聖書 ダニエル書12章1~3節、ヘブライ人への手紙10章19~25節
かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、
ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ人への手紙10章25節より)
神の言葉の宣べ伝え(説教)
秋の実り
今日は教会の暦では収穫感謝日です。秋にはいろいろなものが実ります。農家の人たちは肥料を作り、土を作って、草刈りや水やりなどの手入れをして、ようやく豊かな実りを得ていることだと思います。授粉するための媒介となる虫や鳥たちも大切な働きを担っています。今日は私たちに食べ物を与えてくださる神に感謝しつつ礼拝したいと思います。
里山には多様な植物や動物が生息しています。昔は「木々は日の光をたくさん浴びるために高く伸びる、そしてその競争に敗れた木や下草は大きく育つことができない」と言われていました。しかし最近の研究によると、高く育った木はその根を通して周辺の木や植物に栄養分を与えているので低い木や下草も育つということが分って来たそうです。
木々や植物は夏の暑さや水不足や日照不足といった試練を受けて成長し、実をつけます。人間もこの世に生を受けてからいろいろな試練に遭いながらもそれを乗り越えて豊かな実りの時期を迎えます。人の実りは目で見ることができませんが、一人ひとりの人生に実りがあります。
苦難の後の実り
本日、私たちが耳にしたダニエル書は紀元前160年頃にシリアの王であったアンティオコス4世エピファネスによって迫害されたユダヤ人を励ますために書かれました。厳しい迫害の中で書かれたため、時代を400年ほど遡らせて、紀元前600年頃の南ユダ王国に設定されています。暗示的に神の御言葉を伝える文書は黙示録とよばれており、ダニエル書は旧約聖書の黙示録と位置付けられています。
12章1節には「その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう」という言葉があります。そしてヘブライ人への手紙10章25節には「かの日が近づいているのをあなたがたは知っている」という言葉がありました。この2つの言葉は「終わりの日」から現在を見通しています。
「終わりの日」とは主イエス・キリストが再び地上に来て下さる日です。イエス様は再び来ると弟子たちに約束して天に上られました。黙示録21章1節にはこの日に新しい天と地が創造されることが幻として語られています。またマタイによる福音書24章にはその時にイエス様は選ばれた人たちを四方から呼び集めると約束されたことが記されています。さらにテサロニケの信徒への手紙一の4章には「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、生き残っている者が彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」と記されています。これらも黙示の言葉ですが、このように「終わりの日」はキリストを救い主と信じた人々にとって希望の日なのです。
12章1節の後半からもう一度お読みします。
その時まで、苦難が続く
国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
しかし、その時には救われるであろう
お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
ある者は永遠の生命に入り
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き
多くの者の救いとなった人々は
とこしえに星と輝く。
これは先ほど私が引用した新約聖書の「終わりの日」に関する言葉と響き合っています。苦難が続くとしても終わりの日には主を信じた人々には栄光が与えられるというのです。
人は主を信じていようと信じていなくても苦難に遭います。しかし主を信じている人たちはその信仰のために苦しみを受けるという、いわばあえて苦難を選び取るということが起きます。ダニエル書が書かれた頃の信仰者たちもそのような苦難を受けていたのですが、主はその人々に終わりの日の幻を見せることによって人々を励ましたのです。人々は旧約聖書に示された主の言葉に励まされて、信仰を捨てることなく神を信じて、神に拠り頼んで生きることができました。
実りをもたらす3つの勧告
ヘブライ人への手紙10章19節から25節は、「終わりの日」から今を見ています。19節から22節には、「大祭司イエス様が私たちに代わって十字架で父なる神に執り成しをしてくださり、罪を赦してくださったから、私たちは礼拝で神の前に立つことができるようになった」ことが記されています。19節に「聖所に入れると確信しています」と書かれていますが、これは神の御前で礼拝することが許されたということを表しています。礼拝もキリストの執り成しによって私たちが清められてできるということを知ると、私たちに礼拝できることの喜びが湧いてきます。
21節と22節は私たちへの勧めの言葉です。「わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と書かれています。
「心は清められて、良心のとがめはなくなる」というのは11月3日の主日礼拝で「良心を清めてくださる主」という御言葉を聞きましたが、そのことをここで繰り返しています。「体は清い水で洗われています」は洗礼のことが示されています。洗礼では聖霊が私たちに降り私たちを聖いものにしてくださいました。罪によって未来に希望を失った状態、自分の存在があやふやな状態から私たちを解き放ち、神と共に生きることを得させていただきました。私たちが知る以上に洗礼の恵みは大きいのです。そして「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と勧告されています。
23節から25節にキリスト者に対する3つの勧告の言葉が書かれています。第1は「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」です。これは「私たちが信じている信仰を言葉で言い表すという信仰告白」のことです。これは6月30日の創立40周年記念礼拝で木下宣世牧師が私たちに語ってくださった「福音に堅く立つ」ことです。
第2は「互いに愛と善行に励むように心がけようではありませんか」(24節)です。この愛は自分のように隣人を愛する愛です。善行は「良い行い」のことです。良いことをするのに恥ずかしがることやためらう必要はありません。相手のことを思い、その人のためにと思えることをすることは神に喜ばれます。
第3は「集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(25節)です。「かの日」という言葉で「終わりの日」のことが示されています。ここに書かれている「集会」は礼拝といった神の名によっておこなわれる集いのことです。
「励まし合う」という言葉はギリシア語原典では「慰める」という意味を持っています。まず先に天におられるイエス様が聖霊を通して私たちを慰めて励ましてくださいます。そのイエス様のお働きによって私たちは互いに慰め、励ますことができるのです。
この3つの勧告を命令として受け取ってしまえば、私たちはこれを守ることに汲々としてしまうでしょう。いわゆる「立派なキリスト者」にならなければならないという誘惑に陥ってしまいます。そうすると心から喜んでおこなうことがなくなり、表面的に勧告を守るようになってしまいます。それはイエス様が批判されたファリサイ派の人々や律法学者の生き方です。
命令ではないことをどのようにして覚えておくことができるでしょうか。その鍵となるのは「終わりの日」、イエス様が再び来てくださる日を思い描くことにあると思います。その日にはイエス様を信じた人々は「目覚めて大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。」のです。
互いに励まし合いましょう
アルフォンス・デーケンさんという上智大学教授でイエズス会の司祭だった人がいました。デーケンさんは「生と死を考える会」を発足させ、終末期医療の改善やホスピス運動の発展などに尽くしたことで良く知られています。この人の文章を週報の裏の「牧師室から」に書いていますのでお読みいただければと思います。この人は、死について学ぶことは生について学ぶこと、と言っていたそうです。私たちは死ななければなりません。これはだれも避けることができません。デーケンさんはこの世の生には限界があることを認識することで1日1日を大切に、精一杯生きることができることを伝えています。若い人も決して他人事ではありません。
「1日1日を大切に、精一杯生きる」とはどの様な生き方でしょうか。私はヘブライ人への手紙に書かれている3つの勧告に従って生きることだと思います。ちょうど木々や植物が共生して、すなわち共に支え合って豊かな実りをつけるように、私たち人間は福音に堅く立ちつつ、互いに愛と善行に励むように心がけ、ますます励まし合おうではありませんか。そのことによって私たちは目には見えなくても豊かな実をつけるのです。