聖書 列王記上17章8~16節、ヘブライ人への手紙9章24~28節
キリストは天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださいました。
(ヘブライ人への手紙9章24節より)
神の言葉の宣べ伝え(説教)
人生の坂
人生には上り坂と下り坂があります。若い人はこれから上りも下りも経験するでしょう。高齢になってくるとなんとなくずっと下り坂を下りていっているような感じがするかもしれません。調子が良い時は少なく、調子が悪い時が長く続くように思います。そしてもう一つの坂である「まさか」はどの年代にもかかわらずやってきます。想定外のことが起きるのです。それは実に私たちを動転させます。私にも「まさか」が起きました。いろいろな「まさか」がありましたが、一番大きなまさかは私が牧師になったことです。いろいろ説明する言葉は持っていますが、、牧師になる方向に引っ張られたというのが本当のところです。皆さんにも突然の出来事にどうして良いか分からなくなった経験がおありだと思います。
罪とは希望を失うこと
先ほど読まれた旧約聖書の列王記には夫に先立たれた女性のことが書かれていました。この夫は突然亡くなったのか長い闘病の後に亡くなったのかは分かりませんが、亡くなった後にこの女性の境遇は一変しました。「まさか」が彼女に起きたのです。きっと収入が絶たれてしまったのでしょう。女性は遂にあと1食分の小麦粉と油しかなくなってしまいました。薪を拾って最後の食事をしたら、後は子どもと死ぬしかない状態でした。その時、一人の預言者エリヤが声をかけてきました。彼は主の言葉に従ってその女性に声をかけました。すると女性はきっとうつろな目をしてエリヤを見たことだと思います。もう明日はないと思っている自分に水を求めてきたのです。この女性は生きることの希望を失っていました。そしてサレプタの女性は神に遣わされた預言者エリヤによって救われました。
さて、この救いはどのような救いだったでしょうか。サレプタの女性は尽きない食べ物を与えてもらいました。しかしそれ以上に大切なことは彼女の罪が赦されたということです。人生に希望を失っていることが罪なのです。
私たちは聖書が告げる罪とは十戒に書かれているものだと理解しています。それはその通りです。しかしその先のことを想像してみたいと思います。たとえば、まことの神を拝まずに偶像を拝んでいれば、自分の人生に自信が持てなくなるでしょう。あるいは殺人、姦淫、盗みなどをすれば良心が咎め人生に空しさを感じるようになるでしょう。それは人生に希望を失うことにつながります。生きることに価値を見出せなくなって人生が空しくなっていきます。
多くの人がひどい目や辛い目に遭ったことは覚えていても罪を犯したことはないと思っているのではないかと思います。逆にキリスト者は十戒に書かれていることやそれ以外の罪を犯したことを自覚しすぎて自分に嫌気がさしたり、自分を嫌いになることがあるのではないかと思います。つまりキリスト者であろうと、そうでなかろうと、人が人生に希望を持てないようになるのは神の御心に反しており、罪を犯しているということなのです。そんな時には、神に求めていないということが大いにあります。自分の努力ではどうにもならないから希望を失うのです。
罪を完全に執り成すお方、キリスト
ところがこのような罪を完全に執り成して私たちをお救いくださり、再び生きるようにしてくださるお方がおられます。そのお方がイエス・キリストです。ヘブライ人への手紙9章24~28節にはキリストがご自分を信頼して待ち望んでいる人々に救いをもたらすことが記されています。
24節に「キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった」と書かれています。地上の聖所は天にあるまことの聖所のコピーなのです。キリストは天にあるまことの聖所にお入りになってキリストの父なる神の前にいてくださいます。
26節には、キリストは「天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。」と証しされています。
キリストがご自身をいけにえとして献げるということは苦しみを伴うみわざでした。「罪を取り去るため」は原典では「罪を廃止するため」と書かれています。つまり、キリストはご自身を献げて「罪を無力化」してくださいます。この罪の無力化とは人生の希望を取り戻すということです。ローマの信徒への手紙6章23節には「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と書かれています。ここでいう「死」とは肉体の死ということだけではなく、人生に希望を失っていることを意味します。生きていても死んでいると同然の状態です。イエス様はこの罪をすでに取り去ってくださいました。私たちの主イエス様を信じるならば、人生の「上り坂」も「下り坂」も「まさか」も、それによって私たちが罪に絡めとられ希望を失わせることはできません。私たちはひと時、立ち止まることはあっても、再び主の道を進んでいくことができます。
27節には「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と書かれています。私たちは、人は死ぬということを知っています。そしてその後の裁きが定まっています。裁きがあることは聖書が示していることですので間違いありません。しかしキリストを信じる者は恐れることはありません。
28節に「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」と書かれています。
キリストを信じる者は一人で神の前に立って裁きを受けるのではなく、キリストがいわば弁護人として私たちに寄り添ってくださいます。罪を犯していたとしてもキリストを信じて悔い改めて立ち直ったのですから、そのことを私たちは弁明することができますし、キリストが私たちを執り成してくださいます。「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」というのはキリストの再臨を示しています。キリストの再臨を待ち望んでいる人々には完全な救いが与えられます。それは私たちの復活の希望です。死んでなおキリストを信じる人には希望があるのです。
自分でも気づかない困窮をも知って憐れまれる主
ドイツの神学者ティーリケは次のように書きました。
「父は我々の最も深い困窮と隠れていることをご存知である」、とイエスがそのように父を示されるとき、イエスはちょうど母親が、病んでいる或いは痛みを感じている小さい子どもを見るように、われわれ人間を見ておられるのである。この小さい子どもはほんとうには自分のどこが痛んでいるのか言うこともできないが、しかし大きく見開いた助けを求める目をもって、その母親を見つめている。しかし母親は子どもが何も言うことができなくても、何が彼を痛ませているのかを知っており、その故にまさしく適切な場所に手を伸ばすのである。父は、あの母親が子どもに対してそうであるように、憐れみ深くあられるので、主は、主を恐れ、困窮のただ中で主に呼び求め、しばしばまったく誤った困窮を申し述べる者をも憐れまれるのである。
このような言葉です。御子キリストの父なる神は私たちを造られた私たちの父なる神でもあります。私たちが生きづらさを感じているが理由がはっきりわからなくても、あるいはその理由に気づいていなくても、神はご存知だとイエス様が父なる神を証しされる時に、イエス様は私たちに痛みを与えているものが何であるかをよくご存じであって、人間ではだれも手を伸ばすことのできない私たちの内なるその場所に手を伸ばしてくださるのです。ちょうどサレプタの女性が生きる希望を失っている時に預言者エリヤを遣わしたように私たちの一番深い必要に手を伸ばしてくださいます。
希望を持って生きよう
私たちが「この世界はもうだめだ」とか、「人生終わった、もう死を待つだけだ」と思い世の中や自分を悲観して諦めることは罪であることを知りました。そしてキリストは私たちの罪を完全に赦してお救いくださるお方であることを知りました。私たちは人生や自分自身を諦める罪から解放していただき、再び立ち上がって心満たされて歩むことができるようにキリストに祈りたいと思います。