11月24日礼拝説教「世を統治される主」

聖書 ダニエル書7章9~14節、ヨハネの黙示録1章4~8節

見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。(ダニエル書7章13-14節)

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(ヨハネの黙示録1章8節)

神の言葉の宣べ伝え(説教)

今日は教会暦で1年最後の礼拝

教会の暦では今週は1年の最後の週です。来週の待降節、アドベントから新しい年が始まります。教会暦はアドベントからペンテコステまでが神の救いの歴史が語られ、ペンテコステ後から次のアドベントまでが信仰者の信仰生活にかかわる神の導きが語られます。

教会では創立40周年を感謝して、それを祝う行事をおこなってきました。今年の6月30日の礼拝を創立40周年記念礼拝として、この教会を長年見守り指導してくださった西千葉教会の前任牧師の木下宣世先生をお呼びして説教していただき、また、ささやかな祝会を行いました。そしてこの日に約1年間かけて編集した「創立40周年記念誌『契約の虹』」を発行しました。また10月12日土曜日にはプロの音楽家を招いて創立40周年記念演奏会を開催しました。

教会は40年の間に様々な困難を経験しましたが、その都度、主の恵みを数えながら導きを信じて歩んでまいりました。4月からは41年目の歩みをおこなっています。今も困難がなくなったわけではありませんが、主に信頼し、この地で祈りつつ信仰生活を送ってまいりましょう。

今日はこの1年の礼拝の締めくくりとして、黙示の文書が読まれました。大きな迫害が起きている時にキリスト者を励ますための文書は黙示のかたちで書かれます。黙示とは「黙して示す」と書きますから、謂わば神からの暗号文のようなものです。黙示文書は解読の鍵が分らなければ意味不明の文書です。旧約聖書は「ダニエル書」、新約聖書は「ヨハネによる黙示録」です。

黙示文書に示された幻

ダニエル書7章には「終わりの日」の幻が記されています。この幻の記述は7章2節から始まっていますが、本日与えられたみ言葉は9節から14節です。

9節と10節にはこのように書かれています。

なお見ていると、/王座が据えられ/「日の老いたる者」がそこに座した。その衣は雪のように白く/その白髪は清らかな羊の毛のようであった。その王座は燃える炎/その車輪は燃える火、その前から火の川が流れ出ていた。幾千人が御前に仕え/幾万人が御前に立った。裁き主は席に着き/巻物が繰り広げられた。

9節、10節の「日の老いたる者」というのは神のことです。神は王座にお座りになり、多くの人々が神に仕えているさまが描かれています。

11節と12節は「終わりの日」に地上の王たちが倒され解放の時が来たことを示しています。終わりの日とはキリストが再び来てくださる日のことでキリスト者はこの日を待ち望みつつ毎日を送っています。

13節と14節には

夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

と書かれています。「人の子」とはキリスト・イエス様のことです。もちろんこれは旧約聖書ですから当時は「人の子」がどなたかを知ることはできませんでしたが、旧約時代を生きた人々は「人の子」と呼ばれるお方が天の雲に乗って神の前に来て、権威、威光、王権を受け、すべての人はそのお方に仕えることを信じていました。そのお方はとこしえに世を支配されることが幻として語られています。イエス様誕生の約150年前にこのような幻が示されていたのです。

私たちを王としてくださったキリスト

それではもう一つの黙示の書であるヨハネの黙示録を読んでまいりましょう。1章4節から6節にはキリストをたたえる言葉がならんでいます。私たちがキリストをたたえたいと思う時に、この箇所は私たちが祈る時の大変良い参考です。まず4節から6節までをお読みします。

ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。

キリストは「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」です。この世界が存在する以前から存在し、この世界が無くなっても存在されるお方です。父と子と聖霊の神は相互に関係しながら創造と秩序と導きの業をおこなっておられます。

「玉座の前におられる七つの霊」はアジア州の7つの教会に遣わされた聖霊を表しています。「7」という数字は神の働きの完全性を表しており、世界が完成された創造の7日に関係づけられています。

