聖書 申命記6章1~9節、ヘブライ人への手紙9章11~14節
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申6:5)
キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせてくださいます。(ヘブ9:14より)
説教
モーセの厳しい命令
本日私たちが聞いた申命記の言葉「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」は何と厳しい言葉でしょうか。モーセは「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」と命じています。
「これらの言葉を心に留めなさい」というのは「主を愛することを実行しなさい」ということです。この命令はキリスト者となった私たちにも命じられています。なぜモーセはこれほど厳しい命令を出したのでしょうか。このことを思いつつ、ヘブライ人への手紙9章11節から14節に聞いてまいりたいと思います。
キリストは永遠の贖いを成し遂げられた
ヘブライ人への手紙9章11節と12節の言葉、「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」は現代の日本に住む私たちには理解が困難な文章だと思います。「幕屋」だとか、「雄山羊と若い雄牛の血」や「キリストの血」だとか、「聖所」という言葉は今から2000年ほど前の中東の国ユダヤの文化を知らなければわからないからです。しかし、それらの言葉が分らなくても、この文章は「キリストは、既に実現している恵みの大祭司である」ということ「永遠の贖いを成し遂げられた」ということを伝える文章であることが分れば十分です。
キリストとは? 贖いとは?
キリストというお名前は神がこの世界をお造りになった時から神と共にいた御子と呼ばれるお方のことです。このお方は今から約2000年前に人として生まれイエスと名づけられたお方でもあります。そしてまた十字架で死なれた後に再び人の姿によみがえって天に上り神の右にお座りになっているお方でもあります。つまりこの世界が造られる前から存在し、この世界を創造し支え続けておられるお方です。このことは創世記1章とヨハネによる福音書1章が記しています。
次に「贖い」という言葉ですが、この言葉は馴染みがない言葉だと思います。これはある人に代わって償いをすることを言います。
罪や過ちを犯した人―加害者ですね―この人が償いきれない身体的・精神的・霊的・財産的な損害をその人に代わって担うことです。
被害を受けた人―被害者ですね―この人にとっては償ってもらっても残る損失や喪失を補い、癒してもらうことです。財産の損失であれば元に戻る可能性がありますが、身体・精神・霊的な損失はこの世のものでは償うことができません。人は根本的には霊的に癒されなければ加害者を赦すことはできません。
キリストの贖いは加害者の罪をキリストの命によって赦し、被害者の怒りを同じくキリストの命によって鎮めて平安にします。キリストは罪を犯してこれ以上生きていくことができないと思っている人を「あなたは私にとって価値ある人だから生きていなさい」と言って励まし、その人に代わって死なれます。またキリストは殺したいと憎しみを抱いている人を「あなたは私にとって価値ある人だから、私を殺しなさい」と言って、その人の怒りをすべて担って死なれます。
献げ物としてのキリスト
13節と14節には「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の霊によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」と書かれています。
イエス様がこの世界に来られるまでは祭司が動物の命をささげて人間を清めて聖なる者にしていました。この動物は傷のない家族同然のものが選ばれました。一番失いたくないものを自分の身代わりとしてささげるという本人や家族にとって辛いことをすることによって汚れた者が聖なる者にされたのです。しかし人間が行う祭儀は完全なものではないため罪を犯した時や毎年の贖罪日にこの祭儀を繰り返さなければなりませんでした。
不完全な祭儀であっても神が人を聖い者にしてくださったのですから、罪のないイエス様が神にささげられたのですから神は完全に私たちを聖い者にしてくださいます。キリストの血すなわちイエス様の命は人の心を悪い思いから清められた良心に変える力を持っています。イエス様の十字架のメッセージは「あなたは罪に絡めとられて罪を犯したが、神の目には価値ある存在だ。私があなたの代わりに死ぬから、あなたは生きなさい。」というものです。そしてイエス様は私たちの代わりに何の弁明もせずに罪人として死なれました。
イエス様は「あなたはこのことを信じるか」と問うておられます。私たちが「はい、信じます」と答えるならば、イエス様はペトロに問われたように私たちに「私を愛しているか」と何度も問うでしょう。その時私たちはペトロのように「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(ヨハネ21:15~17)と答えるしかなくなります。だって私のために、私に代わって死なれたお方ですからそう答えるほかはありません。
神を愛し憎しみから解放される
先日、「映像の世紀」という番組を見ました。それは戦前にはドイツ領だった地域に住んでいたドイツ人が敗戦後に仕返しを受けて殺されたり、土地や財産を奪われてドイツ国内に追いやられたことを取り上げた番組でした。私はこの番組を見ていて憎しみの連鎖によって暴力が続いてしまう人間の悲しみを感じました。ナチスドイツが勢力を誇っていた時に肉親を殺され、住む場所を追われた人たちが戦争に負けたドイツ人に復讐した気持ちもわかるし、ドイツ人と言っても昔から住んでいた人たちが迫害を受けなければならなかった悔しさも理解できます。
そして私は思うのです。イエス様が最も重要な教えとして私たちに命じる『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:34~40、マルコ12:31~34、ルカ10:27~28)ということが、本当に重要なことなのだと思うのです。この第1の「あなたの神である主を愛しなさい」という命令は先ほど私たちが耳にした申命記に書かれている言葉です。
もしイエス様が十字架によってご自分の命を犠牲にして私たちを罪の束縛から自由にしてくださったことを、私たちが神の愛のしるしとして受け止めることなく感謝することもないのであれば、モーセが厳しく命じる「主を愛する」ということは単なる命令に過ぎなくなります。しかし、もしイエス様の十字架の死を神の愛のしるしとして受け止め、神を愛するならば、憎い相手であっても赦すことができるでしょう。
キリストの命が私たちを変える
キリストの命が私たちを清い良心に変えてくださいます。私たちはキリストの贖いを信じて、傲慢になることも絶望することもなく、清い良心によって主を愛する生き方をしたいと思います。それは心が満たされた喜びの人生です。