聖書 エレミヤ書31章7~9節、ブライ人への手紙7章23~28節
この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
説教
振り返り
ヘブライ人への手紙が書かれたのは教会が試練に見舞われたからでした。その試練とは、外部の人たちが「イエス様は十字架にかかって死んじゃったんだから救い主なんかじゃない」と言って教会のみんなを惑わしたからです。このような試練は今日の教会にもあります。
これに対して手紙の著者は、まず最初に、「キリスト者は大きな救いに無頓着でいてはいけない」と信徒たちに警告を発しました。キリスト者はこの世の悲惨な状態を見て救い主イエス様への信仰を揺らがされるのではなく、救いの創始者であり完成者であるイエス様に目を留め、眼前にある信仰の戦いに決然と抗していくようにと教えました。さらに、「キリストを救い主と信じる人たちが誰一人として神の安息に取り残されないように、一緒に恵みの座に近づこう」と私たちを励ましました。
キリストは永遠の大祭司
本日のヘブライ人への手紙の箇所においても著者はイエス様が私たちを救うために執り成しを行う永遠の大祭司であることを私たちに教えます。23節と24節は人間の祭司とイエス様とを比較しています。人間の場合は死がありますから永遠に祭司を続けることは出来ず、多くの人が祭司に任命されました。しかしイエス様は永遠に存在しておられる永久の大祭司です。イエス様の他に新たに誰か大祭司として立てられるということはなく、その働きの内容が変わることもありません。
25節には「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」と書かれています。この25節はこれまで語って来たことの結論です。とこしえの大祭司・イエス様は人を完全に救うことのできる救い主です。救われる人とはイエス様によって神に近づく人たちです。それはヘブライ人の教会に属する人々であり、また、イエス様を通して神に近づきたいと願い、本日この礼拝堂に集まっている私たちです。
自分のような者が神に近づくことができるのだろうかと心配しないでください。イエス様はご自分を通して神に近づこうとしている人々を完全に救うことができる救い主であると確信を持ってください。イエス様は「常に生きていて」私たちとイエス様の父なる神との間を取り持ち、執り成しておられます。「執り成し」という言葉が出て来るのは新約聖書においてここを含めて3箇所だけです。後の2回はローマの信徒への手紙8章に出てきます。「聖霊が言葉にならない呻きをもって執り成してくださる」という27、28節と、「復活のキリスト・イエス様が神の右で執り成してくださる」という34節です。旧約聖書ではイエス様を指し示す苦難のしもべの箇所であるイザヤ書53章12節に執り成すという言葉があります。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」という文章です。
先ほどはエレミヤ書31章も読まれましたが、そこには礼拝で人々が喜び、賛美し「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を。」というようにと記されています。旧約の民は執り成してくださるお方を待ち望みつつ天に召されて行きましたが、神がイエス様をこの世界にお遣わしになってからは、イエス様が私たちの祈りを完全なものに変えて父なる神に祈ってくださいます。エレミヤ書にあるように神の民は集められて「大いなる会衆となって帰って来る」のです(エレミヤ31:8)。
誓いの御言葉を信じる
ヘブライ人への手紙7章25節に戻ります。ここには「イエス様は完全に救うことがお出来になります」と書かれています。この「完全に」というのはどのような障害が起きても崩れることのない内実の完全と常に変わらない完全ということを意味します。従ってイエス様は私たちを救ってシャロームと呼ばれるまことの平和をもたらしてくださるのです。
この復活のイエス様は26節にあるように「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」です。「聖であり、罪なく、汚れなく」というのは分るかと思います。「罪人から離され」というのは少し説明が必要かと思います。イエス様は罪人と呼ばれる人たちと一緒にいて食事も共にしていました。ですからここに書かれている罪人とは意図的に神とイエス様とに敵対する人々のことです。このような大祭司こそ私たちに必要なお方です。人間の祭司の場合には自分の罪を清める事が必要でしたが、イエス様はそのような犠牲は必要ありません。そのお方が私たちのために私たちに代わって罪を贖う献げ物となってくださったのです。これ以上の罪の贖いはありません。イエス様の十字架の業を信じるならば、私たちは救われます。
28節には「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」と書かれています。「誓い」とはイエス様の地上での歩みとその言葉のすべてであると言えますが、特に十字架上でのイエス様の言葉がそれです。ここに使われている「誓い」ということばは新約聖書の中でヘブライ人への手紙の中に4例が使われているのみです。7章20節には「神による誓いなしではありません。レビの子らの場合は、神による誓いなしに祭司となっています」と書かれています。21節には「この方は、誓いによって祭司となられたのです。」と書かれています。復活のイエス様はこの誓いによって大祭司であり、その執り成しの祈りは完全です。イエス様に祈ってもらえるのですから私たちの祈りが完全でなくても、それは神に届けられ、神はその祈りを聞き届けてくださいます。私たちはこのことを信じて、つたない祈りだと思わないで願いや感謝を神に祈りたいと思います。イエス様のお名前によって祈るならばその祈りはすでに聞かれています。
執り成しを求める祈り
私たちは自分のために祈っていてくれる人が傍にいれば癒されます。ある人は苦しんでいる時に「世界中の人があなたの敵だとしても私だけは味方だよ」と言って励まされて苦境を乗り切ったそうです。でも人は残念ながら相手のことをどれだけ深く思っていても、相手の苦しみの深さに至ることはできません。ましてやそのような人がいない人は苦しみを分かち合ってもらうことができません。しかし、私たちにはキリスト・イエス様がおられます。私たちはイエス様が示された十字架の業によって、復活の主キリストが天の聖所で執り成しておられることを信じることができます。
ドイツの牧師であり神学者であり詩人だったルドルフ・ボーレンは次のような祈りをささげました。
あなたの死に、私はふだん見ることのないものを見ます。
私がふだん見るものは、もはやあなたの死の中に見ることがありません。
あなたはあざけられたが、それは彼らに栄誉を与えるため。
渇かれたが、それは私たちに飲ませるため。
亡くなられたが、それは彼らの持たぬものを私たちに与えるため。
また私たちをあなたの力の場へと引き出されたが、
それはあなたのために苦しみを受ける勇気を授けるため。
私たちはあなたの諸力を待ちます。
またあなたの賜物を待ち望みます
このような祈りです。ボーレンはイエス様の死に見ることのできない神の愛を見ています。イエス様が十字架の死によって私たちの罪や苦しみから救ってくださったことを見ています。イエス様の死はむごたらしい、そして惨めなものでした。死ぬことの苦しみだけではなく多くの人々の「十字架につけろ」という罵声の中で、父なる神にも見捨てられて死なれたお姿の中に、イエス様の救いの確かさを見ています。それは力による支配を信じている人には見ることのできない光景です。
そしてボーレンはイエス様が「私たちをあなたの力の場へと引き出された」と告白しています。私たちはイエス様の力の場にいるのです。それはイエス様が私たちを守り、執り成してくださる力の場です。そこにおいて私たちは「苦しみを受ける勇気を授けられる」と告白しています。み言葉の福音に堅く立つことを意味していると受け取ることができます。イエス様の十字架の苦しみが私たちを救い、今もなお永遠の大祭司として天の聖所で私たちの苦しみを身に受け執り成しておられます。私たちはイエス様の諸力を待つという希望を持っています。イエス様からの賜物をいただくという希望を持っています。