次に、「キリストは証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」です。キリストは証人として、ご自身の御業を確信をもって誠実に語ってくださいます。「死者の中から最初に復活したお方」とはキリストが最初の復活者であるということです。キリスト・イエス様はご自身の復活によって、私たちのために命を獲得してくださいました。

さらにキリストは「地上の王たちの支配者」として地上の王たちを支配し、王たちに命じるお方です。

キリスト賛歌は続きます。「キリストはわたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださったお方」です。キリストは見返りを求めない無償の愛をもって私たちに寄り添い、ご自身を私たちと結び、私たちの救いのために執り成してくださいます。

そして「このキリストがわたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださいました」。キリストは私たちに王としての自由、いかなるものも侵すことのできない支配者の権利を与えました。キリストを信じることによって私たちは世界を越えて立ち、いかなる敵も私たちから奪うことのできない命を受け、必ず成就することが約束されている使命を行うのです。

7節には「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」と記されています。「その方が終わりの日に雲に乗って来られる」のです。この言葉はダニエル書7章13節の「見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り」、という幻を思い出させます。「終わりの日」はイエス様が約束された再臨の日です。7節後半の言葉は旧約聖書のゼカリヤ書12章10節の言葉です。

8節の言葉

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

は全能の神がご自身を明らかにした言葉です。このお方のみが希望の根拠であり真理とを持っています。この神はキリストと共に、私たちに死に勝つ勝利をお与えになります。

キリスト者が王とはどういう意味

ヨハネの黙示録1章6節に「(キリストは)わたしたちを王としてくださった」という言葉がありました。この王とはどんな王でしょうか。あらゆる贅沢と全てのものを支配する権力を持っている王でしょうか。このことに関して宗教改革者マルティン・ルターは次のように書きました。

信仰者が本当に素晴らしいのは、死や悪魔、地獄やあらゆる不幸の上に立つ主人だからである。信仰者にとっては、死は命であり、悪魔は藁人形であり、罪は義であり、不幸は幸運、貧は富である。それは、信仰者があらゆるものの主人であると同時に、信仰者は神のものであって、神を友として、いや、愛する父としてもっているので、信仰者は富や立派な宝物やあらゆる財貨や、心の充満を何によって見出すかを誰にも尋ねない。

キリスト者は神に自分の存在の基があることを知っていますから、何ものもその人の存在を脅かすことはなく、心は満たされている、だから王なのです。

神に知られていることの平安

ナチス・ドイツに抵抗して終戦間際に死刑となったボンヘッファーという牧師がいました。この人の『私は何者か』という詩の一部を紹介します。

私は何者か。
悠然として、晴れやかに、しっかりした足どりで、
領主が自分のやかたから出て来るように獄房から私が出て来ると人は言う。

私は本当に人が言うような者であろうか。
それとも、ただ私自身が知っている者にすぎないのか。
籠の中の鳥のように、落ち着きを失い、憧れて病み、
のどを締められた時のように、息をしようと身をもがき、
色彩や花や鳥の声に飢え、やさしい言葉、人間的な親しさに恋いこがれ、
恣意や些細な侮辱にも怒りに身を震わせ、
大事件への期待に追い回され、
はるかかなたの友を思いわずらっては気落ちし、
祈り、考え、活動することに茫然とし、意気阻喪しつつ、
あらゆるものに別れを告げる用意をする。

私は一体何者なのか。
この孤独な問いが私をあざ笑う。
私は何者であるにせよ、
ああ神よ、あなたは私を知り給う。
私はあなたのものである。

この詩を読んで思うのは、キリストが私たちを王にしてくださったということは私たちが王のようにふるまうことではなく、ご自分の命によって罪から解放してくださったキリストが一人ひとりを本当の意味で知っていてくださることの安心にあるのではないかということです。その安心感つまり魂の平安が私たちを王にするのです。王のように振舞おうとしなくても、自分の未来を主に委ねて心が満たされているならば、その人は既に王としてこの世界に立っています。