを信じることができず、大祭司に儀式を通して神さまが罪から解放してくださるように祈ってもらうよりも、自分自身の力で苦しみから逃れようとするのですが、人間の力には限りがありますから苦しみから解放されないことがあります。苦しみが無いかのように振舞うことはできるかもしれませんし、一時的に苦しみを忘れることはできるでしょうが、苦しみから解き放たれることはありません。神さまが罪から解放し、苦しみから解き放ってくださることによって、人は苦しみから解放されるのです。

まことの大祭司

まことの大祭司は十字架につけられ3日目に死人の中からよみがえられて天に上られた復活のイエス様、すなわちキリストです。

5節から10節に、このキリストがまことの大祭司であることが述べられています。キリストはヨセフとマリアの子イエス様としてお生まれになる前から、預言者イザヤや王ダビデが神の言葉を預かって語っていました。キリストは神さまが「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」(ヘブ5:5、詩編2;7)と言われたお方であり、「永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である」(ヘブ5:6、詩編110:4)と言われたお方です。

イエス様とは次のようなお方でした。イエス様は約2000年前にマリアとヨセフの子としてお生まれになりました。お生まれになった時、馬のえさ箱に寝かされるという貧しく苦しいお姿でした。幼少期には父親のいない子と陰口を言われながら育ったと思われます。なぜならヨセフの子ではなかったからです。神さまの福音を伝えるようになってからは各地を巡り歩いて住む所のない生活を送られました。そしていつも命を狙われるような状態でした。そのイエス様は当時の権力者に社会を混乱させる扇動者と見なされて捕らえられ、人々からも弟子たちからも裏切られ、最後には神さまからも見捨てられて、犯罪人として十字架で死なれました。

ところが旧約のイザヤ書53章12節にはメシアすなわちキリストは「自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられた。多くの人の過ちを担い背いた者のために執り成しをした」と預言されていました。神さまはすでに人間の救いのためにご自分の独り子をこの世に遣わし私たちを罪から解放して苦しみから解き放ってくださることを告げておられたのです。イザヤ書はキリストのことを「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(イザヤ53:3)とも語っています。このメシアすなわちキリストこそイエス様です。

人々からも神さまからも見捨てられ、誰もイエス様の苦しみを知ることなく、惨めに犯罪人として死なれたイエスさまが私たちを罪から解放し苦しみから解き放ってくださる「救いの源」(ヘブ5:9)なのです。

私の苦しみは私だけしか知らないと私たちは思っています。確かにイエス様を知らなければその通りです。しかし私の苦しみをすべて知っているお方がおられます。苦しみだけではありません。私の醜いところも、私が自分を嫌だと思うところも、すべて知っておられるお方がキリストです。知っておられるだけではなく私を救うためにご自分の命をもお与えになられるのがキリストです。神さまはこのお方を私たちに与えるほどに私たちを愛しておられます。

キリストが私をすべて知っておられるから、私は自分を飾ることをせずに素直な心でキリストに祈ることができます。私の苦しみを私から解き放ってくださいと祈ることができます。私だけではありませんすべての人がこのようにしていただけます。キリストが私たちの祈りを神さまに祈り続けてくださり、神さまはその祈りをお聞きになってくださいます。

ヘブライ人への手紙5章8節に「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」と書かれています。ここに「キリストは御子である」ことが示されています。ここに示されている「従順」とは権力者に素直になることではありません。迫害する者のために祈ることはあっても迫害する者に従順であることではありません。この従順とは原語にさかのぼると「下で聞くこと」という意味です。誰の言葉を聞くのかといえば、父なる神の言葉です。キリストは従順を学ぶ必要はありませんでしたが、私たちに従順を学ぶことを教えてくださったのです。神さまの言葉を聞くことによって私たちは心が砕かれて柔らかくなり、苦しみから解き放たれます。

苦しみから解き放たれた人

水野源三さんという詩人がいました。彼は9歳の時に脳性麻痺になって目と耳以外の機能を失いました。彼は痛みを感じることはできましたが、その痛みを自分の力で取ることはできませんでした。寝たっきりでしたから行きたいところに行くことはできませんでした。その水野さんは12歳の時に町の教会の宮尾牧師を通して主イエス・キリストに出会い、キリスト者となって神への喜びを詩につづり続けました。まばたきで言葉を伝えたことから「まばたきの詩人」と呼ばれています。この人の詩に「お話ししてください」というものがあります。

主よ
お上がり下さい
こちらの部屋に
おいで下さい

姪たちは
学校へ行って
弟たちは
納品に行って
私ひとりです

主よ
お話ししてください
私たちの望みなる
御国のことを

水野源三さんは主なる神の言葉を聞きたいと願い、きっとその言葉を聞いたに違いありません。彼はキリストに倣い「従順」を学びました。きっとそのことによって水野さんは平安を得ていたのだと思います。彼が紡ぎ出した詩は今でも、困難に出遭い苦しみの中にいる人をなぐさめています。

キリストが救い主であることを信じ、キリストに拠り頼むならば、神さまは必ず一番ふさわしい時に苦しみから解放してくださいます。さらにキリストに拠り頼みながら苦しみと向かい合う日々を通して私たちは霊的に成長するのです。キリストの福音から離れないで日々を送りたいと思います。私たちは共に福音に堅く立って喜びのうちに日々を過ごして参りましょう。